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最須敬重絵詞

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Ⅳ-0425最須敬重繪詞一

夫以、一如法界の眞理、凡聖を兼て隔なく、萬德恆沙の寂用、染淨に亘て變ぜず。しかりといへども、妄雲ひとたび覆て本覺の月ひかりをかくし、心水しきりに動て亂想の浪こゑをあげしよりこのかた、業種を善惡に殖て報果を苦樂にうく。このゆへに、生死長遠にして六道の輪廻やむことなく、恩愛繫縛して三界の牢獄いでがたし。十方の諸佛これを憐て濟度の方便をめぐらし、四依の大士これを悲て敎法の弘通をいたす。
一代敎主釋迦如來、耆闍崛山にして『无量壽經』をとき給しとき、當來導師彌勒慈尊に對してくはしく衆生の此死生彼のありさまをあかし、ねんごろに諸趣の修因感果の道理をのべたまへり。かの文をみるに、或は「當行至趣苦樂之地。身自當之、无有代者。善惡變化、殃福異處、宿豫嚴待當獨趣入」(大經*卷下)といひ、或は「獨來獨去、无一隨者。善惡・禍福追命所生。或在樂處、或入苦毒。然後乃悔當復何及」(大經*卷下)といへり。されば曠劫流轉のあひだ諸有經歷の程、しづむ時はつねに地獄・鬼・畜の間をはなれず、うかぶ時はわづかに人Ⅳ-0426中天上のあひだにむまる。しづむもうかぶも獨生獨死のみち、きくに心ぼそく、むまるゝも死するも自業自得のことはり、つくづくとおもへばかなし。殃惡をつくれば、泥梨の鐵城をかまへてこれをまち、福善をたくはふれば、上界の天宮をかざりてあひまうくるにこそ。しかるに惑業はつくりやすければ惡道の果は感じやすく、福因はうへがたければ善趣の報はまねきがたし。たとひまた人天の快樂をえたりとも、それもさらに解脫の要路にはあらず。光明寺和尙は「人天之樂猶如電光。須臾卽捨、還入三惡長時受苦」(定善義)とのたまへり。えてもなにかせん、えんこともまたかたし。おほよそ末代惡世の衆生、けふこのごろの凡夫は劫濁・命濁の不善、五ながらますます增し、五戒・八戒等の律儀、一としてまたからず。楞嚴の先德の解釋に、「善業今世所學、雖欣動退。妄業永劫所習、雖厭猶起。野鹿難繫家狗自馴」(要集*卷中意)といへる。げにをろかなる身におもひしらるゝまゝに、上根利智の人なりとも末世澆季のならひはさまでかはらじとこそおぼゆれ。かくのごときの輩は隨縁起行の功をもつみがたければ、いかにしてか進道の資糧をもたくはへん。たとひ隨分精勤の法財をえたりとも、六賊知聞の侵奪をのがれがたかるべし。悲哉悲哉、何爲何爲。
Ⅳ-0427しかるに、彌陀の本願はあやにくにかゝる惡機を攝し、西方の淨土はもはらこの類をもきらはざれば、當今の衆生ことに眞宗の敎門に歸し、罪惡の凡愚ひとへに極樂の往生を期すべし。如來廻向の威德なるがゆへに、機の利鈍によらず、他力難思の本誓なるがゆへに、行の多少を論ぜず。馮を懸てみなを稱すれば、一念も十聲もともにむまれ、願に乘じて誠をいたせば、四重も五逆ももるゝことなし。まことにこれ、唯佛一道獨淸閑の正門、究竟解脫斷根源の直路なり。月氏には龍樹・天親等の大士これを弘通す、ともに惠藏を製して定判あり。晨旦には曇鸞・道綽等の五祖これを相承す、ことに善導をもて倚賴とす。しかうしてのち、我朝に流布すること連々としてたえず、諸師敷揚すること代々これおほし。慈覺・慈惠等の大師もこぞりて安養の往生をすゝめ、楞嚴・禪林等の先德ももはら彌陀の利益を嘆ぜり。しかりといへども、根機やいまだ熟せざりけん、歸奉ひろきにあらず、時節やいまだいたらざりけん、宗旨なをあらはれず。
爰に黑谷の源空聖人、生を本朝に受て邊域の群類を開導し、化を濁世に施て西方の要行を弘宣す。初の習學は眞言・止觀の敎門なり、かねて諸宗にわたり、あまねく一代をうかゞふ。後の依行は專修念佛の一門なり、ひとへに彌陀をあふぎ、Ⅳ-0428たゞ極樂をすゝむ。これすなはち、そのかみ惠心の『往生要集』を見給けるより厭穢欣淨のこゝろもやうやくすゝみ、劣機得脫の益のむなしかるまじきことはりも信をもよほし給けるか。彼『集』にひきもちゐるところ、おほく導和尙の釋をもて規とせり。これによりて、『觀經義』を披閲し給こと數遍ののち、忽に自力の局情を捨て新に他力の奧旨を得たまへり。たゞしみづからの出離にをいてはすでに決定せり。他のためにこの法をひろめんとおもふに、わが詳覈するところの義、佛意にかなふやいなや。大事の因縁たるによりてなを心勞の肝膽をくだき給けるに、夢の中に證をえて慥に佛可を蒙給けり。いはゆる紫雲靉靆として太虛におほひ、光明赫奕として世界をてらす。また高山の嶮阻なるあり、彩雲峯の上にそびく。長河の浩汗たるあり、靈鳥波の邊にかける。更に穢土の境界にあらず、淨刹の莊嚴にことならず。雲の中に一の僧あり、上は墨染の衣、下は金色の服なり。聖人誰とかせんと問給に、僧こたへてのたまはく、我はこれ善導なり、汝專修念佛を弘通せんと欲するがゆへに、證をなさんがためにきたれるなりと云々。しかれば、聖人みたて給ところの義、和尙の御意にたがはざること知ぬべし。和尙は彌陀の應化にてましませば、和尙の許可はすなはち彌陀の印定なり。今時の衆生、惡世Ⅳ-0429の群類、かの化導をあふぎ、その示誨にしたがふべきものなり。聖人の後、業學解林をなし、門流みなまたをわかてる中に、善信聖人親鸞と申しは面受上足の弟子、内外通達の高德なり。俗姓は藤原、皇太后宮大進有範の息男なり。幼稚にして父に喪し給けるを、伯父若狹三位[範繩卿]猶子として交衆をいたす、扶持の力ともなり、文學をはげむ提撕の訓をも加られけり。また式部大輔W宗業卿Rもおなじく伯父にておはしけるが、彼卿に對し奉て說をうけたてまつらるゝ事共もありけるとなん。かくて生年九歲の時、養和元年春の比、若狹三品W于時四品R靑蓮院慈鎭和尙の貴房に伴參して、すなはち出家をとげしめ範宴少納言公と號せられき。同年登檀受戒、それよりこのかた顯を學し密を行ずるつとめをこたらずして、螢をひろひ雪をあつむる功おほくつもる。しかれども三止三觀の窓の前に百界千如の月やゝもすればくもりやすく、五相五輪の壇の上に六大四曼の花しきりにあざやかなる色をかくせり。かゝりければ滅罪生善のはかりごと、事理につけてとゝのほらず、自行化他の益、彼此ともにそむけり。されば假名の修行なにゝかはせん。いかにしてか、このたびまめやかに生死をまぬかるゝ道をえんと思給ければ、つねに住山をくはだて、とこしなへに練行をいたして醫王・山王にもこの一事をのⅣ-0430み祈請し、大師・祖師にも他の悉地を申さるゝ事はなかりけるうへに、娑婆世界施無畏者の悲願をたのみ日本傳燈上宮王の濟度を仰て、山上より西坂本にかゝり、六角堂へ百日の參詣をいたし給て、ねがはくは有縁の要法をしめし眞の知識にあふことをえしめたまへと、丹誠を抽で祈給に、九十九日に滿ずる夜の夢に、末代出離の要路念佛にはしかず。法然聖人いま苦海を度す。かの所に到て要津を問べきよし慥に示現あり。すなはち感淚をのごひ、靈告に任て吉水の禪室にのぞみ、事の子細を啓し給ければ、發心の強盛なることも有がたく、聖應の掲焉なることも他に異なりとて、聖道・淨土、難易の差別手を取てさづけ、安心起行、肝要の奧旨、舌を吐て述給けるに、日來の蓄懷こゝに滿足し、今度の往生忽に決定しぬと悅たまふ。于時建仁元年[辛酉]聖人廿九歲、聖道を捨て淨土に歸し、雜行を閣て念佛を專にし給ける始なり。すなはち所望によりて名字をあたへたまふ。その時は綽空とつけ給けるを、後に夢想の告ありける程に聖人に申されて善信とあらため、又實名を親鸞と號し給き。しかありしよりのち、或は製作の『選擇集』をさづけられ、或は眞影の圖畫をゆるされて殊に慇懃の恩誨にあづかり、あくまで巨細の指授をかうぶり給けり。されども身に才智をたくはへながら、ことさらに學解をⅣ-0431事とせらるゝすがたもなく、こゝろを淨域にすましむといへども、あながちに世塵をとをざかる行儀をも表し給ざりけり。黑谷の大祖聖人、眞宗の興行によりて遠流の罪責に及し時、門弟の上足同科の沙汰ありしに、この上人もその中として越後國國府にうつされて、おほくの春秋を送たまひけり。明師聖人歸京の時、おなじく敕免ありけれども、事の縁ありて東國にこえ、はじめ常陸國にして專修念佛をすゝめたまふ。これひとへに邊鄙在家の輩をたすけて、濟度利生の本意をとげんとなり。
