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最須敬重絵詞

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Ⅳ-0425最須敬重繪詞一

夫以、一如法界の眞理、凡聖を兼て隔なく、萬德恆沙の寂用、染淨に亘て變ぜず。しかりといへども、妄雲ひとたび覆て本覺の月ひかりをかくし、心水しきりに動て亂想の浪こゑをあげしよりこのかた、業種を善惡に殖て報果を苦樂にうく。このゆへに、生死長遠にして六道の輪廻やむことなく、恩愛繫縛して三界の牢獄いでがたし。十方の諸佛これを憐て濟度の方便をめぐらし、四依の大士これを悲て敎法の弘通をいたす。
一代敎主釋迦如來、耆闍崛山にして『无量壽經』をとき給しとき、當來導師彌勒慈尊に對してくはしく衆生の此死生彼のありさまをあかし、ねんごろに諸趣の修因感果の道理をのべたまへり。かの文をみるに、或は「當行至趣苦樂之地。身自當之、无有代者。善惡變化、殃福異處、宿豫嚴待當獨趣入」(大經*卷下)といひ、或は「獨來獨去、无一隨者。善惡・禍福追命所生。或在樂處、或入苦毒。然後乃悔當復何及」(大經*卷下)といへり。されば曠劫流轉のあひだ諸有經歷の程、しづむ時はつねに地獄・鬼・畜の間をはなれず、うかぶ時はわづかに人Ⅳ-0426中天上のあひだにむまる。しづむもうかぶも獨生獨死のみち、きくに心ぼそく、むまるゝも死するも自業自得のことはり、つくづくとおもへばかなし。殃惡をつくれば、泥梨の鐵城をかまへてこれをまち、福善をたくはふれば、上界の天宮をかざりてあひまうくるにこそ。しかるに惑業はつくりやすければ惡道の果は感じやすく、福因はうへがたければ善趣の報はまねきがたし。たとひまた人天の快樂をえたりとも、それもさらに解脫の要路にはあらず。光明寺和尙は「人天之樂猶如電光。須臾卽捨、還入三惡長時受苦」(定善義)とのたまへり。えてもなにかせん、えんこともまたかたし。おほよそ末代惡世の衆生、けふこのごろの凡夫は劫濁・命濁の不善、五ながらますます增し、五戒・八戒等の律儀、一としてまたからず。楞嚴の先德の解釋に、「善業今世所學、雖欣動退。妄業永劫所習、雖厭猶起。野鹿難繫家狗自馴」(要集*卷中意)といへる。げにをろかなる身におもひしらるゝまゝに、上根利智の人なりとも末世澆季のならひはさまでかはらじとこそおぼゆれ。かくのごときの輩は隨縁起行の功をもつみがたければ、いかにしてか進道の資糧をもたくはへん。たとひ隨分精勤の法財をえたりとも、六賊知聞の侵奪をのがれがたかるべし。悲哉悲哉、何爲何爲。
Ⅳ-0427しかるに、彌陀の本願はあやにくにかゝる惡機を攝し、西方の淨土はもはらこの類をもきらはざれば、當今の衆生ことに眞宗の敎門に歸し、罪惡の凡愚ひとへに極樂の往生を期すべし。如來廻向の威德なるがゆへに、機の利鈍によらず、他力難思の本誓なるがゆへに、行の多少を論ぜず。馮を懸てみなを稱すれば、一念も十聲もともにむまれ、願に乘じて誠をいたせば、四重も五逆ももるゝことなし。まことにこれ、唯佛一道獨淸閑の正門、究竟解脫斷根源の直路なり。月氏には龍樹・天親等の大士これを弘通す、ともに惠藏を製して定判あり。晨旦には曇鸞・道綽等の五祖これを相承す、ことに善導をもて倚賴とす。しかうしてのち、我朝に流布すること連々としてたえず、諸師敷揚すること代々これおほし。慈覺・慈惠等の大師もこぞりて安養の往生をすゝめ、楞嚴・禪林等の先德ももはら彌陀の利益を嘆ぜり。しかりといへども、根機やいまだ熟せざりけん、歸奉ひろきにあらず、時節やいまだいたらざりけん、宗旨なをあらはれず。
