十六観
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じゅうろくかん
『観経』 に説かれる
『浄土真宗聖典(注釈版)七祖篇』本願寺出版社
区切り線以下の文章は各投稿者の意見であり本願寺派の見解ではありません。
◆ 参照読み込み (transclusion) ノート:十三観
『観無量寿経』に説かれる,阿弥陀仏の身や浄土のありさまを思い浮べる十三種の観法。これを定善という。
- 日想観 (太陽が沈むのを見て極楽が西にあることを観ずること。)
- 水観 (水と氷の清らかさによって極楽の大地のありさまを観ずること。)
- 地観 (極楽の大地をまざまざに観ずること。)
- 宝樹観 (極楽の不思議な樹木の働きを観ずること。)
- 宝池観 (極楽の池の水を観ずること。)
- 宝楼観 (極楽にある多数の建物を観ずること。)
- 華座観 (阿弥陀仏の台座である蓮華を観ずること。)
- 像観 (仏像を置き阿弥陀仏の姿を観ずること。)
- 真身観 (阿弥陀仏の真実の姿を観ずること。)
- 観音観 (阿弥陀仏に従う菩薩のうち観世音を観ずること。)
- 勢至観 (大勢至菩薩を観ずること。)
- 普観 (あまねく浄土の仏、菩薩、国土を観ずること。)
- 雑観 (阿弥陀仏の身相を観じて、それによって他のさまざまな姿を交えて観ずること。)
◆ 参照読み込み (transclusion) JDS:十六観
じゅうろっかん/十六観
『観経』に説き示される定善十三観と、それに引き続く散善三観のこと。定善十三観は、精神を統一した上で行う善行であり、極楽世界を目の当たりにするために順次に説かれる一三通りの観想を指す。釈尊の仏力によって極楽世界や無量寿仏、観音勢至二菩薩を目の当たりにした韋提希が、未来の衆生はどのようにそれらを見るのかと釈尊に疑問を呈し、釈尊がこれに応えたもの。第一の日想観は、沈む太陽の姿を脳裏に焼き付け、その姿を観想する。第二の水想観は、脳裏に澄んだ水の姿を観想し、次いでその水を氷に変化させ、その氷を瑠璃の大地と想い、それに関する荘厳を観想する。第三の地想(宝地)観は、第二の水想観における瑠璃地の様々な荘厳の一つ一つを脳裏から離れないようにする。第四の宝樹観は極楽の宝樹について、第五の宝池観は極楽の池の水や支流の蓮の華について、第六の宝楼観は極楽の宝楼について観想する。第七の華座観は、無量寿仏を観想するために、まず七宝の地の上に蓮の華を観想する。第八の像想観は、脳裏に無量寿仏が蓮の華の上に坐している姿と、その左右に蓮の華とその上に座する観音勢至の姿を観想する。第九の真身観は、身の丈が六十万億那由他恒河沙由旬にも及ぶ無量寿仏の姿について、第一〇の観音観は観音菩薩の姿について、第一一の勢至観は勢至菩薩の姿について目の当たりにする。第一二の普想観は自身が往生して蓮の華のなかに坐している姿を観想する。第一三の雑想観は一丈六尺の無量寿仏像が池水の上に在すのを、それまでの観想をもとに観想する。こうした定善に引き続き、釈尊は自らの意志により第一四の上輩観、第一五の中輩観、第一六の下輩観の散善三観を説示する。これらは観想というよりも、往生が叶う人々についての分類である。上輩は上行上根の人々であり、中輩は中行中根の人々であり、下輩は下行下根の人々であるという。順に、釈尊の入滅後、大乗の教えに出逢えた凡夫、小乗の教えに出逢えた凡夫、善も悪も行ずる凡夫と解され、三輩それぞれに上生・中生・下生の別がある。
【資料】『観経疏』
【参考】浄土宗総合研究所編『現代語訳 浄土三部経』(浄土宗、二〇一一)
【執筆者:袖山榮輝】