選択本願念仏集
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せんぢゃくほんがんねんぶつしゅう
法然上人(1133-1212)の著。略して『選択集』ともいう。建久九年(1198)
『浄土真宗聖典(注釈版)七祖篇』本願寺出版社
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- 新纂浄土宗大辞典から転送
せんちゃくほんがんねんぶつしゅう/選択本願念仏集
一巻。『選択集』と略称。真宗では「せんじゃくしゅう」と読む。法然撰。建久九年(一一九八)成立。法然畢生の書にして、浄土宗の根本聖典。法然が「諸師、文を作るに必ず本意一つ有り…善導は本願念仏の一義を釈す。予は選択の一義を立てて選択集を造るなり」(良忠『浄土宗要集聴書』浄全一〇・二六二下)と述懐したと伝えられるように、法然創唱になる選択思想に基づき、一切衆生救済の仏道実践として、称名念仏が浄土往生の唯一にして絶対の行であることを明示した書。本書題名中の「選択本願念仏」とは、阿弥陀仏が、あらゆる仏道修行の中から「選択(取捨)」した結果、自身の極楽浄土に往生するための「本願」行として定めた称名「念仏」を指している。本書は、そうした「選択本願念仏」を、阿弥陀仏ばかりでなく、釈尊や諸仏も加えた三仏が同心に「選択」していることを『無量寿経』『観経』『阿弥陀経』の「浄土三部経」と善導をはじめとする祖師の著作から要文を抽出して、理論化・体系化している。
[撰述経緯]
『選択集』は、前関白九条兼実の懇請によって、法然六六歳、建久九年春三月に撰述された。この年の法然は、前年から患っていた病が長引き、あるいは、正月から別時念仏を修めて三昧発得しており、さらに本書撰述直後の四月には、弟子達に向け、自身没後のことについて『没後遺誡文』を認めている。こうした状況を察した兼実は、法然の病気平癒を待って一書の執筆を請うた。『選択集』末尾にある「今図らざるに仰を蒙る。辞謝するに地無し。仍って今憖に念仏の要文を集め、剰え念仏の要義を述ぶ」(聖典三・一九〇/昭法全三五〇)という述懐は、そうした経緯を物語っている。法然も自らのすぐれぬ体調を鑑み、自身没後に選択思想の指標を遺すため、本書執筆を決意したのであろう。無論、その説示内容は、浄土開宗以後、法然自身の弛まぬ教理研鑽の上に構築されたものであり、とりわけ、文治六年(一一九〇)に催されたとされる東大寺講説「三部経釈」や建久五年(一一九四)ごろ修された法会の講義録である『逆修説法』を手控えとして撰述を進めていることが知られる。
[撰述状況]
証空の『選択密要決』一に「真観有りて法門の義を談じ、証空有りて経釈の要文を引き、安楽有りて筆を執りて之を書す。この外に人を簡びて在座せしめられず」(浄全八・二四七上)とあり、感西・証空・遵西にそれぞれ法談・勘文・執筆の役を受け持たせるなど、少数の門弟と共に撰述されたようである。その中、執筆に関しては、良忠の『選択疑問答』に「安楽房を以て執筆の仁と為すと雖も慢心の気有る故に改められ」(浄全七・六二五下)と、遵西から感西に引き継がれた旨の記述がある。それを受けた聖冏は『直牒』七に「相伝に云く、この選択集には多く執筆有り。謂く選択本願より念仏為先の註に至るまで上人の御自筆なり。第一篇より第三本願章能令瓦礫変成金の文に至るまで安楽房の執筆なり。問曰一切菩薩雖立其願より十二付属章に至るまで真観房の執筆なり。第十三章より第十六章の私に云わくより一如経法応知までは他筆なり。名字を失す。静以善導以下は又真観房の執筆なり」(浄全七・五四七上)と、開巻劈頭の「選択本願念仏集 南無阿弥陀仏 往生之業念仏為先」の二一文字を法然真筆とし、以下、遵西→感西→不明→感西と執筆が移行したとする相伝を示しているが、これは草稿本とされる廬山寺蔵『選択集』の筆跡と一致している。