おほよそ聖道の諸敎は根性利者のため、彌陀の一敎は鈍根無智にかうぶらしむ。されども難行の聖道をすて易修の眞門に入ても、行學をはげむとはげまざると差別なきにあらず。しかるゆへは、まづ學路にあゆまんとする人は、ふかく三經一論の玄旨をわきまへ、ひろく異朝和國の典籍をうかゞひて、法命をもつき、人師ともなる。まことに智水もしうるほさずは、善苗をそだてがたく、惠燈もしかゝげずは、いかでか迷暗をてらすべきなれば、その器にたへたらん人もとも庶幾するにたれり。しかりといへども、まなぶものは牛毛のごとく、なすものは麟角のごとくなるゆへに、もし學の淺深によりて益の得否あるべくは、天性至愚の族はながくその望をたちぬべし。次に行門におもむく人は晝夜六時の策勵をいたして、Ⅳ-0432轉經念佛の熏修をつむ。隨て欲塵の境界をはなれ、遁世の威儀をむねとして厭離穢土の素懷をあらはし、道心純熟の形狀をしめすなり。當世の人の欲するところ、おほくはこれにあり、かくのごとくならざらん人は、ほとほと往生しがたしとおもへり。解行の修習もともねがふべしといへども、大悲の利生またくこれにかぎるべからず。今の二途にもれてその一德もなき田舍卑賤の下輩、一文不通の愚人、佛法の名字をもきかず、因果の道理をもしらで、解脫の術をうしなひ、出離の道にまよへる沒々の群生、闇々の衆類に至まで、佛意豈すてたまはんや。知識にあはずしてむなしく人身を失せんこと、かなしむべし、かなしむべし。謹て光明寺和尙の解釋をひらくに、「諸佛大悲於苦者。心偏愍念常沒衆生」(玄義分)とのたまへり。このゆへに、下機の中になを下機をあはれみ、惡人の中になを惡人をめぐみて、無縁の慈悲をほどこし救苦の方便をめぐらし給らん。二尊の佛意に順じてかれらを濟度せんと企たまへりし本懷ことに甚深なり。これによりて、在世の弘敎もいたりてあまねく、滅後の興法も今にさかりなり。
本廟は京都白河大谷にあり、知恩院の西の邊本願寺これなり。根本の門弟はもはら東國にみち、枝末の餘塵はやうやく諸邦にをよぶ。面授の弟子おほかりし中に、Ⅳ-0433奧州東山の如信上人と申人おはしましき。あながちに修學をたしなまざれば、ひろく經典をうかゞはずといへども、出要をもとむるこゝろざしあさからざるゆへに、一すぢに聖人の敎示を信仰する外に他事なし。これによりて、幼年の昔より長大の後にいたるまで、禪床のあたりをはなれず。學窓の中にちかづき給ければ、自の望にて開示にあづかり給事も時をえらばず。他のために設化し給ときも、その座にもれ給ことなかりければ、聞法の功もおほくつもり、能持の德も人にこえ給けり。かの阿難尊者の常に佛後にしたがひ、身座下に臨て多聞廣識の名をほどこし、傳說流通の錯なかりけるも、かくやとぞおぼゆる。
この上人の弟子またそのかずあり、東國には數輩にをよぶ。處々の道場をのをの化益をいたす。京都には一人の尊宿まします、勘解由小路中納言法印坊[宗昭]これなり。當流傳來の譜系をば今師よりうけ、親鸞聖人の遺跡をば先考よりつたへたまへり。これ一流の法將、當敎の名哲なり。初は南京の綱維をへて三笠山の春の花におもひをそめ、後には西土の行人となりて九品臺の秋の月に心をぞすまされける。さるまゝには大旨は籠居の體なり。しかどもとりわき外相に遁世の儀を標せらるゝ事もなし。たゞ内心に後生の得脫をねがひ給ばかりなり。さりながらⅣ-0434念佛門の衆中にしては隱遁の名字をもなのり給けり。或は覺如と稱せらるゝ時もあり、一實眞如の極理を覺知する謂を存じ給なるべし。或は毫攝と號せらるゝおりもあり、白毫攝取の光益を受得する思をなさるゝなるべし。しかれども人はたゞ法印とのみ申しを、自身にもしゐて辭せらるゝ事もなかりけり。これすなはち外相賢善の儀を現ぜず、遁世捨家のすがたもなかりしによりて、もとより居し給し綱位なれば、喚習たてまつりしにつきて、よそにもあらためず、我としてもいとはるゝ事もなかりけり。本寺の交衆を止て淨土の行人となりし人も、このためしなきにあらず。長樂寺の隆寛律師、生馬の良遍法印等これなり。「大隱は朝市にかくる」といふ事もあれば、中々ありのまゝなるは末代相應の作法をふるまひ給けるにやと、樣かはりてたうとくこそ。
こゝにかの尊老の開導を蒙て、わが當來の資貯をになへるひとりの羊僧あり、名を乘專といふ。身をろかに、こゝろくらく、智もなく、行もなし。放逸にして惡業のおそるべきをもしらず、懈怠にして善種のうふべきをももとめず。現在の罪𠍴むなしからずは、未來の惡果いかでかのがれん。而に過去の微縁やもよほしけん、この門下にのぞみてあらあら「三部經」の文字讀をもいたし、聖人の御己證とて演Ⅳ-0435說にあづかりしかば、信仰のおもひ肝にそみ、歸依のこゝろざし骨にとほりておぼえ侍し程に、曠劫多生の芳縁もことにおもひしられ、今生昵近の忠節もひとへに他をわすれき。宗家の解釋をうかがふに、在世の聲聞衆の佛邊をはなれざる意をのべ給として、「迦葉等意、唯自曠劫久沈生死循還六道、苦不可言。愚癡・惡見封執邪風、不値明師永流於苦海。但以宿縁有遇得會慈尊。法澤無私、我曹受潤。尋思佛之恩德、碎身之極罔然。致使親事靈儀、無由暫替」(序分義)とのたまへる。凡聖あひことなれども師をたうとむべき志もこゝにあらはれ、賢愚おなじからざれども恩をおもふべきことはりもしりぬべし。聖人の『敎行證の文類』(化身*土卷)にも、或は『涅槃經』に、「一切梵行因善知識。一切梵行因雖無量、說善知識則已攝盡」といへる文をひき、或『華嚴經』に、「汝念善知識。生我如父母、養我如乳母、增長菩提分」といへる說をのせて、師恩の報じがたきことをのべ、知識ををもくすべきことをしるしたまへり。さればこゝろばかりは常隨給仕の功をつまんと思しかども、なを數年の病患にさへられて不慮の間斷あることをかなしみ、一すぢに報恩謝德の勤をいたさんとはげみしかども、まめやかに身命をわするゝばかりの誠もなくてやみぬⅣ-0436ることのかなしさに、かの生涯の行狀を筆墨にしるして數廻の恩言を承しになずらへ、その記錄の旨趣を丹靑にあらはして、平日の尊顏に向たてまつりしに擬せんとおもふ。たゞし一期の行事、八旬の擧動、くはしくしりたてまつるにあたはず、さだめて簡要たるべき事のもるゝも侍らん。たゞ法門宣說の砌にして、おりにふるゝ雜談もありし次に、聖道經歷の古の事をもかたりいで、眞宗歸入の昔のゆへをもしめし給しことのをのづから耳にとゞまり、わづかにこゝろにうかぶをしるしはんべれば、外人は後素にあらはすばかりの奇特は何事ぞなど嘲をもくはへ、後輩は編次をなせることばの首尾とゝのほらざるを見て脣をかへしぬべし。これをかへりみざるにはあらずといへども、これをいたみとするにはたらず。しかるゆへは、もとより外見をば禁ぜんとおもふ。他人のみん時は謗をばいたすとも、信ずべからざるがゆへに、あながちに拙詞をばはぢず、愚士の記する所は美をもとむといふとも、優なるべからざるがゆへなり。たゞわが尊崇の餘あるこゝろにまかせ、ひとへにみづからの歸敬の貳なき思にもよほさるゝばかりなり。つねに眞影の傍に安じて、ながく後弟につたへんとなり。いま篇をたつること二十八段、帙をわかつこと一部七卷、なづけて「最須敬重の繪」といふ。
