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三大諍論

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2022年6月27日 (月) 14:05時点における林遊 (トーク | 投稿記録)による版

さんだい-じょうろん

 『御伝鈔』などに説かれる法然門下における同門の門弟と御開山の三つの諍論。

信行両座

御開山が法然門下におられた時に新参者の身にして法然門下の先輩の門弟の安心を、「」か「」に分ける場を設けられたといふ。『御伝鈔』上巻6段(註 1048)にある覚如上人説の伝説。覚如上人の「行」に対して「信」を強調するための創作だと思われる。

梯實圓和上は『口伝鈔』229 で、

体失・不体失往生の論争について
 さて『口伝鈔』の体失、不体失の論争では、証空上人の体失往生説は諸行往生説であり、臨終業成説であって異義であり、親鸞聖人の不体失往生説こそ念仏往生説であり、平生業成説であって正義であると判定されています。
 しかし『選択集』撰述の座に列しておられたほどの上人が諸行往生説をとなえておられたはずはないし、上人は後々まで、念仏一類往生(ねんぶついちるいおうじょう)を強調して、諸行本願説 (九品寺義)や、念仏諸行二類各生(かくしょう)説(鎮西義)を厳しく批判されていました。ただその諸行開会説は、法然聖人の諸行を厳しく廃捨する選択廃立説と少し違うところがあるという批判を込めて、『口伝鈔』はこの挿話を収録されたのでしょう。また体失往生説にしても、上人はこの論争を機にして転換されたというのならば別ですが、後に即便往生当得往生とを分けて、現生の即便往生を強調する証空上人が、体失往生だけを主張されたとは考えられません。もっとも覚如上人は、この論争を機縁として証空上人は回心されたといわれるのかも知れませんが······

とされておられた。→一類往生・二類往生