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本願ぼこり

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2016年10月23日 (日) 02:21時点における林遊 (トーク | 投稿記録)による版

 本願にあまえてつけあがること。(歎異抄 P.842)

出典(教学伝道研究センター編『浄土真宗聖典(注釈版)第二版』本願寺出版社
『浄土真宗聖典(注釈版)七祖篇』本願寺出版社

区切り線以下の文章は各投稿者の意見であり本願寺派の見解ではありません。

悪人を救う阿弥陀仏の本願力が強いことをほこること。また、それにあまえて、自らの悪を慎むことのない造悪無碍の者のこと。現代では、戒を用いない浄土真宗に対する僧侶・門徒への倫理的批判に、どうせわたしは凡夫ですからと開きなおることも本願ぼこりの一種である。「慚愧なき真宗は外道に堕する」といわれるが、「汝是凡夫心想羸劣(なんぢはこれ凡夫なり。心想羸劣なり)」(*)とは、汝は凡夫であるという仏の側からの教戒であった。このよう凡夫という表現は、わたしの側でいう、どうせわたしは凡夫ですという開き直りの言葉とは違うのであった。
浄土宗清浄華院第五世、向阿証賢(1265~1345)の『歸命本願抄』には、

本願にほこりてつみを心やすくおもはん人は、はじめは信心のあるににたりとも、のちにはたすけ給への心もなくなるべし。 よくよくよういあるべき事をや。

などの用例がある。なお、蓮如上人の次女である見玉尼(1448-1472)は、口べらしのため禅院の喝食として外へ出され、成人しては浄華院にいたが蓮如上人の吉崎建立の頃に本願寺に戻る(*)。他力回向の信心を「たすけたまへと弥陀をたのむ」と表現した蓮如上人のご教化は、見玉尼を通しての浄華院流からの示唆があったのであろう。
なお、『歎異抄』第13条では、造悪無碍のすがたとともに、「 本願にほこるこころのあらんにつけてこそ、他力をたのむ信心も決定しぬべきことにて候へ。」と、本願を信じる正しいすがたとしても表現されている。この場合は自分では手がつけられない犯した罪の深さを内省するところから、他力をたのむ信心に言及したのであろう。