Ⅳ-0437抑大和尙位尊老は、まづ俗姓は藤原氏、日野の後胤なり。 白河院より近衞院にいたるまで五代の 聖朝に仕たまひし兄弟二人の賢臣おはしましけり。家兄は都督納言[實光卿]、才幹世にもちゐられ、 朝獎他にことなりき。その遺流はいまも累葉の芳塵たえずして、一家の餘光身をてらし給めり。舍弟は式部大輔宗光朝臣、これも文學の嘉名ともがらにはぢずして、おなじく官學の兩道にあゆみ給ければ、廷尉の顯職にもいたり、尙書の一臺にもつらなられけり。その子息經尹朝臣、阿波守にて翰林を兼し給けるが、年わかく位あさくて、世をはやうせられけり。その子勘解由三位[宗業卿]、學校疑關のみち人にすぐれ、博覽懸河の譽世にあまねし。五更の間に應じ、四英の一にかぞへられ給き。しかるに承久騷亂の時、天下轉變の刻、家にあらざる弓箭にたづさはることなく、業をうくる筆硯にまつはるゝ外にあやまつことなかりしかども、「火炎崑岳、礫石與琬琰倶焚。嚴霜夜零、蕭蔥與芝蘭共盡」(文選)といへるゆへにや、仙洞近習の人々おほく牢籠し給ける隨一にて、所帶の莊園みな武勳の賞賜となり、拜趨の要路ことごとく不慮の收公に及しかば、子孫身を全すべき計なく、家門塵を繼べき道をたゝれけり。されども子息上野三位[信綱卿]、その子左衞門佐廣綱に至まで形のごとくなを朝廷にⅣ-0438わしり、皇家につかふる身にておはしけり。かの金吾に一人の息男あり。いまだ首服にをよばず、童名光壽と申けるが、七歲の時父にをくれてはやくみなしごとなられにけり。身に便をうしなへること水を離たる魚のごとく、世に馮なきこと陸にふせる龜に似たり。仍いとけなきこゝろに世路の嶮難のあゆみがたきことをしり、帝都の勁節のつきがたきことを顧て釋門にぞおもひたゝれける。すなはち大藏卿三位[光國卿]の引導として靑蓮院二品親王[尊助]の門下に參じ、出家得度の本意をとげて密敎修習の淨侶となられけり。やがて熾盛光院の有職に補せられて、中納言阿闍梨宗惠とぞ申ける。かくて門跡に侍て次第の受法などありけるが、闍梨思給けるは、累代勤王の家を出ぬるは、人中交衆の力をうしなふが故なり。いま僧家に入といへども、なを俗塵のまじはりにことならず。竹園貴禪の門人に列て華藏上乘の敎法にたづさはることは、眞俗に付て慶幸といひつべし。されども高官重職にのぼりたりとも、浮生の榮名ひさしくたもつべきにあらず。受職灌頂をとげたりとも、卽身の證悟我にをいて成じがたし。眞門にこゝろをすます身とならんこそ心安けれとて、門主に暇を申し忽に黑衣をぞ著せられける。すなはち坊號覺惠と稱す。かゝりけるも幼少より聖人の御膝の下にありて、撫育の恩にもⅣ-0439あづかり、敎訓の詞をも蒙給ければ、諸敎の得道の下機に相應しがたき旨をもつねに耳にふれ、彌陀の本願の鈍根を引攝する益をもおろおろ聞なれ給けるゆへに、かく思入給けるなるべし。されども聖人の芳言をば承給ながら、ひとへに信順の儀まではなかりしかばとて、これも如信上人をもて師承とし、親鸞聖人をば祖師とあがめたてまつり給けり。すなはち廟堂の寺務として門流の正統なり。いまの大和尙はかの闍梨の眞弟なり、母は中原氏、周防守なにがしとかや申ける人の女なり。人王八十九代 龜山院の御宇、文永七年[庚午]十二月廿八日の夜三條富小路の邊にて誕生あり。如來滅後二千二百十九年、祖師鸞聖人の遷化にをくれたること八ケ”年なり。かの聖人の圓寂は十一月廿八日、この尊老の降誕は十二月廿八日、かれは入滅、これは出胎、かれは仲冬、これは季冬、同日にしもあたれるは歸敬の信心のいとゞもよほす端ともなりぬべく、始末の化導のおなじかるべき義もおもひあはせらるゝものなり。

文和元歲[壬辰]十月十九日令書寫安置之
隱倫乘專


Ⅳ-0440最須敬重繪詞二

第二段
代々の例にて童名には光の字をつけられければ、これも光仙とぞ號せられける。文永九年秋のころ、母堂病の床にふして日をわたり給けるに、光仙殿その時は三歲なれば、いまだ知母の齡にもいたらず。そのうへ乳母のふところにのみいだかれて、さだかに生母の恩愛をわきまへ給べきならぬに、母の勞たまふことを知て、しきりにこゑをたてゝなき、ともすれば顏をまもりて、なげきの色をぞあらはされける。さる程に八月廿日無常の秋の風にさそはれて、有爲の夕の露ときえ給にき。この時にあたりてかなしみしたひ給ことかぎりなし。その體たゞ成人のごとくにみえ給けるは不思議の事なり。おほよそおさなくてのありさま、襁褓の中にありてもみだりに涕泣することなく、同稚の輩にまじはりても強に遊戲することなし。言行ともにとゝのほりてあまりに老ずけたるまでにみえ給けり。或時嚴親のところに客人のきたれるあり。かの人ひさしくまうでこざりけるが、月日をへてきたりのぞみけるに、日來の疎遠を謝せんとやおもひけん。父にてはんべる翁Ⅳ-0441のおもひの外なる問號を負たる事の侍て、さやうの事はるけんとせし程に暇をえがたくて、かくかきたえをとづれもまうさず侍つると申けるを、その人かへりて後に、虛實をばしらず、問號とは盜といふ事歟、よからぬ名なればこの事申さずともありなんと人々いひしろひけるに、かたへはなにかくるしからん。これはこゝろなほき人なるゆへに、身のをこたりなき由をきこえんために、ありのまゝに申にこそといひけるをきゝ給て、この小兒五、六歲の程にやおはしけん。さかしらし給けるは、正直なるも事にこそよれ、おやの恥をばいかゞあらはすべきと仰られければ、面々に舌をふり、あなおそろしのおほせられごとや、道理のをすところ、げにもさらなりとぞ、をのをの申ける。この事をおもふに、まことに幼兒の浮言といふべからず、をのづから先聖の美旨にかなへり。むかし葉公といふ人、孔子に語ていはく、「吾黨躬を直する者あり、その父羊をぬすめり、子これを證す」(論語)と。孔子これを聞て、「吾黨のなほき者これに異なり、父は子の爲にかくし、子は父の爲にかくす、直ことその中にあり」(論語)とのたまひけり。かのこゝろのなほきゆへに申にこそと云ける傍人の異見は、葉公のおもへる直にあたれり。正直なるも事にこそよれとおほせられける童形の一言は、孔子ののたまへⅣ-0442る直にかなひて侍にや。
第三段
嚴親思給けるは、我こそいとけなくして父に喪し、徒に孤となりしかば、庭の訓も跡なく、家の風もふきたえぬれば、まづいかにも外書をまなばしめばやと思給けり。されども累代の文書も失墜しぬ、訓說の相傳も我身はたどたどし、一門の俗中などにあつらへつけたりとも、幼學の扶持いかにも大樣なるべければ、いかゞせましと思煩給けるが、とても釋門に入べき身なれば、あながちに當家・他家の說をみがき、紀傳・明經の點をいはずとも、たゞ佛敎修學のした目のためなれば、さまでその道の明哲ならずともありなんとおぼされけり。爰に本は叡山の學侶にて侍從竪者貞舜といふ人あり。本山の交衆をやめ、淨土の行人となりて長樂寺一方の正統といはれ、慈信房澄海とぞ號しける。隆寛律師には孫弟敬日房圓海の附法なり。山上に住しても隨分の宏才にかぞへられ、眞門に入ても超倫の名譽あり。しかるにかの人、嚴親大谷の幽栖に簷をならべて、淨土一宗の芳好に昵をなされければ、これに對して圓宗の學問をも内々とげしめんとおぼされけるに、この大德はたゞ聖道・淨土の先達たるのみにあらず、兼て周詩・和語の才幹もくⅣ-0443ちおしからず。文華風月の天骨も性にうけて、說道なども世にもちゐられ、何事につけても人にゆるされたりしかば、まづこの老僧につけて内外典あひともに學せしめんとぞおもはれける。仍文永十一年秋の比にや、光仙御前五歲にて始て『朗詠集』をうけ給けるよりいくばくの月日をへず、四部の讀書の功ををへ、其外の小文などもよみ給けり。長大の後は南家の鴻儒藤三位[明範卿]の子息大内記業範といひし人の出家のゝち細々に申通ぜられけるにぞ訪給ける。さて讀書少々をはりければ、釋典にとりむかはれけり。はじめて『倶舍の頌疏』を學し、兼て天台の名目をぞ沙汰ありける。『頌疏』はまづ「世間品」を談じけるに、三界五趣の因果、九山八海の建立以下おぼつかなからず意を得て、ほとほと成人の同學よりも領解すゝむことおほかりけり。『本頌』三十卷は程なく闇誦してくらきところなし。かゝりければ法門の棟梁たらんことをあらまし、禪林の錦繡たらんことをよろこび思て、嚴親もいよいよ寵愛をくはへ、能化もしきりに感嘆をいたす。敬日大德の作にて、圓宗の要文をあつめ、簡要の義理をしるして『初心集』と題したる五帖の祕鈔あり。すなはちかの自筆なるを慈信房相傳してことに祕藏ありけるを、幼敏の隨喜にたへず、慇懃の奧書を載て附屬の芳志をあらはす。かの奧書に云、「先Ⅳ-0444師敬日上人爲幼學之仁、被集此要文等、澄海傳受之。建治三年仲秋十六日、依爲法器所奉付囑光仙殿也。以之表隨分懇志而已、愚老澄海」と[云々]。
第四段
この小兒、天性の聰明器にうけたるうへ、苦學の精勤も志にそみてみえ給ければ、おなじくは本寺本山の學業をもとげ、鳳闕仙洞の敕喚にもあづかる身になしたてまつらばやと嚴親も思たまひ、傍人も勸申ければ、弘安五年夏の比、垂髮十三歲にて、山門天台の名匠宰相法印宗澄ときこえし人の室へ入給けり。禪房は法勝寺の東下河原の邊、門流は宗源法印の弟子なり。稽古功つもり、公請勞たけて探題にのぼり、證義にいたられければ、朝獎名あらはれて、ほまれ山洛に及けり。かの法印に隨て鑽仰ありけるほどに、一を聞て十をしる性操を感じ、義をさとり文を諳ずる聰敏をよろこばれけり。
