称名正因
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しょうみょう-しょういん
『唯信鈔文意』には、称名について、
- 『阿弥陀経』の証誠護念のありさまにてあきらかなり。『阿弥陀経』の証誠護念のありさまにてあきらかなり。証誠護念の御こころは『大経』にもあらはれたり。また称名の本願は選択の正因たること、この悲願にあらはれたり。この文のこころはおもふほどは申さず、これにておしはからせたまふべし。(唯文 P.703)
と、「称名の本願」とされておられた。また御開山は『尊号真像銘文』では、法然聖人の「日本源空聖人真影」には、
- 『選択本願念仏集』といふは、聖人(法然聖人)の御製作なり。「南無阿弥陀仏 往生之業念仏為本」といふは、安養浄土の往生の正因は念仏を本とすと申す御ことなりとしるべし。正因といふは、浄土に生れて仏にかならず成るたねと申すなり。(尊号 P.663)
と、なんまんだぶと称えることは往生浄土の正因であり種であるとされておられた。
覚如上人以降の本願寺では、信心を強調して称功を否定するあまり讃嘆門としての称名を能行は自力であると否定してきた歴史的背景がある。特に本願寺八代目蓮如さんは応仁の乱といふ混乱の時代に生をうけた方であり、それはまた、浄土教の教義混乱の時代であった。このような時代環境の中で、浄土教の他流、他派との違いを強調する論理が「信因称報説」であったのである。もっとも蓮如さんには「信因称報説」を説くといふ意思はなく、後年の学僧が蓮如さんのお文の文意から「信心正因 称名報恩」が「蓮如教学」の中核だといふ思想から出来たのが、キリスト教風の人格神へ対する「信のみ・恩寵のみ・聖書のみ」といふ名号法といふ仏法を等閑にした「法」無しの信心だけを説く信心論であろう。
「信因称報説」は、ある意味では、御開山の視点からみれば仏法の行法である正定業を無視した「単信無称」の異安心なのだが、こういふ輩は「本願招喚の勅命」である、「垂名示形」である称えられるご法義を知らないのであろう。