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三心料簡および御法語の訓読

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大正6年に醍醐寺三宝院で発見された『法然上人伝記』、通称、醍醐本の「三心料簡事」の読み下しである。二十七箇条問答ともいう。勢観房源智上人(1183-1238)または弟子が書き記されたといわれる。源智上人は、13歳のとき法然聖人の室に入り、約18年間常時随従して秘書的役割を担ったといわれる。また、法然聖人の最晩年の念仏の領解を述べられた、『一枚起請文』を授けられている。

『三心料簡および御法語』

三心料簡の事

(1)
一、三心料簡事[1]

一、三心料簡の事。
付疏第四仰云。先浄土 悪雑善永以 不可生知。
(しょ)(観経疏)の第四についての仰せに(いわ)く。まず浄土には悪の(まじ)わる善は永く以って生ずべからずと知るべし。 [2]
是以者義分、定即息慮以疑(凝)心、散即廃悪以修善、廻此二行求願往生。文
ここを以って義分(玄義分)には、「はすなはち(おもんぱか)りを()めてもつて心を()らす。はすなはち悪を廃してもつて善を修す。この二行を回して往生を求願す」(*)の文。[3]
又散善義云、上輩上行上根人、求生浄土 断貪嗔。文
また「散善義」に云く「上輩は上行上根の人なり。浄土に生ずることを求めて貪瞋を断ず」(*)の文。[4]
然則(即) 今此至誠心中 所嫌之虚仮行者、余善諸行也。
しかればすなわち、今、この至誠心の中に嫌う所の虚仮の行とは、余善諸行なり[5]
三業精進雖勧、内貪嗔邪偽等 血毒雑故、名雑毒之善 名雑毒之行、云往生不可也。
三業に精進を(すす)むといえども、内に貪瞋邪偽等の血毒(まじわ)るが故に、雑毒(ぞうどく)の善と名づけ雑毒の行と名づけ、往生不可と云ふなり。
是以 礼讃専雑二行得失中、雑修失云。貪嗔諸見 煩悩来間断。
ここを以って『礼讃』の専雑二行得失中の、雑修の失に云く「貪・瞋・諸見の煩悩来りて間断す」[6]と。
故廻此等雑行、直欲生報仏浄土者、尤不可嫌道理也。
故にこれらの雑行(めぐ)らして、ただちに報仏浄土に生ぜんと欲する者は、もっとも不可と嫌う道理なり。
然以身口二業為外、以意業一為内者 僻事也。既云 雖起三業 豈除意業乎。
しかれば、身・口の二業をもって外となし、意業の一をもって内となさんは僻事(ひがごと)なり。すでに「三業を起こすといえども」(*)と云えり、あに意業を除かんや。
又虚仮者、狂惑者云事 僻事。既云苦励身心、又云日夜十二時 急走急作 如炙頭然者。文
また「虚仮」とは、狂惑者ということ僻事とす。すでに「身心を苦励し」と云い、また「日夜十二時、急に走り急になすこと、頭燃を救ふがごとくするもの」と云ふ文。(*)
云何 仮名之行人 如此哉、正是雑行者也。
いかんぞ仮名の行人、この如きなるや、まさにこれ雑行の者なり。
次所選取之真実者、本願功徳 即正行念仏也。
つぎに選取するところの真実とは、本願の功徳すなわち正行の念仏なり。
是以玄義分云。言弘願者、如大経説、一切善悪凡夫得生者、莫不皆乗阿弥陀仏大願業力 為増上縁也。云々
ここを以って「玄義分」にいわく。「弘願といふは『大経』に説くがごとし。一切善悪の凡夫生ずることを得るものは、みな阿弥陀仏の大願業力に乗じて増上縁となさざるはなし」(*)[7]と云々
是以 今文正由彼阿弥陀仏因中 行菩薩行時、乃至一念一刹那三業所修、皆是真実心中作云々。
ここを以て今の文に「正しく彼の阿弥陀仏因中に菩薩の行を行ぜし時、乃至一念一刹那も、三業の修すところ、皆これ真実心の中に作すに由るべし」と云々。
由阿弥陀仏因中真実心中作行 悪不雑之善故云真実也。
阿弥陀仏因中の真実心の中に()すに()る行こそ、悪(まじ)はらざる善なるが故に真実と云ふなり。
其義以何得知。次釈、凡所施為・趣求亦皆真実文。
その義なにを以て知ることを得ん。次の釈に「おほよそ施為(せい)趣求(しゅぐ)するところ、またみな真実なり」[8]の文。
此以真実施者、施何者云、深心二種釈第一 罪悪生死凡夫云 施此衆生也。
この真実を以て施すとは何者に施すと云はば、深心の二種の釈の第一、「罪悪生死の凡夫」(*)と云へる、この衆生に施すなり。
造悪之凡夫 即可由此真実之機也。
造悪の凡夫、すなわちこの真実に()べきの機なり。
云何得知。
云何が知ることを得る。
第二釈 阿弥陀仏四十八願 摂受衆生等。云々
第二の釈に、「阿弥陀仏の四十八願は衆生を摂受す」等と云々。
如此可得心也。云々
このごとく心得べきなり、と云々。
深心中反修余善云事、以余善云事以余行可往生非為答。
深心の中に反じて「修余善(余善を修す)」いう事、余善という事を以って、余行を以って往生すべしと答えんとなすにあらず。
難破言 不可指南也。
難破の言なれば、指南とすべからずなり。[9]
五種正行中観察門事、非十三定善。
五種の正行の中に観察門という事は、十三定善には非ず。
散心念仏行者 極楽有様相像欣慕心也。
散心の念仏行者の、極楽のありさまを相像して欣慕する心なり。
廻向発願心(回向発願心)始、真実深信心中廻向(回向)云事、此三心中、回向(廻向)云心也。
回向発願心の始めに「真実の深信の心中に回向して」という事、これは三心中の回向という心なり。
去過今生諸善者、三心已前功徳取返極楽廻向(回向)云也。
過去今生の諸善は、三心已前の功徳を取返して極楽に廻向せよというなり。
全三心後非云行諸善也云々。
全く三心の後に諸善を行ぜよというにはあらず、と云々。

