悪人正機
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あくにん-しょうき
阿弥陀仏の平等の慈悲を表す語。正機とはまさしきめあて(救済の対象)という意で、阿弥陀仏の本願による救いは自らの力で迷いを離れることができないもの(悪人)のためにあることをいう。 『涅槃経』には慈悲のはたらきが悪人に焦点を合わせていることを父母の子に対する愛情に喩え、
- 「たとへば一人にして七子あらん。この七子のなかに一子病に遇へば、父母の心平等ならざるにあらざれども、しかるに病子において心すなはちひとへに重きがごとし。大王、如来もまたしかなり。
- もろもろの衆生において平等ならざるにあらざれども、しかるに罪者において心すなはちひとへに重し。放逸のものにおいて仏すなはち慈念したまふ。不放逸のものは心すなはち放捨す。」(信巻引文 信巻 P.279)
と説かれている。このような悪人正機を示すものとして『歎異抄』第3条が有名である。ここでは、世の人がいう
- 「悪人なほ往生す、いかにいはんや善人をや」(歎異抄 P.833)
と示し、悪人こそをめあてとする本願他力の意趣が明らかにされている。(浄土真宗辞典)
なお、御開山は十三文例で『観経』の「汝是凡夫心想羸劣(なんぢはこれ凡夫なり。心想羸劣なり)」(観経 P.93) を釈して、
とされておられるが悪人正機という語は使われていない。悪人正機説は『歎異抄』にふれた近代人の悪の自覚の観念的な内容として受容されてきた歴史がある。しかして、その淵源は法然門下の勢観房源智上人の言行をしるした『三心料簡および御法語』の、
- 善人尚以往生況悪人乎事《口伝有之》
- 善人なおもって往生す、いわんや悪人においておやの事。口伝これあり。(善人尚以往生況悪人乎事)
であった。法然聖人は、誤解されやすい教説であるから文字にあらわすことなく真意を理解できる弟子のみに口伝されたのであろう。その口伝を『歎異抄』の著者は文字として残したのである。悪人正機説は、廃悪修善を旨とする聖道門仏教を批判的媒介項とする浄土門の論理であった。聖道門仏教では救わわれることのない凡夫(悪人)に開示された教説が悪人正機説なのであった。
現代の浄土真宗の僧俗は「どうせ私は凡夫ですから」という語をもって、自らの煩悩を許容し糊塗する方法とするのだが、ある意味では「慚愧なき真宗は外道に堕する」であった。御開山が〔なんまんだぶ〕を称える意味を、
- 称仏六字 即嘆仏即懺悔
- 仏の六字を称せば即ち仏を嘆ずるなり、即ち懺悔するなり。
{─中略─}
- また「「即懺悔」といふは、南無阿弥陀仏をとなふるは、すなはち無始よりこのかたの罪業を懺悔するになると申すなり」(尊号 P.655)
と、なんまんだぶを称えることには「懺悔」の意味もあるとされたのも、その意であった。もちろん称名〔なんまんだぶ〕は滅罪の懺悔法ではないのだが、真実なるもの(無縁の大悲)に出あった者の讃歎になり懺悔になる「本願招喚の勅命」なのであった。
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