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造悪無碍

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ぞうあく-むげ

 「悪を造ることに(さまたげ)無し」ということ。悪を犯しても往生浄土のさまたげにはならないという浄土教の理解をいう。念仏一発、または信心一発の後は、すでに一念に往生浄土の業因が決定したのであるから、その後に犯す悪事は往生のさまたげにはならないと主張する。これは極端な一念義の系統から発生した領解であろう。
法然聖人は、比叡山延暦寺からの専修念仏停止の訴えに対し、門弟が言行を正すことを誓って連署し、比叡山に送った『七箇条の御起請文』の四条に、

念仏門において戒行無しと号して、もっぱら婬・酒・食肉をすすめ、たまたま律儀を守るものを雑行と名づけて、弥陀の本願を憑む者、造悪を恐るることなかれというを停止すべき事。
右、戒はこれ仏法の大地なり。衆行まちまちなりといえども同じくこれを専らにす。これをもって善導和尚目をあげて女人を見ず。この行状のおもむき本律の制にも過ぎたり。浄業のたぐい、これに順ぜずは総じて如来の遺教を失し、別しては祖師の旧跡に背けり。(かたがた)、よるところ無き者か。

とあり、悪を造ることにははばかることはないという主張は、法然聖人在世の頃からあった異義と思われる。 すでに造ってしまった悪の束縛からの解放と、いまだ造っていない悪とを混同するところから生まれる発想である。ただ、当時の世相の視点からみれば、悪を為す(殺生)ことでしか生きられない一般民衆にとって、悪は往生浄土にさわりとはならない、唯ゞなんまんだぶを称えよという、全く新しい往生浄土の宗義の教説は、絶大な民衆の支持を得て燎原の火のように日本中に広がったのであった。
一念義についてより深く知りたい知的好奇心のある方は、一念と多念について考察されておられる『一念多念証文』等を参照されたし。

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