第五段
かくて年もあらたまりければ、弘安も六年になりて、春秋十四歲なり。たゞ學問の器量の倫に拔たるのみにあらず、容儀事がらも優美なる體なり。さるまゝには房中の賞翫もならぶ人なく、つたへきくあたりにも事々しき程にぞいひあつかひⅣ-0445ける。その比、三井の上綱にて南瀧院の右大臣僧正坊[淨珍]と申人おはしましけり。法流は圓滿院の二品法親王[圓助]の御弟子にて智勝大師の遺流をつたへ、俗性は北小路右相府[道經公]の御息、普賢寺殿には御孫にて二位中將[基輔卿]と申ける英才の賢息なり。眞俗につけて時めき給けるが、その御房へまいりかよふ人の宗澄法印の邊にもひとつなる事ありければ、下河原の坊にかゝる垂髮の入室し侍なるが、かの小僧房にあたら兒を置たる事の目ざましさよ、この御房へかどひとらせおはしませかしと申いでたりけるを、僧正坊きゝ給て、かの縁者はいかなるあたりにか尋聞て談じこゝろみよかしと仰られけるを、さては院主の御意にもさおぼしめしたるにこそとぞ面々に申ける。或時若輩等會合の事ありける盃酌の砌にて、此事をかたりいだしけるが、其座に本寺の衆徒など少々ありけるを棟梁とし、醉のまぎれにかれこれ與同して、わかき者共上下三十餘人、甲冑を帶し兵杖をとゝのへて、かの房に發向しけるに、おりふし房主法印は登山の程にて、留守の輩わづかに四、五人ぞありける。よき隙なりければ、おし入て馬にいだきのせたてまつり、軍兵前後にかくみて歸ける程に、更に手むかへにをよばず、事ゆへなくて率爾の入室ありける、慮外の事なり。僧正坊は穩便ならぬ事かなと仰られⅣ-0446ながら、心中には悅喜し給けり。
第六段
下河原の坊の留守よりいそぎ山上へ告たりければ、法印とる物も取あへず下山せられけり。こはいかにしつる事ぞとて、たゞ大息をつきあきれたる體にてぞおはしける。これも房人の名をかけ經廻する衆徒などもありければ口惜き事なり。奪返べきよし内談ありけれども、法印極信の人にて申されけるは、所存をとげんとせば、さだめて鬪戰にをよぶべし、事もしひろくならば、たちまちに兩門の確執としてほとほと九洛の騷動にもなりなん。留守無人の時なれば、さまでの恥辱にあらず、法器こそおしけれども力なき次第なり。たゞ自然に離房のよしにてこそあらめ、あひかまへて披露にをよぶべからずと嚴制を加られければ、無沙汰にてやみにけり。
第七段
さて南瀧院には寵異ことにはなはだしく、愛翫きはまりなかりけり。あまたの兒達の中にも所ををかれて名字を慥によばるゝ事もなく、おさなくて阿古阿古となのられける、そのかた名をぞよばれ給ける。未來には院家のうち一方の管領をゆⅣ-0447るして、本尊・聖敎の附屬もあるべきむねなどしめされければ、嚴親この由を聞給て、兩門經歷の條も本意にそむき、轉變卒爾の儀もおだやかならずおぼゆれども、これ又宿縁あるゆへにこそと、心中には不思議にぞ思給ける。院主かやうにもてなされければ、院家被官の門侶老若をいはず、われおとらじとあつまり、徒然をなぐさめたてまつらんとて、日々に獻酬の儀をとゝのへ、時々に遊宴の席をのぶ。すこしまことしき事とては歌連歌などぞ有ける。さならで長時のあそびには圍碁・雙六・將騎・亂碁・文字鎖、なぞなぞせぬ態もなく、いかにしてか興にいらんとのみぞしける。かゝる座席にも、さて默止事なく、なにはの事につけても、人をすさめぬ樣に振舞給ければ、房中こぞりて稱美することかぎりなし。されども學問といふ沙汰は内外につけてなかりければ、本人の意にはかくてはさは何の身にかなるべきとこゝろとまらずぞ思給ける。

文和元歲[壬辰]十月十九日令書寫安置之
隱倫乘專


Ⅳ-0448最須敬重繪詞五

第十七段
聖人御勸化の舊跡もゆかしく、いまだ上洛せぬ門弟達の向顏も大切におぼされければ、東國の巡見度々に及けり。まづ最初には、正應三年三月の比、嚴親桑門下向せさせ給けるに同道し給、こゝかしこ御遊歷の處々に至て、往事をしたふ淚にむせび、連々御隱居の國々を見て、平日の化導にもれたることをのみぞ今更かなしみ給ける。その下國の路にひたちの國とかや、小柿の山中と云所にて、にはかにわづらひ給事ありけり。世間に傷寒と號する事にや、溫氣身にありて四大やすからず、苦痛こゝろをなやまして五藏ことごとくいたむ。旅所の程なれば、醫家の術を訪にもをよばず、生涯の終にこそとて、たゞ佛刹の望をのみぞ專にせられける。こゝに慈信大德と申人おはしけり、如信上人には嚴考、本願寺聖人の御弟子なり。初は聖人の御使として坂東へ下向し、淨土の敎法をひろめて、邊鄙の知識にそなはり給けるが、後には法文の義理をあらため、あまさへ巫女の輩に交て、佛法修行の儀にはづれ、外道尼乾子の樣にておはしければ、聖人も御餘塵の一列Ⅳ-0449におぼしめさず、所化につらなりし人々もすてゝみな直に聖人へぞまいりける。而にかの大德ちかきあたりに遊止し給けるほどに、病床をとぶらはんがために旅店にきたりのぞまれけるが、の給けるは、われ符をもてよろづの災難を治す、或は邪氣、或は病惱、乃至呪詛、怨家等をしりぞくるにいたるまで、效驗いまだ地におちず、今の病相は溫病とみえたり。これを服せられば卽時に平愈すべしとて、すなはち符を書て與らる。病者こゝろの中に領納の思なかりければ、面の上に不受の色あらはれたり。さりながら事を病患の朦昧に寄て、しらぬ由にて取たまはず。嚴親枕にそふて坐し給けるが、本人辭遁の氣をば見給ながら、片腹痛とや思給けん、それそれと勸らる。信上人、又そばにて取繼て、やがて手にわたし給けるほどに、さのみのがれがたくて、のむよしにて手のなかにかくし、くちのうちへはいれたまはざりけり。いつはりのみ給けしき、かの大德もみとがめ給けるにや、わが符術をかろしめてもちゐられざるよし、後日につぶやき給けるとぞ。さて大德かへられてのちに、かの符を受用なかりつる所存はいかにと桑門たづね給ければ、こたへ給けるは、名號不思議の功能を案じ、護念增上縁の勝益を思には、まめやかに鬼魅のなす所の病ならば、おほかたは念佛者のこれにをかされん事はⅣ-0450本意ならず。これ行者の信心のいまだいたらざるゆへ歟、しからずは、うくる所のやまひ瘴煙のたぐひにあらざる歟。もし風寒のなやますところならば良藥をもて治すべし、もし疫神のなすところならば佛力をもて伏すべし。いかでか無上大利の名號をたもちながら、つたなく淺近幻惑の呪術をもちゐんやとこたへ給けり。そのゝちことに信力をぬきいで、稱名をこたり給ざりけるに、病累程なく平復し、心神本のごとく安泰にぞ成給ける。かの慈信大德もかくのごとく佛法の軌儀をひるがへし、巫覡の振舞にておはしけれども、もし外相をわざとかやうにもてなされけるにや、あやしくみえ給事ともありけり。そのゆへは大和尙位同斗藪の時、鎌倉をすぎ給けるに、故最勝園寺相州禪門W貞時朝臣R政務のはじめつかたなりけるに、おりふし守殿の御濱出とてひそめきさはぐを見給ければ、塔の辻より濱際まで數多の勢みちもよけやらずつゞきたり。その爲體、僧尼士女あひまじはり、帔をたれてみな騎馬なるが二、三百騎もやあるらんとみえたり。その中にかの大德もくはゝられけるが、聖人よりたまはられける無㝵光如來の名號のいつも身をはなたれぬを頸にかけ、馬上にても他事なく念佛せられけり。又常陸國をとほり給けるにも、その比小田の惣領ときこえしは、筑後守知賴の事にや。かの人鹿嶋の社へⅣ-0451參詣の時にも同道せられけるが、そのときも本尊の隨身といひ羇中の稱名といひ、關東の行儀にすこしもたがはず、兩度ともにとほりあひて御覽じ給ければ、心中の歸法は外儀の輕忽にはたがはれたるにやとぞの給し。しかのみならず、聖人五條西洞院の禪房にわたらせ給しとき、かの大德まいり給たりけるに、常の御すまゐへ請じ申され、冬の事なれば爐邊にて御對面あり。聖人と大德と互に御額を合て、ひそかに言辭を通じ給けり。高田の顯智大德と云人は、眞壁の眞佛聖の弟子にて、聖人には御孫弟ながら、上洛の時は禪容のほとりにちかづき、直に溫言の端にも預し人なるがゆへに、おりふしふとまいりてこはづくろひありければ、聖人も言說をやめられ、信大德すなはち片方へ退給けり。話語のむねしりがたし、よも世間の塵事にはあらじ、定て佛法の密談なるべし、いかさまにも子細ある御事にやとぞ、顯智房はのちにかたり申されける。おほよそ人の權實は凡見をもてさだめがたく、外相をもてはかりがたし。かの書寫山の性空上人の生身の普賢を拜せんと願ぜし攝州神崎の遊女の長者、白玉無漏の相を示けり。また元興寺の賴光法師の一生嬾墮なりし、人出離をうたがひしかども、心中にひそかに修するところありければ、安養順次の往生をとげき。さればこの慈信大德も、今のありさⅣ-0452まは釋範に違し、その行狀は幻術に同ずれども、しらず御子巫等の黨にまじはりて、かれらをみちびかんとする大聖の善巧にもやありけん。外儀は西方の行人にあらざれども内心は彌陀を持念せられければ、かの符術も名號加持の力をもとゝせられけるにや。もちゐる人はかならずその勝利むなしからざりけり。しかりといへども、當時の體をみるに、一流の行儀にあらざれば、その時かの符をうけたまはざりける信心の堅強なる程もあらはれ、師訓を憶持したまふ至もたうとくこそおぼゆれ。