[諸本]
『選択集』の諸本については二本説と四本説が代表的である。良忠は『決疑鈔』五に「選択集の本に広略有り。略は則ち高覧の本なり。有る遺弟の云わく、広本は執筆の人、初心の者の為に後に名目を加う。自ずと少異有り。高覧の本には如かず」(浄全七・三四七上)と、兼実高覧本を略本、初学者のために弟子が名目を加えたものを広本とする広略二本説を挙げ、その中、略本を重視すべきとし、さらに「広本には念仏為本と云う」(浄全七・一九〇下)と指摘した。また『選択本願念仏集名体決』において長西は「新旧の異なり有り。旧本には念仏為先と云い、新本には念仏為本と云う」(浄全八・四四八下)と新旧二本説を挙げ、その説示から略本と旧本、広本と新本が対応することが分かる。「延書」と呼ばれる一連の『選択集』は広本の系統とされる。また義山は元禄版『選択集』の跋文に「第一は稿本、始章に三経の説時を論ずるもの是れなり。第二は刪本、初めに殿下に呈し及び光師に授くるもの是れなり。第三は正本、末後修飾刊行して、平氏序を作るもの是れなり。第四は広本、門人其の文を増証するもの是れなり」(浄全七・七六)と四本説を挙げている。この中、第一の稿本とは廬山寺蔵『選択集』に関係深い一書と推定される。第二の刪本とは兼実高覧本にして、聖光等高弟に授与したもので、當麻寺奥院蔵『選択集』や延応版『選択集』に連なる系統と推定される。第三の正本とは建暦二年(一二一二)九月、平基親の序を添えて刊行した建暦版『選択集』であり、義山は元禄版を建暦版の覆刻であるとするが、その主張には疑義が多い。第四の広本は先述した広本を指す。現存する数多の『選択集』諸本の中、ここでは三書に限定して言及する。①廬山寺蔵『選択集』(国重要文化財)—兼実高覧本の草稿本とされる写本。一部を除いて返り点や訓読・送り仮名のない白文で、補足や訂正が多く、移動が指示されている箇所もあり、前述のように開巻劈頭の二一文字は法然の真筆とされ、都合四名の筆跡が確認される。②當麻寺奥院蔵『選択集』(国重要文化財)—返り点や訓読・送り仮名が施される写本。奥書に「元久元年(一二〇四)十一月二十八日書写了…元久元年十二月十七日 源空(花押)」とある。日付や法然署名の真偽については見解が分かれるものの、近代以降刊行された『選択集』の底本に多用されている。③延応版『選択集』(法然院蔵)—刊記に「延応第一之暦沽先第六之天、根源正本を校し、展転錯謬を直す」とあり、延応元年(一二三九)三月六日に開版された版本。建暦版が伝わらない現在、最古の版本である。本文のみ活字版で、返り点や訓読・送り仮名は後の書き入れと推定される。
[概要]
『選択集』は、以下の全一六章(①~⑯)から構成され、各章は、篇目(章題)・引文(「浄土三部経」や善導などの著作から各章の拠り所となる一節を提示)・私釈(法然自身による説示)の三段から成立している。①聖道浄土二門篇—『安楽集』の引文に基づき、この身このままで悟りを目指す聖道門を閣き、阿弥陀仏の極楽浄土に往生し、そこで悟りを開くことを目指す浄土門に帰入すべきことを説く。②雑行を捨てて正行に帰する篇—『観経疏』『往生礼讃』の引文に基づき、浄土門に帰入した者は、阿弥陀仏や極楽浄土に親しい行である五種正行に帰し、それ以外の雑行を拋つべきこと、また正行と雑行の得失としての五番相対を説く。