白道の事

(1)-1
白道事

白道の事。

雑行中願往生心、白道為貪嗔水火被損。

雑行の中の願往生の心は、白道なれども貪瞋水火のために損ぜらる。
以何得知。
何を以って知ることを得る。
釈云 廻諸行業 直向西方也云々。
釈に「(もろもろ)の行業を回(向)して直ちに西方へ向かう」(*)と云ふ、と云々。
諸行往生願生心 白道聞。
諸行往生の願生心の白道と聞きたり。
次専修正行願生心 名願力道。
次に専修正行の願生心をば願力の道と名づく。[10]
以何得知。
何を以って知ることを得る。
仰蒙釈迦発遣指南(向)西方、又藉弥陀悲心招喚、今信順二尊之意、不顧水火二河、念念無遺、乗彼願力之道、捨命已後得生彼国文。已下文是也。
「仰ぎて釈迦の発遣して西方に指(南)向したまふことを蒙り、また弥陀の悲心をもつて招喚したまふによりて、いま二尊(釈尊・阿弥陀仏)の意に信順して、水火の二河を(かえり)みず、念々に(わす)るることなく、かの願力の道に乗じて、命を捨ておはりて後にかの国に生ずることを得」(*)の文已下(以下)の文これなり。
正行者、乗願力道故、全不貪嗔水火損害。
正行の者は、願力の道に乗ずるゆえに、全く貪・瞋・水・火の損害を受けず。
是以譬喩中云、西岸上有人喚言、汝一心正念直来 我能護汝、衆不畏堕於水火難云々。
ここを以って譬喩の中に云く、「西岸の上に人ありて()ばひて言はく、汝、一心正念にしてただちに来れ。 我()く汝を護らん。 (すべ)て水火の難に堕することを畏れざれ」と云々。
合喩中云、言西岸上有人喚者、即喩弥陀願意也云々。
合喩の中に云く、「西岸上に人有りて喚ひて言く」(*)とは、すなわち弥陀の願意に喩えるなり、と云々。
専修正行人 不可恐貪嗔煩悩也、乗本願力白道、豈容被損火(焔)水波哉云々。
専修正行の人は貪瞋煩悩を恐るべからず。本願力の白道に乗ぜり。あに火焔・水波に損ぜられんや、と云々。

念仏と諸善の比校の事

(2)
一、定善中自余衆行雖名是善、若比念仏者、全非比校也云事。

一、定善中に、自余衆行これを善と名づくといえども、もし念仏に比べれば全く比校に非ずなりと云ふ事。
諸行与念仏比校之時、云念仏勝 余行劣 弥諍論不絶事也。
諸行と念仏を比校する時に、念仏は勝れ余行は劣なりと云へば、いよいよ諍論絶えざる事なり。
只念仏本願行也、諸善非本願行也云時、真言法花(法華)等甚深微妙行、全非比校也。
ただ念仏は本願の行なり、諸善は非本願の行なりと云ふ時、真言・法華等の甚深微妙の行も、全く比校に非ざるなり。
存此旨 可云比校義也。
この旨を存じて比校の義をば云ふべきなり。[11]

無智の者、三心具すと云ふ事

(3)
一、無智者三心具云事

一、無智の者、三心具すと云ふ事。
一向心念仏申、無疑往生思、即三心具足也云々。
一向の心にて念仏申して疑い無く往生せんと思へば、すなわち三心は具足するなり、と云々。
私云、一向心者至誠心也。
私に云く[12]、一向の心とは至誠心なり。
無疑者深信也。
疑い無しとは深信なり。
往生思心廻向発願心(回向発願心)也。
往生してんと思ふ心は回向発願心なり。

余行はしつべけれとも、せずと思ふは、専修心なり

(4)
一、余行シツヘケレトモ、セスト思、専修心也。

一、余行はしつべけれとも、せずと思ふは、専修心なり。
余行目出ケレトモ身カナハ子ハエセスト思ハ、修セ子トモ雑行心也云々。
余行はめでたけれとも身かなはねばえせずと思ふは、修せねども雑行心なり、と云々。[13]