第十八段
大納言阿闍梨弘雅と云人あり。俗姓は小野宮少將入道具親朝臣の子息に、始は少將阿闍梨[失名]と申ける人の世を遁て禪念房となん號せし人の眞弟なり。仁和寺鳴瀧相應院前大僧正坊[守助]の弟子にて、御室へも參仕の號を懸られけり。むねとは廣澤の淸流を酌て眞言の敎門をうかゞひ、兼ては修驗の一道に步て山林の斗藪をたしなまれけるが、後にはこれも隱遁して河和田の唯圓大德をもて師範とし、聖人の門葉と成て唯善房とぞ號せられける。とりわき一宗を習學の事などはなかりしかども、眞俗に亘てつたなからず、萬事につけて才學を立られける人なり。覺惠尊宿には一腹の舍弟にて坐し給ければ、大和尙位には叔姪の中にて、居を南Ⅳ-0453北にならべ、交を朝夕にむすばれけるが、常には法門の談話ありけり。或時はかりなき諍論あり。尊老人に對して法文を演說し給ことありける詞に、いま聞法能行の身となれるは善知識にあへる故なり。知識にあふことは宿善開發のゆへなり。されば聞て信行せん人は宿縁を悅べしとのたまひければ、唯善大德難ぜられていはく、念佛往生の義理またく宿善の有無をいふべからず。すでに所被の機をいふに十方衆生なり、その中に善惡の二機を攝す。善人にはまことに過現の善根もあるべし、惡人には二世一毫の善種さらになき者もあるべし。今の義ならば是等の類は本願にもれなんと申されけり。尊老の給けるは、頓敎一乘の極談、凡惡濟度の宗旨を立する時、たゞをしへて念佛を行ぜしむるにあり。その出離の機をさだめんにをいて、とをく宿善をたづぬべからざる事は然なり。他師下三品の機を判ずとして、始學大乘の人なりといへるを、宗家破して「遇惡の凡夫」(玄義分)と釋せらるゝは此意なり。されば『大經』(卷下)の文に「雖一世勤苦須臾之間、後生無量壽佛國」といへる、一世の修行に依て九品の往生をうることは其義勿論なり、あらそふ所にあらず。たゞし退てこれをいふに、往生をうることは念佛の益なり、敎法にあふことは宿善の功なり。もし宿善にあらずして直に法にあふといはゞ、Ⅳ-0454なんぞ諸佛の神力一時に衆生をつくし、如來の大悲一念に菩提をえしめざる。しかるに佛敎にあふに遲速あり。解脫をうるに前後あるは、宿善の厚薄にこたへ修行の強弱による。このゆへに『經』(大經*卷下)には、「若人無善本不得聞此經」とも、「宿世見諸佛樂聽如是敎」ともとけり。就中、和尙『淸淨覺經』の文を引て、信不の得失をあかしたまへり。これすなはち不信の者はこの說を聞て慚愧をいたし、自心をはげまさんがため、もとより信順のものはいよいよ堅持して、怯弱のこゝろをのぞかんがためなり。佛說すでに炳焉なり、いかでか宿善なしといはんと。唯公、又さては念佛往生にはあらで宿善往生にこそと申されければ、尊老、又宿善の當體をもて往生すといふ事は、始より申さねば宿善往生とかけりおほせらるゝにをよばず。往生の因とは宿世の善もならず今生の善もならず、敎法にあふことは宿善の縁にこたえ、往生をうることは本願の力による。聖人まさしく「遇獲行信遠慶宿縁」(總序)と釋し給うへは、餘流をくみながら相論にをよびがたき歟と云々。其後兩方問答をやめ、たがひに言說なかりけり。五條大納言[邦綱卿]の遺孫にて東海の州吏をへたる一人の雲客あり。北白川院に侍て仙院の事をばよろづにつけて申沙汰せられけるが、出家發心して伊勢入道行願房とぞ申ける。Ⅳ-0455俗體の時も才幹和漢にわたり、管絃の道なども人にしられたりしが、隱遁の後は法談の處々にちかづきのぞみて、聖道・淨土の法文に聽聞の耳をそばだて、諸宗久學の碩德に難答の詞をも通して、博覽内外典をかね、智辨隨分の譽ありし人なり。かの人今の諍論を後に聞て、上綱の述義は佛敎の正旨にかなひ、學生の智解ときこえたり。荒涼の狂言なれども、唯公の義勢は入道法門なりとぞ申されける。入道法門とは、いかなる事にか慥に相傳の旨はなくて、たゞ暗推の義なる由を申されけるにや。
第十九段
一流の奧區を傳て自身の出要をあきらめ給うへは、廣學多聞もさのみはなにゝかはせんなれども、諸家の所談もゆかしく、練磨は學者のあかぬ事なればとて、便宜の聞法をばなをすてられず、他門の先達にも少々謁し給けり。これによりて、安養寺の阿日房上人彰空に遇て、西山の法門をば聽受し給。五部の講敷にもたびたびあひ、そのほか『大經』・『註論』・『念佛鏡』などの談もありけり。又慈光寺の勝縁上人に對して、一念の流をも習學ありけり。これも『凡頓一乘』・『略觀經義』・『略料簡』・『措心偈』・『持玄鈔』などいふ幸西上人の製作ゆるされによりてかきとり給けり。
Ⅳ-0456第二十段
長樂寺の門風をば昔慈信上人に受たまふべかりしかども、其時はいまだ幼稚の程なれば、たゞ天台の名目、倶舍の沙汰などにてやみにき。その眞弟禪日房良海といひし人、智德の跡をふむべき器用にてもなかりければ、累代の遺跡も我聖人御廟の敷地のうちとなりし時、相傳の聖敎を尊老へ附屬したてまつりけり。敬日・慈信兩碩德の鈔物・祕書等まことにその流の重寶とみえ、みな後代の明鏡といひつべし。これによりてかの流の所立も師授なしといへども、おろおろ領解し給けり。いづれの義趣を聞ても、かの敎旨をもてあそばんとにはあらず、たゞ所傳の殊玉をみがかんがためなり。あまたの宿才に謁し給も、他の相承をならべんとにはあらず、ひとへにわが家の所傳に同異をわきまへんがためなり。されば彼をきゝ此をきゝても、いよいよ一流の氣味をそへ義につけ文につけても、ますます當祖の師承をぞたうとみ給ける。

文和元歲[壬辰]十月十九日令書寫安置之
隱倫乘專


Ⅳ-0457最須敬重繪詞六

第廿一段
又淸水坂主典辻子光明寺の自性房上人了然に遇て三論宗を學し給けり。嚴親多年の知音にて便をえられけるほどに、鸞師の釋などにつきて、かの宗の名目等存知大切なるべき事どもあるによりて、宗の梗概を伺給けるなるべし。件の上人、俗姓は京極入道中納言[定家卿]の嫡子にて、侍從光家といふ人おはしけり。中院の入道大納言[爲家卿]は次男にておはしけるが、家督にたてらるゝ時、家をいで世をそむかれけるその子息なり。事の縁ありて、十九歲まで童形にて弘誓院の大納言[敎家卿]家に隨逐したてまつられければ、有識の事共をも訓說をうけ、入木の道などをも扶持をえたまひけるが、その歲にはかに東大寺の別當僧正[定親]の室に入て出家をとげ、伯父戸部禪門の猶子として定源民部卿公とぞ申ける。それよりこのかた、眼を龍樹・天親の論文にさらし、こゝろを二諦・八不の宗旨にすまして、ほどなく學なり功つもりしかば、得業の請をうけ公請の役にも隨て、稽古の譽自他門にたぐひすくなき程なりけり。しかるに道念ひそかにきざし宿縁そらⅣ-0458にもよほしけるにや、忽に名利の門を出て隱遁の身となられけり。そのゝちは道隆禪師の門下にして直指人心の宗風をうかゞひ、又洛中名譽の能說とぞきこえられし。遂に德治の比、上壽八十有餘にて辭世の頌を製作して耳目をおどろかされけり。かの座下にして『法華』・『淨名』等の『遊意』幷に『肇論』・『三論玄』等の師授を得給けり。
第廿二段