さらに、その五種正行の中、第四称名正行を正しく浄土往生が定まる本願行である正定業と受けとめて専らにし、その他の前三後一の正行を正定業に心を向けさせるための行である助業として傍らに修めるべきことを説く。③念仏往生本願篇—『無量寿経』『観念法門』『往生礼讃』の引文に基づき、阿弥陀仏が称名念仏を浄土往生の唯一の本願往生行として選取したのに対し、他の諸行を選捨したこと、また、その由縁としての勝劣難易の二義を説く。④三輩念仏往生篇—『無量寿経』の引文に基づき、釈尊が本願念仏一行を立てたのに対し、諸行を廃したことを説く。⑤念仏利益篇—『無量寿経』『往生礼讃』の引文に基づき、釈尊が本願念仏は無上・大利の功徳があると示したのに対し、諸行は有上・小利の功徳に留まることを説く。⑥末法万年に特り念仏を留むる篇—『無量寿経』の引文に基づき、釈尊が末法後の百年間も本願念仏を留めたのに対し、諸行は滅してしまうことを説く。以上の三章から六章を無量寿経撮要という。⑦光明ただ念仏の行者を摂する篇—『観経』『観経疏』『観念法門』の引文に基づき、阿弥陀仏の光明が本願念仏を称える者を照らすのに対し、諸行を修める者を照らさないことを説く。⑧三心篇—『観経』『観経疏』『往生礼讃』の引文に基づき、念仏行者は必ず三心を具えるべきことを説く。⑨四修法篇—『往生礼讃』『西方要決』の引文に基づき、念仏行者は四修を用いるべきことを説く。⑩化仏讃歎篇—『観経』『観経疏』の引文に基づき、阿弥陀仏の化仏が、本願念仏を称えた者を讃歎するのに対し、諸行を修めた者を讃歎しないことを説く。⑪雑善に約対して念仏を讃歎する篇—『観経』『観経疏』の引文に基づき、釈尊が、本願念仏を称えた者を人中の白蓮華と讃歎するのに対し、諸行を修めた者を讃歎しないことを説く。⑫仏名を付属する篇—『観経』『観経疏』の引文に基づき、釈尊が本願念仏を後の世に付属したのに対し、諸行を付属しないことを説く。以上の七章から一二章を観無量寿経撮要という。⑬念仏多善根篇—『阿弥陀経』『法事讃』の引文に基づき、釈尊が本願念仏を多善根と示したのに対し、諸行を少善根と示したことを説く。⑭六方諸仏ただ念仏を証誠したもう篇—『観念法門』『往生礼讃』『観経疏』『法事讃』『五会法事讃』の引文に基づき、あらゆる諸仏が、本願念仏による浄土往生を真実であると証明(証誠)するのに対し、諸行による浄土往生を証誠しないことを説く。⑮六方諸仏護念篇—『観念法門』『往生礼讃』の引文に基づき、あらゆる諸仏が、本願念仏を称える行者を護念するのに対し、諸行を修める者を護念しないことを説く。⑯弥陀の名号を以て舎利弗に付属したもう篇—『阿弥陀経』『法事讃』の引文に基づき、釈尊が本願念仏を後の世に付属したのに対し、諸行を付属しないことを説く。以上の一三章から一六章を阿弥陀経撮要という。この中、一・二・八・九章は凡夫の側に立つ説示で、一・二章は凡夫が念仏行者になる道筋を帰納的に示し、八・九章は念仏行者の具えるべき安心とあるべき姿(作業)を演繹的に示しているのに対し、三~七章と一〇~一六章は仏の側から選択本願念仏の絶対的優位性を明らかにしている。なお、最終一六章には、引文に見合った私釈がなく、『選択集』全体の総結として、八種選択、三重の選び(三重の選択・略選択)、偏依善導一師の三点が説示される。まず八種選択とは、三仏による念仏の選択として、阿弥陀仏による四種の選択(選択本願③・選択摂取⑦・選択化讃⑩、選択我名〔該当章なし、『般舟三昧経』に基づく〕)、釈尊による三種の選択(選択讃歎⑤・選択留教⑥・選択付属⑫)、諸仏による一種の選択(選択証誠⑭)の都合八種を挙げている。