造悪の機、念仏の事

(5)
一、造悪機念仏事

一、造悪の機、念仏の事。
造悪身之故念仏申也。
悪を造る身なるが故に念仏を申すなり。
造悪料 非念仏申可得心也云々。
悪を造らむに念仏申すに非ずと心得べきなり、と云々。[14]


善悪の機の事

(6)
一、善悪機事

一、善悪の機の事。
念仏申者、只生付ママニテ申ヘシ。
念仏申さむ者は、ただ生れ付きのままにて申すべし。
善人乍善人、悪人乍悪人、本ママニテ申スヘシ。
此入念仏之故、始持戒破戒ナニクレト云ヘカラス。
只本体アリノママニテ申ヘシト云々。
善人は善人ながら、悪人は悪人ながら、(もと)のままにて申すべし。これ念仏に入る故なり、始めに持戒・破戒なにくれと云ふべからす。ただ本の体ありのままにて申すべし、と云々。[15]
付之問云。本聖道門人持戒帰浄土門之時、捨持戒 持斉修専修念仏、即成破戒過如何。
これに付きて問いて云く。(もと)聖道門の人、戒を(たも)ちて浄土門に帰する時、持戒・持斉を捨てて、専修念仏を修す、すなわち破戒の(とが)と成るや、いかん。
答。念仏行者 欲犯悪之時思。念仏申 此罪滅スヘシト存犯罪、誠悪義也。
答ふ。念仏の行者、悪を犯さんと欲する時に思ふに、念仏を申さば、この罪滅すべしと存じて罪を犯す、誠に悪義なり。
但真言有調伏之法云事、兼憑後調之法故也云事。
ただ真言に調伏之法と云ふ事あるに、兼て後 調之法を憑む故なりと云ふ事なり。
其様 犯罪兼憑本願之滅罪力、全不苦事也云々。
そのように罪犯すかと(あわ)せて本願の滅罪の力を憑むは、全く苦しからざる事なり、と云々。

悪機往生の謂われを知る

(7)
一、悪機一人置此機往生謂ハレタル道理ナリケリト知程習タルヲ、浄土宗善学タルトハ云也。

一、悪機を一人置きてこの機の往生しけるは(いわれ)たる道理なりけりと知りたる程に習たるを、浄土宗を善く学びたるとは云ふなり。
此宗悪人為手本 善人摂也。
この宗は悪人を手本とし、善人までも摂するなり。
聖道門善人為手本 悪人摂也。云々
聖道門は善人を手本となして、悪人をも摂すなり、と云々。

行者の生所は心と行とに依る事

(8)
一、行者生所依心行事

一、行者の生所は心と行とに依る事。
但念仏生極楽国、但余行生懈慢国也。
(ただ)念仏は極楽国に生る、ただの余行は懈慢国に生るなり。[16]
然念仏余善兼行者亦有二。
しかるに念仏余善と兼行の者に二有り。
念仏方心重 雑余行生極楽、余行方心重助念仏生懈慢云々。
念仏の方に心重きは余行を雑えても極楽に生れ、余行の方に心重きは念仏を(すけ)るとも懈慢に生ると云々。

我身に三心を具すことを知る事

(9)
一、知我身具三心事

一、我身に三心を具すことを知る事。
如大経説、歓喜踊躍心既発、可知三心具瑞也。
大経に説くが如し、歓喜踊躍の心、すなわち発したらば、三心具せる(しるし)と知るべし、となり。
歓喜者、往生決定思故喜心也。
歓喜とは、往生決定と思ふ故に喜ぶ心なり。
往生不定歎位(不定嘆位)未発三心也之者也。
往生を不定と歎く位(不定嘆位)は、三心を発せずとは、またこの者なり。
不発三心故無歓喜心、是則致疑故歎(嘆)也云々。
三心を発さざる故に歓喜心無し、これすなわち疑を致す故に歎くものなり、と云々。

一法に万機を摂す事

(10)
一、一法摂万機事

一、一法に万機を摂す事。
第十八願云十方衆生、無漏十方之衆生、我願内込十方也。
第十八願に「十方衆生」と云ふは、十方の衆生、漏るること無し、我が願の内に十方を込めむとなり。
法照禅師云、彼仏因中立弘誓、聞名念我惣来迎、不簡貧窮将富貴、不簡下智与高才、不簡多聞持浄戒、不簡破戒罪根深、但使廻心多念仏、能令瓦礫変成金云々。
法照禅師の云く、「かの仏の因中に弘誓を立つ。名を聞きてわれを念ぜばすべて迎へ来らしめん。貧窮と富貴とを簡ばず、下智と高才とを簡ばず、多聞と浄戒を持てるとを簡ばず、破戒と罪根の深きとを簡ばず。ただ回心して多く念仏せしむれば、よく瓦礫をして変じて(こがね)と成さんがごとくせしむ。」云々。
此文心我身貧窮不造功徳、下知不知法門、破戒雖犯罪障、便廻心多念仏思。云々
この文の心は、我が身の貧窮にて功徳を造らぬも、下知にて法門を知らぬも、破戒にして罪障を犯すといえども、便(すなわ)ち廻心し多く念仏せん、と思ふべしと云々。