如信上人は奧州大網東山といふ所に居をしめ給けるに、勸化にしたがふ人國郡にみち、德行をあふぐやから遠近にあまねし。爰にかの禪室をさること坂東のみち三十里西の方によりて、かねさはといふ所に乘善房といふ人あり。本願を信受するこゝろ誠ありて、師恩を慚謝するおもひことにねんごろなり。これによりて、正安元年窮冬廿日あまりの比、かの草庵に請じたてまつりて晝夜聞法の益にあづかり、朝夕給仕の勤をぞいたしける。かゝるほどに年光はやくくれて、陽春あらたに來けり。しかるに正月二日より心神いさゝか例ならずとて、うちふし給けるが、それより後はひとへに世事の囂塵を抛却して、長時の稱名をこたり給ざりけるに、異香室の中に薰じ、音樂窓の外にきこゆること、二日二夜のあひだ耳鼻にⅣ-0459ふれて間斷なし。かくて同四日巳時に正知正念にして、つゐに稱名のいき止給にけり。近隣の輩は瑞雲に驚てのぞみまうで、遠邦の族は靈夢を感じてはせあつまる人おほかりけり。これは奧州にての事なれば、尊老は知たまはず。のちにその告を得給てこそ、都鄙さかひのはるかなることもいまさらうらめしく、死生みちのへだゝりぬることも悲の淚しのびがたく思給けれ。その年秋の比はじめて聞給ければ、その時を入滅の忌辰に擬して、五旬の徂景をかぞへ、百日の光陰を勘て一一の追善を修し、懇々の精誠を抽給けり。一廻第三廻までの恩業をば、京都にてとりをこなひ給けるが、十三年は延慶五年に當たまひけるに、四年冬の比、數州重嶺の雪をしのぎ、百州萬里の冰をわたりて、まづ終焉の靈地をしたひ、かねさはの道場にいたりて、諸方の門弟をもよほし、追修の佛事をいとなみ給けり。それより大網の遺跡にまうでゝ、こゝにても一座の梵筵をぞのべられける。慇懃のこゝろざし鄭重のいたりなり。光明寺和尙、『觀經』の「奉事師長」の文を釋したまふをみれば、「敎示禮節學識成德、因行無虧乃至成佛、此猶師之善友力也、此之大恩最須敬重」(序分義)といへり。初の二句は世間の師德をあげ、次の二句は出世の師恩をあかし、次の二句はならべて内外の恩德をのべ、後の二句は總じてⅣ-0460奉事の本意を結す。又律宗の戒度の釋には「父母師長皆是福田。如其次第生己肉身、養育恩重、訓誨成行、終成法身」といへり。まことに生身を育するは父母なれば、世間の福田のこれにまされるはなく、法身を成ずるは師長なれば、出世の福田のこれよりも大なるはなし。このゆへに我尊老、父母にもことに孝行の志をもはらにし、師長にもふかく報恩の誠をいたし給けり。されば無量劫に骨を碎ても謝しがたき厚德なれば、數千里に步を運て抽給ける精信をば、如來もさだめて照鑑し、先師もさこそ納受し給けめ。
第廿三段
嚴親桑門は正安のはじめつかた、五十有餘の比より瘻といふ病にわづらひ給けるが、種々の療養をくはへられけるも指たる驗なく、又うちたへて寢食を忘給までの事はなし。いつとなく心よからぬ事なりけるを、發病よりこのかた臨終まで、首尾八、九年の間上綱治療の術をきはめ、看病の忠をつくして、聊も增あるときは、別離の期のちかづけるかとて愁嘆の淚にむせび、すこしも減かとみゆるおりは、殊なる悅のきたれる樣に安堵の思をぞなされける。これすなはち親として仁慈の思人に超たまひしかば、子として孝順の志餘にすぐれたまひけるうへ、上綱Ⅳ-0461つねにの給けるは、六道輪廻の程曠劫流轉のあひだ、生々の父母いづれも疎ならず、世々の恩所たれかおとるべきなれども、今生の二親はことに恩ふかく德あつし。そのゆへは、このたび希奇の法に遇て、ながく生死の源をたつべければ、親子の契もこれを限とおもふには、凡情の愛執そのなごりもおしく、出離の因をこの生にえぬれば、撫育の恩德いづれの世よりもをもし。ことに報謝の志をもいたし、至孝の誠をも抽べきなりとて、まめやかに心力をはげまし、更に他事なかりけり。爰に大谷の御廟はしばらく邪魔の障難によりて、不慮の災禍にをよびぬべかりしゆへに、あからさまに留守の仁をゝき、東山の本廟を退て、大炊御門東朱雀衣服寺の邊に旅所をしめられけり。上綱もおなじく伴たてまつり給。而に同年四月上旬のすゑざまより、いさゝか風氣おはしましければ、心地例にかはりたり。終焉のちかづくにこそとぞ仰られける。そのころ後宇多院御治天にて常磐井殿仙洞なりけるに、右京三品禪門[親業卿]祗候せられたりけるが、累世の知己一門の元老にて、内外なく申通ぜられけるうへ、咫尺の間なれば、細々に音信ありけり。十二日の朝、かの禪門狹少方丈の旅所に來て、淨名居士ならぬ病臥をとぶらひたてまつられければ、脇息に扶られて拾謁をとげらる。自他餘命の幾もあるまじきⅣ-0462ことをかたり、我も人も再會は西土の蓮臺を期すべしなど丁寧の言談、時をうつしてのち禪門かへられければ、長坐窮屈せりとて伏たまふ。しばらくありて淨惠といふ一念の名僧いたれりけるに、うれしくきたれり。一時『禮讚』の望ありつるに、助音すべしとぞしめされける。これは多年練習の舊執によりて、最後聽聞の欣樂をもよほされけるなるべし。かの『首楞嚴經』(卷八)には、「臨命終時未捨煖觸、一切善惡倶時頓現」ととき、『安樂集』(卷上)には「若刀風一至、百苦湊身、懷念何可辯」といへるも、げに思合られ侍ものかな。一念歸命の時、平生業成の益をうといふとも、至心信樂の故にも、いかでか長時修習の提携をさしをかんや。楞嚴の先德の釋に『大經』(卷下)の流通の文をひき、「歡喜信樂受持讀誦如說修行」等の行をあげてこれをすゝめらるゝに、「行者於此諸事、若多若少、隨樂憶念。若不能憶念、須披卷對文、或決擇、或誦詠、或戀慕、或敬禮、近爲勤心之方便、遠結見佛之縁」(要集*卷中)といへり。されば最後に『禮讚』の聽聞を欲し給しは平日に聲明をもてあそび給けるが、誦詠の一分として欣求の方便となりけるにや。昔これにめで給けるもかしこくとぞおぼゆる。その由來をたづぬれば、五音七聲をわきまへ、呂律淸濁に達すること、天性のうくる所その骨をえⅣ-0463たまへりけるほどに、門跡參仕のいにしへも隨分に聲明をたしなみ給けるが、隱遁の後は殊に意を淨土の曲調に入て、名を非道の秀逸にえたまへり。一念の音曲に節拍子を定けるは敎達なり。かの弟子の中に樂心ときこゆるは上足なり。そのかみ彼を召請して連々これをぞならはれける。器にもたへ功をもつまれければ、道にあらずして道に達し、神をきはめ妙をきはめられけり。されば龜山院脫屣ののち、このみちを叡賞ありけるに、「上之所好、下必從之」といへるゆへにや、上達部、殿上人もおほくたしなみ給けるに、時の四英といはれ給し中に、小野宮中將入道師具朝臣と申しは、この桑門の指授によりて芝砌の淸選にあづかられけるとぞ。この朝臣は上綱一乘院へ參給し媒介の人なり。上綱もおなじく慇懃の庭訓をうけて涯分の名望をつき給けり。かやうに道にふけりこゝろをそめ給けるゆへに、いまはのきはにもこの一禮を望給けり。さて尊老調聲にて初夜の『禮讚』を始られけるに、病者はふしながら聽聞の耳をそばだて、心中に助音ありとみえて、脣をぞうごかし給ける。時々は聲にあらはれてもきこえけるが、文々句々に義理をあぢはひて隨喜の色あさからず。しかるに枕にかけたてまつられたる善導大師の御影前に當て、念佛の三重の程に殊勝の異香熏じけるを、廻向の後、尊老そばⅣ-0464なる淨惠にこれはかぎ侍やとの給ければ、其事なりとこたふ。さるほどに座につらなれる諸人、みなこれをかぎて奇異の思をぞなしける。さて病者、われをいだきあげよ、おきんとの給ければ、看病の人々よりておこしたてまつるに、西に向て端坐し念佛百餘遍のどかに唱て、その息にて終給にけり。さるほどに法興院の邊に紫雲たなびけりとて、仙洞の人々きほひみ、上下沙汰しのゝしりけり。三品禪門あやしくおもはれけるほどに、今朝向顏のゝち病相いかゞとをとづれありければ、只今事きれぬるよし返答あり。さればこそこの彩雲の靈瑞は、かの往生の先兆なりけりとたうとまれけり。そのほか粟田口の三品羽林[嗣房卿]、この勝相をみるよし使をもて申をくられけり。もとより日ごろの安心、疑をなされざるうへ、臨終の靈瑞も目をおどろかしぬれば、往生淨土の益は生前第一の悅なれども、恩愛別離の悲、なをやるかたなく、戀慕哀傷の思、ほとほとたぐひなきがごとし。尊儀の先親金吾禪門の墓所、蓮臺野芝築地と云所なりけるを、亡者一期のあひだ每月にまうで給ければ、かの傍に葬して、これも月々の忌景にあたり、各々の菩提をとぶらはんがために父祖の墓に參詣したまふことをこたりなかりけり。頃年よりこのかた古墓のありさま荒廢きはまりなきゆへに、大谷の本所安堵再興數年Ⅳ-0465の後、かの芳骨を御廟にうつし奉て、本願寺聖人の御骨とともに每日の頂戴をいたされける。
