一念までの
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いちねんまでの
慶信が「一念するに」と書いていたのを、親鸞聖人が訂正された。一念義的な誤解をさけるためである。(消息 P.761)
出典(教学伝道研究センター編『浄土真宗聖典(注釈版)第二版』本願寺出版社
『浄土真宗聖典(注釈版)七祖篇』本願寺出版社
区切り線以下の文章は各投稿者の意見であり本願寺派の見解ではありません。
『浄土真宗聖典(注釈版)七祖篇』本願寺出版社
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慶信が、
- 無碍光如来の摂取不捨の御あはれみのゆゑに、疑心なくよろこびまゐらせて、一念するに往生定まりて、誓願不思議とこころえ候ひなんには、
と記述していたのを、
- ただし、「一念するに往生定まりて誓願不思議とこころえ候ふ」と仰せ候ふをぞ、よきやうには候へども、一念にとどまるところあしく候ふとて、御文のそばに御自筆をもつて、あしく候ふよしを入れさせおはしまして候ふ。
- 蓮位にかく入れよと仰せをかぶりて候へども、御自筆はつよき証拠におぼしめされ候ひぬとおぼえ候ふあひだ、をりふし御咳病にて御わづらひにわたらせたまひ候へども、申して候ふなり。
と、「一念までの往生定まりて」と訂正された。
また、同じく次下に、
- まさしき真実報土にいたり候はんこと、この度一念にとげ候ひぬるに、
と記述していた文を、
- まさしき真実報土にいたり候はんこと、この度一念聞名にいたるまで、
と、訂正されたおられた。一念の語に固執することなく『大経』に「乃至」と説かれている一念の意味を示そうとされたのであろう。
これによって御開山は、いわゆる一念義ではないことが判る。なお、ここで慶信が記している「一念」とは一声の称名である。それは、御開山の示される一念とは、「念劫融即」における一念であり、それを「多念にあらず一念にあらず(非多念 非一念)」(信巻 P.246) とされておられた。いわゆる一念覚知に拘泥する輩に対する教戒であった。
- →一念多念証文での信の一念
- →行の一念
- →信の一念
- →行信不離
- →トーク:行信不離