爰に黑谷の源空聖人、生を本朝に受て邊域の群類を開導し、化を濁世に施て西方の要行を弘宣す。初の習學は眞言・止觀の敎門なり、かねて諸宗にわたり、あまねく一代をうかゞふ。後の依行は專修念佛の一門なり、ひとへに彌陀をあふぎ、Ⅳ-0428たゞ極樂をすゝむ。これすなはち、そのかみ惠心の『往生要集』を見給けるより厭穢欣淨のこゝろもやうやくすゝみ、劣機得脫の益のむなしかるまじきことはりも信をもよほし給けるか。彼『集』にひきもちゐるところ、おほく導和尙の釋をもて規とせり。これによりて、『觀經義』を披閲し給こと數遍ののち、忽に自力の局情を捨て新に他力の奧旨を得たまへり。たゞしみづからの出離にをいてはすでに決定せり。他のためにこの法をひろめんとおもふに、わが詳覈するところの義、佛意にかなふやいなや。大事の因縁たるによりてなを心勞の肝膽をくだき給けるに、夢の中に證をえて慥に佛可を蒙給けり。いはゆる紫雲靉靆として太虛におほひ、光明赫奕として世界をてらす。また高山の嶮阻なるあり、彩雲峯の上にそびく。長河の浩汗たるあり、靈鳥波の邊にかける。更に穢土の境界にあらず、淨刹の莊嚴にことならず。雲の中に一の僧あり、上は墨染の衣、下は金色の服なり。聖人誰とかせんと問給に、僧こたへてのたまはく、我はこれ善導なり、汝專修念佛を弘通せんと欲するがゆへに、證をなさんがためにきたれるなりと云々。しかれば、聖人みたて給ところの義、和尙の御意にたがはざること知ぬべし。和尙は彌陀の應化にてましませば、和尙の許可はすなはち彌陀の印定なり。今時の衆生、惡世Ⅳ-0429の群類、かの化導をあふぎ、その示誨にしたがふべきものなり。聖人の後、業學解林をなし、門流みなまたをわかてる中に、善信聖人親鸞と申しは面受上足の弟子、内外通達の高德なり。俗姓は藤原、皇太后宮大進有範の息男なり。幼稚にして父に喪し給けるを、伯父若狹三位[範繩卿]猶子として交衆をいたす、扶持の力ともなり、文學をはげむ提撕の訓をも加られけり。また式部大輔W宗業卿Rもおなじく伯父にておはしけるが、彼卿に對し奉て說をうけたてまつらるゝ事共もありけるとなん。かくて生年九歲の時、養和元年春の比、若狹三品W于時四品R靑蓮院慈鎭和尙の貴房に伴參して、すなはち出家をとげしめ範宴少納言公と號せられき。同年登檀受戒、それよりこのかた顯を學し密を行ずるつとめをこたらずして、螢をひろひ雪をあつむる功おほくつもる。しかれども三止三觀の窓の前に百界千如の月やゝもすればくもりやすく、五相五輪の壇の上に六大四曼の花しきりにあざやかなる色をかくせり。かゝりければ滅罪生善のはかりごと、事理につけてとゝのほらず、自行化他の益、彼此ともにそむけり。されば假名の修行なにゝかはせん。いかにしてか、このたびまめやかに生死をまぬかるゝ道をえんと思給ければ、つねに住山をくはだて、とこしなへに練行をいたして醫王・山王にもこの一事をのⅣ-0430み祈請し、大師・祖師にも他の悉地を申さるゝ事はなかりけるうへに、娑婆世界施無畏者の悲願をたのみ日本傳燈上宮王の濟度を仰て、山上より西坂本にかゝり、六角堂へ百日の參詣をいたし給て、ねがはくは有縁の要法をしめし眞の知識にあふことをえしめたまへと、丹誠を抽で祈給に、九十九日に滿ずる夜の夢に、末代出離の要路念佛にはしかず。法然聖人いま苦海を度す。かの所に到て要津を問べきよし慥に示現あり。すなはち感淚をのごひ、靈告に任て吉水の禪室にのぞみ、事の子細を啓し給ければ、發心の強盛なることも有がたく、聖應の掲焉なることも他に異なりとて、聖道・淨土、難易の差別手を取てさづけ、安心起行、肝要の奧旨、舌を吐て述給けるに、日來の蓄懷こゝに滿足し、今度の往生忽に決定しぬと悅たまふ。于時建仁元年[辛酉]聖人廿九歲、聖道を捨て淨土に歸し、雜行を閣て念佛を專にし給ける始なり。すなはち所望によりて名字をあたへたまふ。その時は綽空とつけ給けるを、後に夢想の告ありける程に聖人に申されて善信とあらため、又實名を親鸞と號し給き。しかありしよりのち、或は製作の『選擇集』をさづけられ、或は眞影の圖畫をゆるされて殊に慇懃の恩誨にあづかり、あくまで巨細の指授をかうぶり給けり。されども身に才智をたくはへながら、ことさらに學解をⅣ-0431事とせらるゝすがたもなく、こゝろを淨域にすましむといへども、あながちに世塵をとをざかる行儀をも表し給ざりけり。黑谷の大祖聖人、眞宗の興行によりて遠流の罪責に及し時、門弟の上足同科の沙汰ありしに、この上人もその中として越後國國府にうつされて、おほくの春秋を送たまひけり。明師聖人歸京の時、おなじく敕免ありけれども、事の縁ありて東國にこえ、はじめ常陸國にして專修念佛をすゝめたまふ。これひとへに邊鄙在家の輩をたすけて、濟度利生の本意をとげんとなり。