第廿四段
五旬・百日・一周の追孝をば瞑目の舊寢にして合掌の誠心をはこばれけるが、第三年の時は、これこそ大略作善の終ならんずらめ、まめやかに他事をまじへずして一向稱名の功をつまんとおもふに、世縁にまぎれてはいかにも妨あるべし。しづかに獨住をいたして、ことに精誠をはげまさんとて、勸修寺の奧、松影といふ所にあやしの草庵をかりうけ、誰ともしられずして隱居し、ひとり篤勤のまことを抽られき。正忌にさきだつこと三七日、幽地をしめて念佛をつとめ、當日を迎て第三廻本所に歸て報恩をいとなみ給けり。又十三年の忌辰は元應元年なりしに、大谷の往跡にて『法事讚』の行法を勤修し給けり。今年は尊老知命の齡にみちたまへるが、いまゝで存じてこの光陰をまちつけぬるは慮外の事なればとて、これも懇念のあまりにかねて三七日のあひだ東山眞如堂の靈場にこもりて、西土安樂國の妙臺をぞかざられける。廿一日のうち、終の七日には念佛の外は言語を禁じて如法の無言をさへぞいたされける。勇猛精進の行は強に心中の己證にあらねども、Ⅳ-0466たゞ謝德の勵修に於て世間の戲言をまじへじとなり。始二七日のあひだ三月盡の日にあたりたりけるに、亡者の病床にのぞまれし三品禪門の嫡孫右少辨藤原朝臣有正、才幹世にしられ學功 朝にゆるされしかども、思の外に沈淪し、其比強仕の程にや、甲州の前吏にていとまある時なりければ、且は靈寺累旬の參籠を面謁に感じ、且は殘春半日の餘景をもろともにおしまんとて、件日ひそかに流水に脂て、かの閑地にぞいたられける。花をあはれみ鳥をしたふ興のみにあらず。佛に供し僧に施する儲までもねんごろなりければ、長河をしのぐ芳志もすてがたく、詔店をもてあそぶ時習にももよほされて、をのをの詩を賦し歌を詠じて、おもひのほかにその日ばかりぞ稱名ならぬ口業をまじへ給ける。

文和元歲[壬辰]十月十九日令書寫安置之
隱倫乘專


Ⅳ-0467最須敬重繪詞七

第二十五段
おほよそ萬事につけて道をたしなむ志もふかく、諸道にわたりて賢にひとしからんことをおもふこゝろあさからずおはしましける中にも、殊に世俗にとりてふかく執せられしは和歌のみちなり。年少の時よりよみきたり給しかども、とりわきこのみちの故實をば、主典の辻子に住して三論の宗旨を學し給ける次に、自性上人に對して六義の風體をも習給けり。かの上人は累葉の家業なるうへ、秀逸も性にうけ數奇も意に染て、名譽の歌仙にておはせければ、その諷諫を受られけり。京極大納言法印[定爲]も主席の親昵にて、常にかの寺に會合せられける時、その訓說をうけ給事共もありけり。さるは花をもてあそぶ春の朝には、ひらくるをまち、ちるをおしむにつけて、榮悴のうつりやすきことをしり、月にめづる秋の夜は、くもるをいとひ、はるゝをのぞむになぞらへて、明暗の品ことなることを觀じ給けるにや。いにしへ『閑窓集』といふ打聞をしるし給しは伏見院あめのしたしろしめしゝ時、正和の比なりしに、思の外に上聞に達し、はⅣ-0468からざるに叡覽にをよびて、さまざまに天感にあづかり、人々握翫せられけり。又元應元年春の比、北野の靈廟にして詩歌の披講をとげらるゝ事ありけり。これは曩祖勘解由相公[有國卿]耽學好文の志によりて、當社尊崇の誠をいたされけるあまり、「幼少兒童皆聽取、子孫永作廟門塵」といふ詩を獻ぜられし後、兩人の賢息をして桂林の一枝をおらしめ、當家の子孫をして松壖の餘塵となさしめ給けることをおぼして、出家の僧體なりといへども、敬神の祖意を慕給けるなり。四韻の周詩、當世の鴻儒金章をくはへられ、三首の和歌、この道の英才瓊篇ををくらる。詩歌をのをの都序ありて、和漢ともに金玉をみがゝれけり。抑やまとうたは世俗文字の業として、狂言綺語の一なれども、權化の大士もみなこれにたづさはり、上古の先賢もまたすてず。聖德太子の片岡山の詠を製し、傳敎大師の我立杣のことばをのこされしをはじめとして、佛道をもとむる人おほくこれをもはらにせり。されば黑谷聖人もあながちにこゝろを花月にかけ給ことはなかりけめども、事にふれおりにしたがひて一吟一詠の言をのこし給事も、あまた侍めり。その中に、
極樂へ つとめてはやく 出たゝば みのをはりには まいりつきなん
Ⅳ-0469と讀たまへるも、「願我今生強發意、畢命往彼聖人叢」(法事讚*卷下)といへる文のことはりも意にうかびて、欣心をもよほすなかだちともなりぬべく、懈怠を治するまことのこゝろもおこりぬべくこそおぼゆれ。おほよそ歌の體を案ずるに、迷妄の眼をもてみる時は世間淺近の言なりといへども、覺悟の情におほせておもふ日は甚深實相の理にかなへり。まづ文字を三十一字にさだむるは、如來の三十二相の中に无見頂相をのぞくに准ず。四八の妙相に取て、かの一相は凡夫の所見にあらざるが故なり。次の句數を五句にわかてるは如來の五智を表し、風體に六義をたつるは菩薩六度にかたどる。天竺には梵文をもて言を通じ、震旦には漢語をもて思をのべ、我朝には和字をもてこゝろをあらはすなり。今の和歌はわづかに三十一字のうちに百千萬端の志をのぶること、かの梵語に多含の德ありて、一字に无盡の義をこめ一句に无邊の理をつくすがごとし。たゞ天地をうごかし鬼神を感ぜしむるたよりなるのみにあらず、暗に佛界をおどろかし法門をしめすしるべともなり侍にや。先賢のもちゐられけるもことはりなれば、尊老もその舊蹤をしたひて、この習俗をもてあそび給けるなるべし。『觀經』の「佛心者大慈悲是」の文の意を讀給ける歌、
Ⅳ-0470あはれみを 物にほどこす 心より ほかにほとけの すがたやはある
又『圓覺經』の「生死涅槃猶如昨夢」といへる文を、淨土門の意によせて詠ぜられける。
かはらじな 彌陀の御國に むまれなば きのふのゆめも けふのうつゝも
淨敎の宗旨は指方立相と談ずればとて、一向有相の敎なりとこゝろうる人は、ひとへに淺近の思をなす。而に自力をすてゝ他力に歸するといへるは、しばらく生佛各別の義趣に相順すれども、穢土を去て淨土に生ずとおもへば忽に生卽无生の眞理に契當して、極樂の往生をうれば法性の常樂を證するなり。この時は煩惱すなはち菩提と轉じ、生死すなはち涅槃とあらはる。一家の釋に、「西方寂靜无爲樂、畢竟逍遙離有无」(定善義)ともいひ、「一到彌陀安養國、元來是我法王家」(般舟讚)とも判ずるはこの意なり。今の佳什は當敎の極致を得て「始知衆生本來成佛」(圓覺經)の證悟も、西方の淨刹にして究竟すべき義をよみたまへる、ことに甚深にこそきこえはんべれ。すべて處々の靈地にまうでゝもまづ風吟をいたし、國々の名所をたづねてもかならず露詞をあらはし給しかども、かずおほく事しげきうへ、綜緝のおこりこの道のためにあらず。畫圖のくはだてたゞ往行をしらんⅣ-0471と欲するばかりなるがゆへに、くはしくのするにおよばず。しかしながら略を存ずる所なり。
第二十六段
本願寺聖人の化導の始終を記せられたる一卷の式文あり、『報恩講式』となづく。本所の例事として每月の御忌に勤行せられ、當流の聖典に加て諸國の道場にこれを安置す。又同聖人一期の行儀を錄せられたる二卷の縁起あり、旨趣を言葉にしるし形狀を後素にあらはす。これまた門下に賞翫して處々に流布せり。かの兩箇の述作はこの尊老の賢草なり。此外聖人存生の言行をしるされ、因で法文のはしばしを載られたる三卷の鈔あり、『口傳鈔』と號す。又末流迷倒の邪路をふさがんがために條々規式を定られたる一卷の書あり、『改邪鈔』といふ。ともに和字なり。この二部は小僧願主として望申せしゆへに、口筆によりて短毫をそめき。これことに生前の思出ともなり、遐代の明鑑にも擬するものなり。しかのみならず、たまたま津を問たてまつる者には西方の通津をしめし給とき、後日の廢忘をたすけんとてしるし給べきよし申請ける輩には、一紙のうち片時の程などに、いと思案にもおよばず、たゞ率爾に筆をそめらるゝ事、著述あまⅣ-0472たあり。後にその名を題せられて『執持鈔』・『願々鈔』・『最要鈔』・『本願鈔』など號せらる。これみな所被の輩のつたなきをさきとして、漢字の筆體のまよひやすきをさしをき、所望の族のをろかなるを本として、和字の製作のこゝろえやすきをもちゐらるゝ所なり。『執持鈔』にいはく、「平生の一念によりて往生の得否はさだまるものなり。平生のとき不定のおもひに住せば、かなふべからず。平生のとき善知識のことばのしたに歸命の一念を發得せば、その時をもて娑婆のをはり、臨終とおもふべし。抑、南无は歸命、歸命のこゝろは往生のためなれば、またこれ發願なり。この心あまねく萬行萬善をして淨土の業因となせば、また廻向の義あり。この能歸の心、所歸の佛智に相應するとき、かの佛の因位の萬行・果地の萬德、ことごとくに名號の中に攝在して、十方衆生の往生の行體となれば、阿彌陀佛卽是其行と釋したまへり。また殺生罪をつくるとき、地獄の業因をむすぶも、臨終にかさねてつくらざれども、平生の業にひかれて地獄にかならずおつべし。念佛も又かくのごとし。本願を信じ名號をとなふれば、その時分にあたりてかならず往生はさだまるなりとしるべし」とW云云取詮R。平生業成の玄旨これにあり、他力往生の深要たふとむべし。