次に三重の選びとは、一章と二章に説かれる内容で、聖道門を閣いて浄土門に入り(初重)、雑行を拋って正行に帰し(二重)、助業を傍らにして正定業を専らにする(三重)という三段階の選び取りである。前者の八種選択が仏の側からの選び取りであるの対し、後者の三重の選びは凡夫の側からの選び取りを示している。そして、この両者を結びつけるのが、偏依善導一師の説示である。ここで法然は、『選択集』の理論的拠り所を善導一師の著作に求めることを宣言している。その理由として法然は、善導が三昧発得の聖者であるに留まらず、阿弥陀仏の化身であり、その著作が経典に等しい価値を持つからと述べ、善導のみが仏と凡夫の立場を兼ね具えた唯一の存在であると主張している。さらに法然は『選択集』末尾に「念仏の行、水月を感じて昇降を得たり」(聖典三・一九〇/昭法全三五〇)と、自身も三昧発得の境地を体得していることを暗示している。こうした段階を経ることによって法然は、「浄土三部経」と善導の著作とを有機的に統合した結晶とも言える『選択集』所説内容の正統性と真実性を確立することに成功したのである。
[影響]
法然は、『選択集』の最末尾に「庶幾わくは一たび高覧を経てのち、壁底に埋めて窓前に遺すこと莫れ。恐くは破法の人をして、悪道に堕せしめんことを」(聖典三・一九〇/昭法全三五〇)と結び、自身創唱の選択思想が、ともすると他宗の僧侶には受け入れ難い構造を有することを承知しており、だからこそ法然は、信頼できる門弟以外にその書写を許さなかった。法然滅後、建暦版『選択集』の開版に伴い、明恵の『摧邪輪』『摧邪輪荘厳記』や定照の『弾選択』など、『選択集』への非難が相次ぎ、建暦版の板木が叡山の衆徒によって焼却されるという事態は、かえって選択思想の革新性を裏付ける。また、法然門下はもとより聖道諸宗に至るまで、『選択集』註釈書は夥しい数に及び、その影響がいかに大きいかを物語る。このように『選択集』は、浄土宗の根本聖典に留まらず、浄土教、広くは日本仏教に根本的な変革をもたらした著作なのである。英訳本に『Hōnen’s_Senchakushū—Passages_on_the_Selection_of_the_Nembutsu_in_the_Original_Vow(Senchaku_hongan_nembutsu_shū)』がある。
【所収】聖典三、昭法全、浄全七、正蔵八三、『重要文化財 廬山寺蔵選択本願念仏集〈原寸原装版〉』(法蔵館、一九七九)、水谷真成監修『延応本・往生院本 選択本願念仏集』(同、一九八〇)、大正大学浄土宗宗典研究会編『「選択集」諸本の研究〈資料編〉』全五巻(文化書院、一九九九)
【参考】藤堂祐範『選択集大観』(中外出版、一九二二)、石井教道『選択集の研究 註疏篇』(誠文堂新光社、一九四五)、同『選択集の研究 総論篇』(平楽寺書店、一九五一)、同『選択集全講』(同、一九六七)、小沢勇貫『選択集講述』(浄土宗、一九七一)、石上善應『法然 選択本願念仏集』(筑摩書房、一九八八、ちくま学芸文庫より再刊〔二〇一〇〕)、藤堂恭俊『選択集講座』(浄土宗、二〇〇一)、林田康順「『選択集』の構造—偏依善導一師—」(印仏研究五五—一、二〇〇六)
【参照項目】➡選択、選択本願念仏、八種選択、略選択、偏依善導、Hōnen’s_Senchakushū—Passages_on_the_Selection_of_the_Nembutsu_in_the_Original_Vow(Senchaku_hongan_nembutsu_shū)
【執筆者:林田康順】