無智を本と為す事

(11)
一、無智為本事

一、無智を本と為す事 。
凡聖道門極智恵(智慧)離生死、浄土門還愚痴生極楽、所以趣聖道門之時、瑩智恵(智慧)守禁戒、浄心性以為宗。
おおよそ聖道門は智恵を極めて生死を離れ、浄土門は愚痴に還りて極楽に生まる。ゆえに聖道門に趣くの時、智慧を(みが)きて禁戒を守る、心性を(きよ)むるを以って宗となす。
然入浄土門之日、不憑智恵(智慧)、不護戒行、不調心器、只云 無甲斐成無智者、憑本願 願往生也云々。
しかるを浄土門に入るの日は、智慧をも(たの)まず、戒行をも護らず、心器をも調(ととの)えず、ただ、甲斐無く無智なる者、本願を憑み往生を願へ云ふなり、と云々。
書此状御自筆、禅勝房田舎下京ツトニ取ラセムトテ給タリト云々。
この状を御自筆に書て、禅勝房が田舎に下る京づと[17]に取らせむとて給たり、と云々。
又云、源空念仏申一文不通男女斉申、全年来修学智恵(智慧)一分不憑也。
また云く、源空が念仏申すも一文不通の男女に(ひと)しくして申すぞ、全く年来修学したる智恵をば一分も憑まずなり。
然カク知又クルシカラヌソト云々。
しかれども、かく知りたるも、又くるしからぬぞ、と云々。

『阿弥陀経』の一心不乱の事

(12)
一、阿弥陀経一心不乱事

一、『阿弥陀経』の一心不乱の事。
一心者、何事心一スルソト云、一向念仏申阿弥陀仏心我心一成也。
一心とは、何事に心を(ひとつ)にするぞと云ふに、一向に念仏申せば阿弥陀仏の心と我心と(ひとつ)に成るなり。
如天台十疑論云。如世間慕人能受慕者 機念相投必成其事。
天台の『十疑論』に云ふが如し。「世間の慕人、能く慕を受ければ機念相投して必ず其事を成ずるが如し」。(淨土十疑論)
慕人者阿弥陀仏也、恋ラルル者我等也。
(したう)人とは阿弥陀仏なり、恋せらるる者とは我等なり。
既心発一向阿弥陀、早仏心一成也。
すでに心を一向阿弥陀に発せば、早く仏の心と一に成るなり。
故云一心不乱。
ゆえに一心不乱と云へり。
上少善根福徳因縁念ウツサヌ也云々。
上の少善根福徳因縁に念をうつさぬなり、と云々。[18]

『阿弥陀経』の「善男子善女人」の事

(13)
一、阿弥陀経善男子善女人事

一、『阿弥陀経』の「善男子善女人」の事。
此執持名号身成故、云善男子善女人也。如下品上生一生十悪凡夫 最後一称時 被讃善男子。
この、名号を執持する身となるが故に「善男子善女人」と云ふなり。下品上生一生十悪の凡夫、最後の一称の時、善男子と讃ぜられるがごとし。[19]
実本機五濁悪世悪時衆生也。
実に本機は五濁悪世悪時の衆生なり。
是以観念法門 釈阿弥陀経 今文云若仏在世、若仏滅後、一切造罪凡夫。云々
ここを以って『観念法門』に『阿弥陀経』の今の文を釈し「もしは仏の在世、もしは仏滅後の五濁の凡夫なり」と云ふ、と云々。
可思合。
思い合すべし。

機を定む事

(14)
一、定機事

一、機を定む事。
浄土宗弘於大原談論時、法門比牛角論事不切、機根比源空勝タリシ也。
浄土宗を弘く大原に談論せし時に、法門比べに牛角(互角)の論にて事にて切ならずとも、機根比べには源空勝ちたりし。
聖道門法門雖深今機(不)叶、浄土門似浅今根易叶云之時、人皆承伏云々。
聖道門の法門は深しといえども今の機には叶わず、浄土門は浅きに似たれども今の根にかない易しと云ひし時、人皆承伏しき、と云々。

前念命終後念即生の事

(15)
一、前念命終後念即生事

一、前念命終後念即生の事。
前念後念者、此命尽後受生時分也、非行念、往生称名、称名正覚業。
「前念後念」とは、ここに命を尽きて後に生を受る時分也、行の念には非ず、往生は称名なり、称名は正覚の業なり。
然則称名命終、正定中終者也云々。
しかれば、すなわち称名して命終するは、正定の中にして終はる者なり、と云々。[20]

『阿弥陀経』の難信之法の事

(16)
一、阿弥陀経難信之法事

一、『阿弥陀経』の難信之法の事。
此罪悪凡夫 依但称名 得往生云事、衆生不信也。
この罪悪の凡夫は、ただ称名に依って往生を得と云ふ事を、衆生信ぜざるなり。
依之釈迦・諸仏切証誠云也云々。
これに依って釈迦・諸仏、切に証誠と云ふなり、と云々。