Ⅳ-0473第二十七段
ちかごろは、うちつゞき天下おだやかならざるうへ、ことに觀應元年冬のはじめの比より、京中にとかくさゝやき沙汰する事のみきこえしが、はてには攝津國・河内、堺をならべてをのをの魚鱗の陣をかまへ、八幡・山崎、河をへだてゝたがひに鶴翼の圍をなせり。なにとなりゆくべき世中やらんと、上下やすきこゝろなし。かくて日月をしうつり雌雄いまだ決せざれば、四海の波いよいよさはがしく、八埏の塵おさまりやらざるに、きはまれるかげはやくくれて、あらたまの年あらたにたちかへりぬ。春をむかふるそらのけしきのどかなるに似たれども、都のうちゆきゝの人のしづかならぬ體なのめならずぞみえける。禁裏・仙洞、萬事の禮法おほくすたれ、緇素・貴賤、たゞ世間の擾亂をなげくほか他なし。さるほどに正月十六日、山崎の軍兵は陣を出て東にむかひ、坂本の勇士は轡を竝て南にすゝむ。兩方はせあひ京都にして合戰あり。疵をかふむるもの數をしらず、命をうしなふ人もおほかりけり。時をあぐるこゑ、山をひゞかし、鴨河の水、血に變じてぞながれける。尊老このありさまを聞給てのたまひけるは、今すでに劫減の末にのぞむといへども、いまだ小の三災のいたるべきにはおよばざⅣ-0474るに、刀兵さかりにおこり、飢饉またいのちをあやうくせんとす。求不得苦をうれふる人、耳目にみち、怨憎會苦をのがれぬたぐひ、東西にはせちがふ。まことにかゝる時にこそ厭離穢土のこゝろもおこり、欣求淨土の思も切なるべきに、駑馬鞭におどろかぬ習も今更おもひしられたり。あなうの娑婆世界や、よしなきながいきしてかゝる災難にあへる事よ、あはれとく往生をとげばやと仰られけるは、たゞなべての事とこそおもひたてまつりしに、十七日の夕よりいさゝか嵐氣の身にしみて、こゝちの例ならずおぼゆるとのたまひけれども、かりそめの風痺にこそと、人はいたくおどろきたてまつらぬに、やがてうちふし給て、今度は最後なり。命終ちかきにありとて、口に餘言をまじへず、たゞ佛號を稱念し、こゝろ他念にわたらず、ひとへに佛恩を念報し給。かくてその夜あけにければ、看病の人々相談し、醫師を招て病相をみたてまつらしめ、隨分の療養をもくはへたてまつらんと申合られけるを、病者聞給て、ゆめゆめその儀あるべからず。命は定業かぎりあれば藥をもて延べからず。たとひその術ありともわがもとむる所にあらず、岸上のちかづくことをまつ。病は苦痛の身をせむるなければ、何の療治をかとぶらはん。たとひ又そのくるしみありともいく程かあらん、刹那Ⅳ-0475にすつべき穢土の業報なりとて、かたく制し給ければ、ちからなくその沙汰をもやめられけり。稱名のたえまに傍なる人にしめして二首の歌をぞかゝせられける。
南无阿彌陀 佛力ならぬ のりぞなき たもつこゝろも われとおこらず
八十あまり をくりむかへて この春の 花にさきだつ 身ぞあはれなる
一首は朝夕に思付給し和語の風情によせて、日來決得し給へる他力の安心をあらはされたり。三十一字の藻詞たりといへども、おそらくは四十八願の簡要ともいひつべきものをや。一首は春の節をむかへても、なを花の比まであるまじきあだなる身のほどをおもひしりたまへることのはいとあはれにや、又やさしくもきこゆ。さてこよひもあけぬれば十九日なり。さるにても病の輕重もいのちの延促も、人々おぼつかなくおもひたてまつられければ、病體にはかくとも申さで、ひそかに醫師を召請してみたてまつらしめられけるが、たのみなき御有樣なり。よもひさしき御事はあらじと申て出にけり。されどもくすしは何とか申つるともたづねらるゝ事なし。いきの下にことばをいだしたまふ事とては念佛ばかりなり。其日も程なくくれ、酉の剋にをよびて斜陽すでに山のはにかゝり、晩風かすかに庭の梢にをとづるゝ程、とをくは大覺世尊入涅槃の儀式をまもり、ちかⅣ-0476くは兩祖聖人入滅の作法に順じて、頭北面西右脇にふし、意念口稱かはるがはるあひたすけて、相續稱名の息ひとたびとゞまり、本尊瞻仰のまなこながく閉たまひにけり。壽算をたもち給ことはすでに八十二、つゐにあるべき別とは知ながら、病牀にふし給ことはわづかに三箇日、時に臨ては取敢ぬ悲なり。智燈ながく消ぬ。誰に向てか遺弟愚癡の昏迷をてらさん。法水たちまちにかはきぬ。何をもてか末世群萌の道芽をうるほさん。たゞ忍土永離の淚をおさへて、ひとへに淨刹再會の縁を期するばかりなり。
第二十八段
同廿三日、本願寺の門内をいだしたてまつりて、延仁寺の原上にをくりたてまつる。高祖聖人の遺跡として知恩院近のあひだ、由緖も他にことに、かたがた事の便あるによりて、かの長老誓阿彌陀佛に申し誂られければ、僧徒・尼衆、數輩をたなびき、燃燈・燒香、軌則を整て殯送の儀をかひつくろひ、荼毗の庭にをもむきて一夜の煙となしたてまつりしかば、三春の霞にたぐひ給けり。上下哀慟の肝をこがし、男女戀慕の淚にむせぶ。同廿四日、人々かの葬所に至て遺骨をひろひたてまつらるゝに、或は白珠の色なるもあり、或は碧玉の光なるⅣ-0477もあり。かたきこと金剛のごとくして、さながら佛舍利にことならず。眼前の奇特先哲の跡にもこえ、不思議の靈威滅後になをひかりをかゞやかしたまへり。圭峯禪師の傳に、「灰の中に舍利を得たり」といへるをば、上古に智行の人おほかりし世にもたふとみて美談とし、大漢に道解の僧すくなからざるさかひにもこぞりて崇敬をいたす。いま佛心宗の人にはかのたぐひ事しげゝれば、めづらしからぬ事にや。念佛の行者はいたくその瑞をきかねば、あながちにこの相をもとめず。しかれども、その勝德によりてこの異瑞あるべくは、西方の行者なんぞもてかたしとせん。しかるゆへは、无上大利の名號には萬行ことごとくおさまり、彌陀无漏の果德は五智をもて成ぜるがゆへに、この行をたもつものは无智无行なれども自力修習の智行にはすぐれ、この法を信ずるものは造惡不善なれども必墮地獄の苦報をまぬかる。さればまさしく淨土に生じて无爲の法性を證し、まのあたり佛前にまうでゝ无生の深理をさとりなんのち、穢土の舊骨の佛の境界に同ぜしこと何の疑かあらん。又眞如堂の尼衆の中より申しをくりけるは、十七日より十九日まで首尾三箇日のあひだ、祇園の社のほとにあたり、太子堂の邊かとみえて、紫雲空にそびく。いかなる人の往生をとぐる瑞相やらんと、諸人あつⅣ-0478まりて拜見しき。而にこの御入滅をきくに、不例の始より終時の期まで日時符合せり、渴仰きはまりなき由をぞ申ける。おほよそ先達の中に臨終の瑞をあらはすもあり、滅後の靈をかくすもあり。時宜により機縁にしたがひて、隱顯あひことに、有无おなじからざるにこそ。しかれば、世にかはる瑞相のあるばかりをたふとみて、目にあらはるゝ奇特のなきをあざけるも妄見なり。また眼のまへにあらたなる靈異をみながら、これも得脫はしりがたしなどいふは、まして偏執にや。我尊老は日ごろあながちに後世者の行狀をもあらはされず、一すぢに遁世門のふるまひをも事とし給ざりしは、末代濁世の衆生のむまれつきなるすがたを表し、煩惱具足の凡夫のをのれなりなるかたちをしめし給なるべし。いま終焉彩雲の奇異といひ、滅後靈骨の勝相といひ、耳目にかくれなくひろく視聽をおどろかし給しかば、もし疑謗をくはへん異學の人は、これを聞てたちまちに非理の邪見をあらため、もし信仰をいたさん同聽の輩は、これをみていよいよ敬重の潤色にもそなへつべし。當時の崇重の切なる思をもよほすにつけても、ことに將來の弘敎の盛ならんことをよろこぶものなり。