おほよそ聖道の諸敎は根性利者のため、彌陀の一敎は鈍根無智にかうぶらしむ。されども難行の聖道をすて易修の眞門に入ても、行學をはげむとはげまざると差別なきにあらず。しかるゆへは、まづ學路にあゆまんとする人は、ふかく三經一論の玄旨をわきまへ、ひろく異朝和國の典籍をうかゞひて、法命をもつき、人師ともなる。まことに智水もしうるほさずは、善苗をそだてがたく、惠燈もしかゝげずは、いかでか迷暗をてらすべきなれば、その器にたへたらん人もとも庶幾するにたれり。しかりといへども、まなぶものは牛毛のごとく、なすものは麟角のごとくなるゆへに、もし學の淺深によりて益の得否あるべくは、天性至愚の族はながくその望をたちぬべし。次に行門におもむく人は晝夜六時の策勵をいたして、Ⅳ-0432轉經念佛の熏修をつむ。隨て欲塵の境界をはなれ、遁世の威儀をむねとして厭離穢土の素懷をあらはし、道心純熟の形狀をしめすなり。當世の人の欲するところ、おほくはこれにあり、かくのごとくならざらん人は、ほとほと往生しがたしとおもへり。解行の修習もともねがふべしといへども、大悲の利生またくこれにかぎるべからず。今の二途にもれてその一德もなき田舍卑賤の下輩、一文不通の愚人、佛法の名字をもきかず、因果の道理をもしらで、解脫の術をうしなひ、出離の道にまよへる沒々の群生、闇々の衆類に至まで、佛意豈すてたまはんや。知識にあはずしてむなしく人身を失せんこと、かなしむべし、かなしむべし。謹て光明寺和尙の解釋をひらくに、「諸佛大悲於苦者。心偏愍念常沒衆生」(玄義分)とのたまへり。このゆへに、下機の中になを下機をあはれみ、惡人の中になを惡人をめぐみて、無縁の慈悲をほどこし救苦の方便をめぐらし給らん。二尊の佛意に順じてかれらを濟度せんと企たまへりし本懷ことに甚深なり。これによりて、在世の弘敎もいたりてあまねく、滅後の興法も今にさかりなり。
本廟は京都白河大谷にあり、知恩院の西の邊本願寺これなり。根本の門弟はもはら東國にみち、枝末の餘塵はやうやく諸邦にをよぶ。面授の弟子おほかりし中に、Ⅳ-0433奧州東山の如信上人と申人おはしましき。あながちに修學をたしなまざれば、ひろく經典をうかゞはずといへども、出要をもとむるこゝろざしあさからざるゆへに、一すぢに聖人の敎示を信仰する外に他事なし。これによりて、幼年の昔より長大の後にいたるまで、禪床のあたりをはなれず。學窓の中にちかづき給ければ、自の望にて開示にあづかり給事も時をえらばず。他のために設化し給ときも、その座にもれ給ことなかりければ、聞法の功もおほくつもり、能持の德も人にこえ給けり。かの阿難尊者の常に佛後にしたがひ、身座下に臨て多聞廣識の名をほどこし、傳說流通の錯なかりけるも、かくやとぞおぼゆる。
この上人の弟子またそのかずあり、東國には數輩にをよぶ。處々の道場をのをの化益をいたす。京都には一人の尊宿まします、勘解由小路中納言法印坊[宗昭]これなり。當流傳來の譜系をば今師よりうけ、親鸞聖人の遺跡をば先考よりつたへたまへり。これ一流の法將、當敎の名哲なり。初は南京の綱維をへて三笠山の春の花におもひをそめ、後には西土の行人となりて九品臺の秋の月に心をぞすまされける。さるまゝには大旨は籠居の體なり。しかどもとりわき外相に遁世の儀を標せらるゝ事もなし。たゞ内心に後生の得脫をねがひ給ばかりなり。さりながらⅣ-0434念佛門の衆中にしては隱遁の名字をもなのり給けり。或は覺如と稱せらるゝ時もあり、一實眞如の極理を覺知する謂を存じ給なるべし。或は毫攝と號せらるゝおりもあり、白毫攝取の光益を受得する思をなさるゝなるべし。しかれども人はたゞ法印とのみ申しを、自身にもしゐて辭せらるゝ事もなかりけり。これすなはち外相賢善の儀を現ぜず、遁世捨家のすがたもなかりしによりて、もとより居し給し綱位なれば、喚習たてまつりしにつきて、よそにもあらためず、我としてもいとはるゝ事もなかりけり。本寺の交衆を止て淨土の行人となりし人も、このためしなきにあらず。長樂寺の隆寛律師、生馬の良遍法印等これなり。「大隱は朝市にかくる」といふ事もあれば、中々ありのまゝなるは末代相應の作法をふるまひ給けるにやと、樣かはりてたうとくこそ。
こゝにかの尊老の開導を蒙て、わが當來の資貯をになへるひとりの羊僧あり、名を乘專といふ。身をろかに、こゝろくらく、智もなく、行もなし。放逸にして惡業のおそるべきをもしらず、懈怠にして善種のうふべきをももとめず。現在の罪