戒・定・慧無き者は念仏すべしと云ふ事

(17)
一、無戒定恵(戒定慧)者可念仏云事

一、戒・定・慧無き者は念仏すべしと云ふ事。
此無下義也。
これは無下(論外)の義なり。
縦雖戒定恵(戒定慧)三学全具、不修本願念仏者不可得往生。
たとい戒・定・慧の三学を全具したりといえども、本願念仏を修せずば往生を得べからず。
雖無戒定恵(戒定慧)一向称名必可得往生也云々。
戒・定・慧無しといえども、一向に称名せば必ず往生を得べしなり、と云々。

乃至一念即得往生の事

(18)
一、乃至一念即得往生事

一、乃至一念即得往生の事。
我等非一念機乃至機也。云々
我等は一念の機に非ず、乃至の機なり、と云々
又乃至十念如此。吾等非十念機乃至機也云々
また乃至十念もこの如し。吾等は十念の機に非ず、乃至の機なり、と云々。
釈上尽一形至十声一声等 定得往生。
釈には「上一形を尽くし十声一声等に至るまで定んで往生を得」なり。
又如此吾等 非下至十声機 上尽一形機也云々。
またこれのごとく、吾等は下至十声の機に非ず、上尽一形の機なり、と云々。

五決定を以つて往生と云ふ事

(19)
一、以五決定往生云事

一、五決定を以つて往生と云ふ事。
一弥陀本願決定也、二釈迦所説決定也、三諸仏証誠決定也、四善導教釈決定也、五我等信心決定、以此義故往生決定也云々。
一に弥陀本願決定なり、二に釈迦所説決定なり、三に諸仏証誠決定なり、四に善導教釈決定なり、五には我等の信心決定、この義を以つての故に往生は決定なり、と云々。

「若存若亡」の事

(20)
一、若存若亡事

一、「若存若亡」の事。
乗本願云存、下本願云亡也。
本願に乗ずるを存と云い、本願より(おる)るを亡と云ふなり。
乗有二義、下有二義。
乗に二義あり、(おるる)にも二義有り。
謂造悪業之時 発道心之時也。
謂く悪業を造る時と、道心を発すの時なり。
造罪時ヲルルトハ者、如此造悪身 定可背仏意 思即ヲルル也、此云亡也。
造罪の時に、おるるとは、このごとき悪を造る身なれば、定んで仏意に背くべしと思はばすなわち、おるる也、これを亡と云ふなり。
道心発時ヲルルトハ者、如此発道心申念仏 叶仏意思即ヲルルニテ有也、此云亡也。
道心発る時に、おるるとは、このごとき道心を発して申す念仏こそ仏意に(かなは)らめと思ふは即ち、おるるにてあるなり、これを亡と云ふなり。
造罪時乗者、罪ツクラルルニ付モ、此本願ナカラマシカハ何為。
罪を造る時にも乗たりとは、罪のつくらるるに付ても、この本願なからましかば(いか)がせむ。
乗此本願之故、雖造悪決定往生ヘシト思乗也、此云存。
この本願に乗ずる故に、悪を造るといえども決定往生すべしと思ふは乗なり、これを存と云ふ。
又道心発時乗者、如此之道心不始于今、我過去生生発。
また道心の(おこ)らむ時にも乗とは、このごときの道心今に始めならず、我れ過去生生にも発しけむ。
然未離生死之故、知道心不救我。
しかれども生死を離れざるの故は、道心を知るも我救われず。
唯仏願力我助候ヘキ。
ただ仏の願力のみ我をば助け候べき。
サレハ道心有無アレ其不顧、唯須称名号生浄土思即乗也。此云存云々。
されば道心は有りもせよ無くもあれ、それをば顧みず、ただ(すべから)く名号を称して浄土に生るべしと思はば、すなわち乗じたるなり。これを存と云ふ、と云々。

平生と臨終の事

(21)
一、平生臨終事

一、平生と臨終の事。
於平生念仏往生不定思、臨終念仏又以不定也。
平生の念仏において往生不定と思はば、臨終の念仏もまた以つて不定なり。
以平生念仏決定思、臨終又以決定也云々。
平生の念仏を以つて決定と思へば、臨終もまた以つて決定なり、と云々。

一念信心の事

(22)
一、一念信心事

一、一念信心の事。
取信於一念、尽行於一形、疑一念往生者、即多念皆疑念之念仏也云々。
信を一念に取り、行を一形に尽くすべし、一念往生を疑う者は、すなわち多念みな疑念の念仏なり、と云々。
又云、一期終一念 一人往生、況一生間積多念功 豈不遂一度往生乎。
また云く、一期の終りの一念は一人往生す、いわんや一生の間の多念の功を積み、あに一度の往生を遂げざらんや。
毎一念 有一人往生徳、何況多念 無一往生哉云々。
一念ごとに一人往生の徳あり、なんぞ多念に一の往生無きかな、と云々。

本願成就の事

(23)
一、本願成就事

一、本願成就の事。
念仏我所作也、往生仏所作也。
念仏はわが所作なり、往生は仏の所作なり。
往生仏御力セシメ給物、我心トカクセムト思自力也、唯須待付称名之来迎。
往生は仏の御力にてせしめ給物を、我心にとかくせむと思ふは自力也、ただ(すべから)く称名に付きたる来迎を待つべし。

