称名報恩
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しょうみょう-ほうおん
『大経』第十八願には、信心と称名念仏とが誓われているが、信心こそが往生成仏の正因であるから、称名念仏は行者の心持ちからいえば阿弥陀仏に摂取された感謝の思いの中で名号が声となってあらわれ出たものであるということ。 『正信偈』に、
- ただよくつねに如来の号を称して、大悲弘誓の恩を報ずべしといへり。(行巻 P.205)
『化身土文類』には、
- ここに久しく願海に入りて、深く仏恩を知れり。至徳を報謝せんがために、真宗の簡要を摭うて、恒常に不可思議の徳海を称念す。(化巻 P.413)
等とある。また、称名正因などの異安心に対して、安心論題に「称名報恩」が設けられている。 →信心正因(浄土真宗辞典)
覚如上人の「信心正因 称名報恩」説は、信心正因説と組み合った時に称名は二次的に思われることもある。
信因称報説は、覚如上人が強調したのだが当時優勢であった多念の称名を強調するを鎮西浄土宗に対抗する為の論理であった。この意を正確に把握しないと御開山が示された行信不離というご法義を誤解することになる。たしかに信心正因は御開山のお示しであるが、何を信ずるかといえば、なんまんだぶの名号法である。その意味では、ありもしない称名抜きの信心を門徒に説く真宗の坊さんは可哀想ではある。
とういう訳で、信因称報説を強調する為とはいえ、これはアカンやろと思ふこともある。→鏡御影の讃
ともあれ、本願の名号は正定の業(本願の名号は、正しく往生の決定する行業である)である。これを受け容れたことを信心正因というのであった。信心の対象は、なんまんだぶという耳に聞こえる阿弥陀仏の招喚なのであった。