自力念仏
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じりき-ねんぶつ
阿弥陀仏の本願力によらず、自己の行ずる念仏の功徳で往生を遂げようという心で称える念仏のこと。
そもそも、念仏とは選択本願の阿弥陀仏の回向したまう「行業」であり自力念仏ということはあり得ない。念仏は、因位の法蔵菩薩が選択された往生浄土の行法であるからである。しかして、『阿弥陀経』に説く、
- 舎利弗、不可以少善根福徳因縁得生彼国。
- 舎利弗、少善根福徳の因縁をもつてかの国に生ずることを得べからず。(小経 P.124)
の文に着目し「多善根福徳因縁」の大善大功徳である念仏を自らの功徳であると取り違えて修するから自力の行業になってしまうのであった。 御開山は、その真門の意を、
- 真門の方便につきて、善本あり徳本あり。また定専心あり、また散専心あり、また定散雑心あり。雑心とは、大小・凡聖・一切善悪、おのおの助正間雑の心をもつて名号を称念す。まことに教は頓にして根は漸機なり。行は専にして心は間雑す。ゆゑに雑心といふなり。定散の専心とは、罪福を信ずる心をもつて本願力を願求す、これを自力の専心と名づくるなり。(化巻 P.399)
と、「教は頓にして根は漸機なり」といわれていた。念仏(なんまんだぶ)は、頓に往生成仏の法であるのだが、それを行ずる根機が罪福を信ずる心〔信罪福心〕によって自力の法にしてしまうのである。なんまんだぶ(名号)には真仮は無いのだが機の失によって自力念仏に堕すのであった。
御開山が、
- おほよそ大小聖人、一切善人、本願の嘉号をもつておのれが善根とするがゆゑに、信を生ずることあたはず、仏智を了らず。かの因を建立せることを了知することあたはざるゆゑに、報土に入ることなきなり。 (化巻 P.412)
と、された所以である。御開山は仏道の正因として、信心正因(横超の菩提心正因)を示されたのであった。それが行信不離の、
- まことに知んぬ、至心・信楽・欲生、その言異なりといへども、その意これ一つなり。なにをもつてのゆゑに、三心すでに疑蓋雑はることなし、ゆゑに真実の一心なり。これを金剛の真心と名づく。金剛の真心、これを真実の信心と名づく。真実の信心はかならず名号を具す。名号はかならずしも願力の信心を具せざるなり。このゆゑに論主(天親)、建めに「我一心」(浄土論 二九)とのたまへり。また「如彼名義欲如実修行相応故」(同 三三)とのたまへり。(信巻 P.245)
とされる「行中摂信」のなんまんだぶであった。自力の名号(なんまんだぶ)は「名号はかならずしも願力の信心を具せざるなり」とされた所以である。→四法、→行信
- 閑話休題
時々、自力の念仏と他力の念仏を、能動と所動(能所)の語に幻惑されて「私にはお念仏が出ません」という門徒がいる。便秘なら出ませんということもあろうが、なんまんだぶが口から出ないなら努力して舌を動かして〔なんまんだぶ〕と称えればいいのである。
「信心正因 称名報恩」という真宗坊主の説く言葉に幻惑されて名体不二のなんまんだぶが称えられないのであろう。TPOを考慮せずになんまんだぶを称え、周囲から「くせ念仏」と揶揄されていたばあちゃんが悩んでいたときに、じいさんが、たとえ癖の空念仏でも阿弥陀様が実を入れて受け取って下さるから、こっちが心配するな、と言っていたものである。
深川倫雄和上は、
- さてこの御たすけの法を頂き、ご恩尊やと称え且つ聞いて慶ぶ所を、「このうへの称名はご恩報謝と存じ」と出言しました。ここに称名はご恩報謝というのは、称名の称、即ち称えるということが報謝であるということであります。
- 称えるのは私、称えられるのが名号。称えようと思う心も、舌を動かし息を出す仕事も私のするで、これはご恩報謝。称えられる名号は、如来回向の正定業であります。お六字の意味を「有り難うございます」と領解してはなりません[1]。本願に「乃至十念」とありまして、称名は信仰生活の第一です。何はともあれ、お称名をして暮らすことであります。 平成7年「改悔批判」
と、なんまんだぶを称えなさいよ、とのお示しであった。「称」はわたくしの努力であり、「名(号)」として聞えて下さるのが「そのまま来いよ、間違わさんぞ、待っておるぞ」という「本願招喚の勅命」であった。
真宗の学僧大厳師は、
- 罔極仏恩報謝情 (罔極の仏恩報謝の情)
- 清晨幽夜但称名 (清晨幽夜ただ称名)
- 堪歓吾唱雖吾聴 (歓びにたえたり、われ唱えわれ聴くといえども)
- 此是大悲招喚声 (これはこれ大悲招喚の声)
と、なんまんだぶという自らの称える声に本願招喚の勅命を聞かれたのであった。
この漢詩の意を、原口針水和上は、より解りやすく和語にされ、
- 我れ称へ 我れ聞くなれど
- 南無阿弥陀 我をたすくる 弥陀の勅命
と、讃詠されたのであった。甲斐和理子は、
- み仏(ほとけ)の み名を称える
- わが声は わが声ながら 尊かりけり
と詠っておられたのであった。ありがたいこっちゃな。なんまんだぶ なんまんだぶ