『礼讃』の、もしよく上の如く念念相続の事

(24)
一、礼讃若能如上念念相続事

一、『礼讃』の、もしよく上の如く念念相続の事。
往生要集指三心五念四修云如上也。
『往生要集』には三心・五念・四修を指して「如上」と云ふなり。
依之云之三心五念四修中明正助二行、指之云念念相続也云々。
これに依ってこれを云はば、三心・五念・四修の中に正助二行を明かす、これを指して念念相続と云ふなり、と云々。[21]

外の雑縁無くして正念を得るが故にの事

(25)
一、無外雑縁得正念故事

一、外の雑縁無くして正念を得るが故にの事。
此見他大善我心無怯弱云也。
此れは他の大善なるを見て我が心に怯弱無しと云ふなり。
仮令見法勝寺九重塔、我不立一寸塔云無疑心。
たとひ法勝寺の九重の塔を見せしむとも、我れ一寸の塔をも立てずと疑心も無きを云ふなり。
又拝東大寺大仏我不半寸仏云無卑下心。
また東大寺の大仏を拝すとも、我れ半寸の仏をもせずと卑下心無きを云ふ。
称名一念得無上功得、決定可往生思定 云外雑縁得生念故也。
称名の一念に無上功得(徳)を得て、決定して往生すべしと思ひ定めたるを「外雑縁得生念故」[22]と云ふなり。
如此信者念仏、与弥陀本願相応、与釈迦教無相違、随順諸仏証誠ニテアル也。
このごとく信ずる者の念仏は、弥陀の本願と相応し、釈迦の教えと相違無し、諸仏の証誠に随順するにてあるなり。
雑行十三失以此義可得心也。
雑行の十三失は、この義を以って得べし心なり。

請用念仏の事

(26)
一、請用念仏事

一、請用念仏の事。
趣他請修念仏者、有三種利益。
他の請に趣き念仏を修すには、三種の利益あり。
一自行勇猛也、二助旦那願念、三為能衆成利益也。
一には自行勇猛なり、二には旦那の願念を助く、三に、よく衆の為に利益を成ずる為なり。
功徳有体用二、体留自用施他。
功徳には体用の二あり、体は自に留り用は他に施す。
妙楽大師云、以善法体不可与人。已上
妙楽大師の云く、善法は体を以て人に与えるべからず。已上
此釈願以此功徳文之所也云々。
これは「願以此功徳」の文を釈するの所なり、と云々。

善人なお以つて往生す、いわんや悪人おやの事

(27)
一、善人尚以往生況悪人乎事《口伝有之》

一、善人なお以つて往生す、いわんや悪人おやの事《口伝これ有り》。[23]
私云。弥陀本願 以自力可離生死有方便 善人ノ為ヲコシ給ハス。
私に云く。弥陀の本願は、自力を以て生死を離るべき方便有る善人の為におこし給はず。
哀極重悪人 無他方便輩ヲコシ給。
極重の悪人、他の方便無き輩を哀みておこし給ふ。
然菩薩賢聖 付之求往生、凡夫善人 帰此願 得往生、況罪悪凡夫 尤可憑此他力云也。
しかれば菩薩賢聖も、これ付きて往生を求む、凡夫の善人も、この願に帰して往生を得、いわんや罪悪の凡夫もっともこの他力を憑むべしと云ふなり。[24]
悪領解不可住邪見、譬如云為凡夫兼為聖人。能能可得心可得心。
悪しく領解して邪見に住すべからず。譬へば為凡夫兼為聖人(凡夫の為にして兼ねて聖人の為なり)と云ふが如し。よくよく心得べし、心得べし。


初三日三夜読余之、後一日読之、後二夜一日読之。[25]

出典:仏教大学「法然遺文検索用電子テキスト」


参 考

  1. 『観経』の至誠心・深心・回向発願心の三心についての考察。
  2. 『観経疏』第四「散善義」の至誠心釈「貪瞋・邪偽・奸詐百端にして、悪性侵めがたく、事蛇蝎に同じきは、三業を起すといへども名づけて雑毒の善となし、また虚仮の行と名づく。 真実の業と名づけず。もしかくのごとき安心・起行をなすものは、たとひ身心を苦励して、日夜十二時急に走り急になすこと、頭燃を救ふがごとくするものも、すべて雑毒の善と名づく。この雑毒の行を回して、かの仏の浄土に生ずることを求めんと欲せば、これかならず不可なり」七祖p.455の文か?
  3. 七祖p.301 ◇これを定善散善の廃悪修善の《要門》とし、次下の「玄義分」の「弘願といふは『大経』に説きたまふがごとし。 一切善悪の凡夫生ずることを得るものは、みな阿弥陀仏の大願業力(本願力)に乗じて増上縁となさざるはなし」の《弘願門》と対比されている。つまり廃悪修善の《要門》と廃悪修善によらない本願力の《弘願門》の綱格の違いを出す。
  4. 「上輩総讃」七祖p.480。◇浄土教は元来、善悪平等の救いの教法であるので、下輩・下行・下根人を選ばない教えであり、衆生の貪嗔煩悩を断じないままに浄土に往生する。しかるに、易行のなんまんだぶ一行の救いを一心に領解できない余善諸行(雑行)の者は、貪瞋を断じなければ往生できないという文証。
  5. ここで嫌われているのは、なんまんだぶ以外の余善諸行だといふこと。
  6. 七祖p.660 専雑得失(雑行の十三失)の文。「貪・瞋・諸見の煩悩来り間断するがゆゑに」
  7. 七祖p.301 「要弘二門判」。この「玄義分」の文を出すことによって、要門とは別に、阿弥陀仏因中の菩薩行が真実であり、一切善悪の凡夫は、その因中の真実に由る大願業力の弘願門があることを示される。これは又、雑行を捨て阿弥陀仏の大願業力に乗ずることでもある。
  8. 『観経疏』の当面では、施為は利他、趣求は自利の、行者の自利/利他行をいうのであるが、真実(至誠心)の主体を阿弥陀仏であるとして、その真実の至上心を深心釈の第一釈(機の深信)の、罪悪生死の凡夫に施為(利他)するというのである。これはまさに破天荒ともいえる親鸞聖人の至誠心釈の訓点は、法然聖人の意を正確に受け継いでおられることが解かる。なお、法然聖人の『三部経大意』の至誠心釈にも、疏文のままの至誠心では「このほかおほくの釈あり、すこぶるわれらが分にこえたり。ただし、この至誠心はひろく定善・散善・弘願の三門にわたりて釈せり。これにつきて摠別の義あるべし。摠といふは自力をもて定散等を修して往生をねがふ至誠心なり。別といふは他力に乗じて往生をねがふ至誠心なり」とされ、『西方指南抄』の「十七条御法語」などでも「予がごときは、さきの要門にたえず、よてひとへに弘願を憑也と云り」と、定善・散善を要門とされて弘願を憑むべきであるとされている。
  9. 深信釈中の四重の破人についての「専心念仏及修余善 畢此一身後 必定生彼国者(専心に念仏し、および余善を修すれば、この一身を畢へて後必定してかの国に生ず)」七祖p.460の文。
  10. 「回向発願心釈」の第一釈の意や善導大師の回向の用例からいえば、「回諸行業 直向西方也(もろもろの行業を回してただちに西方に向かふ)」の「回」は、本文のように当面は衆生の側からの回向であろう。法然聖人はこの意を「諸行往生の願生心の白道」とされた。また「招喚の願力の道」が説かれているとされた。白道釈には「諸行往生の願生心」(自力)と「招喚の願力の道」(他力)の二種が説かれているとみられたのである。
    このように、法然聖人は、二河白道の譬喩中に諸行往生の願生心と専修正行の願生心をみられことによって白道釈は一変した。『選択本願念仏集』に「正助二行を修するものは、たとひ別に回向を用ゐざれども自然に往生の業となる」(選択集 P.1195) とされる意である。御開山はこの法然聖人の意を承けられて、『教行証文類』の引文では自力回向の第一釈を省略されておられた。この意では「信巻」引文の「回諸行業」の「回」は、回向ではなく、諸の行業を回捨しひるがえす意とされた。(信巻P.226)
    これは御開山が愚禿鈔 p.537で、「「白道」とは、白の言は黒に対す、道の言は路に対す、白とは、すなはちこれ六度万行、定散なり。これすなはち自力小善の路なり。黒とは、すなはちこれ六趣・四生・二十五有・十二類生の黒悪道なり。「四五寸」とは、四の言は四大、毒蛇に喩ふるなり。五の言は五陰、悪獣に喩ふるなり。」と白の「路」の字に寄せて、六度万行、定散の自力小善の白路とされているのに通じるものがある。「信巻」と『愚禿鈔』の両書を合わせれば、
    白道。白はすなはちこれ選択摂取の白業、往相回向の浄業なり。
    黒道。黒はすなはちこれ無明煩悩の黒業、二乗・人・天の雑善なり。
    白路。白とは、すなはちこれ六度万行、定散なり。これすなはち自力小善の路なり。という意になるであろう。
  11. 本願に選択摂取された、なんまんだぶという行法と諸善とは依って立つ基盤が違うのであり、その依って立つ論理構造の次元が違うのであるから全く比校に非ずなのである。この本願、非本願の違いを知らずして安易に勝劣を論じてはならないということ。御開山は、不可説・不可称・不可思議の本願を、人の思議の世界に引きずりおろして思議することを自力であるとせられた。御消息には「「他力には義なきを義とす」と、聖人(法然)の仰せごとにてありき。義といふことは、はからふことばなり。行者のはからひは自力なれば義といふなり。他力は本願を信楽して往生必定なるゆゑに、さらに義なしとなり」(*)とある所以である。
  12. 私に云く、以下は源智の三心の私釈であろう。
  13. 念仏以外の余行はしようとすれば出来るのだが、しないと思うのならば専修の心であるという。余行は素晴らしいのだが自分には出来ないのでしないと思うことは、たとえ余行を修していなくても雑行の心というのである。念仏は仏願に依る選択の行だからである。
  14. それぞれの機縁に応じて悪を造る身であるから念仏するのである。悪を造る為に、あらかじめ滅罪の功として念仏するのではないということ。いわゆる造悪無礙に陥りやすい者へのご注意である。もっとも、なんまんだぶも称えずに自己の妄想する信心に狂う輩は、煩悩の闇の深さを知らないのであるから無悪の機であろう。
  15. 法然の弟子、善惠房証証空は、自力をまじえない他力の念仏を、機の側からの色どりのない白木にたとえ「白木の念仏」といわれたのは「ただ生れ付きのままにて申すべし」の意でもあろう。(*) (*)
  16. 法然聖人の『往生要集略料簡』には「念仏に於いて二あり。一には但念仏、此れ即ち前の正修門の意也。二には助念仏、此れ即ち今の助念門の意なり」とあり、また『拾遺語灯録下』の「熊谷の入道へつかはす御返事」には「たんねんぶつの文かきてまいらせ候、ごらん候へし」と但念仏の語がある。
  17. 京づと。づととはみやげのこと。京土産のこと。
  18. 法然聖人は『阿弥陀経』の一心とは、我を念じたまう阿弥陀仏の心と、阿弥陀仏を念じる我が心が一つになったことであるとされた。それはまた「一心不乱」であり『阿弥陀経』で「少善根福徳因縁」と嫌貶された諸行(雑行)に念(こころ)を乱し移さないことであるとされる。法然聖人には三心を即一心であるといわれたところはないが『観経』の三心の中では深心が中心であると見られていた。『西方指南抄』「中本」所収の「十七条御法語」で、「導和尚、深心を釈せむがために、余の二心を釈したまふ也。経の文の三心をみるに、一切行なし、深心の釈にいたりて、はじめて念仏行をあかすところ也。」とされて念仏の行が説かれているから深信を中心にみておられ、なんまんだぶの行に三心を摂しておられるのであった。(行中摂心)  御開山の先輩である幸西大徳は「一念と言うは仏智の一念なり。正しく仏心を指して念心と為す。凡夫の信心仏智に冥会す。仏智の一念はこれ弥陀の本願なり。行者の信念と仏心相応して、心、仏智の願力の一念に契い、能所無二、信智唯一念、念相続して決定往生す。」(『浄土法門源流章』)といわれた。このような先哲の意を継承発展し御開山は『大経』の第十八願の至心・信楽・欲生の三心と、『観経』の至誠心・深心・回向発願心の三心と、『小経』の一心とを会合(えごう)して本願力回向の信心とされたのであった。『文類聚鈔』に「一心はこれ信心なり、専念はすなはち正業なり。一心のなかに至誠・回向の二心を摂在せり。」p.495 とあるのもその意であろう。
  19. 『観経』の下品上生段に「善男子、なんぢ仏名を称するがゆゑにもろもろの罪消滅す。われ来りてなんぢを迎ふ」と、十悪の凡夫を「善男子」とよばれている。
  20. 『礼讃』七祖p.660に出る語。念仏の行者は前念に命が終れば、後念にただちに浄土に往生するという意。御開山はこの語を現生に本願を信受する時とされ「本願を信受するは、前念命終なり。「すなはち正定聚の数に入る」とされた。(愚禿上 P.509)
  21. 『往生要集』p.1126で、『礼讃』の三心・五念・四修をあかすところで 「上のごとくといふは、礼・讃等の五念門、至誠等の三心、長時等の四修を指すなり」といい、上に『礼讃』の雑行の十三失を出していることをいうか。
  22. 『礼讃』では「無外雑縁得正念故(外の雑縁なくして正念を得るがゆゑに)」となっている。無の字を脱し生は正の音通であろう。但し「雑縁を外にして生ずる念を得るが故に」とも読める。
  23. 善人「善人尚以往生況悪人乎(善人なおもつて往生す、いわんや悪人おや)」の語は、『歎異抄』の「善人なほもつて往生をとぐ、いはんや悪人をや」と同じであり、悪人正機説の淵源は法然聖人だったのである。「口伝これ有り」と細註があるから法然聖人から御開山へ、そして唯円へ口伝された言葉であった。なお1350年頃成立の西山派の『輪円草』の割註にも《私云、善人尚生況悪人乎。六八誓願如船筏》の言がある。
  24. 私に云く以下は源智の私釈であろう。口伝これ有りとあるように、このようなラジカルな言葉が誤解されて受け取られると倫理的な問題を惹起するので極少数の弟子にだけ口伝されたものであろう。後に『歎異抄』で法然聖人から御開山がお聞きしたとして同じ語が出され「悪人正機説」として喧伝されたことは有名である。なお悪人正機とは、阿弥陀如来の慈悲のまなざしが悪人(機)に焦点を結んでいることをいうのであって、悪人が阿弥陀如来の正機であるという意味である。いわゆる阿弥陀如来の利他(他力)の極地をあらわす言葉であって衆生の側から使う言葉ではないのであった。 もし衆生の側でいうならば、『歎異抄』で「他力をたのみたてまつる悪人、もつとも往生の正因なり。よつて善人だにこそ往生すれ、まして悪人はと、仰せ候ひき。 」とされるように「自力のこころをひるがへして、他力をたのみたてまつ」る者こそが悪人正因といいうるのである。反顕すれば、なんまんだぶも称えずに他力を憑まない悪人は単なる悪人なのである。
  25. この書を書写せしめた、醍醐寺七十九世の座主義演(1558~1626)による追記か。