聞
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もん
Ⅰ 光明の利益がそのまま名号の功徳であることを示して聞という。(大経 P.30)
Ⅱ 教法のことばを聞くだけで、そのいわれを知らないこと。(化巻 P.407)
Ⅲ 聞き信ずること。阿弥陀如来の本願のいわれを聞きわけて疑う心のないこと。→補註7(信の一念・聞)。
出典(教学伝道研究センター編『浄土真宗聖典(注釈版)第二版』本願寺出版社
『浄土真宗聖典(注釈版)七祖篇』本願寺出版社
区切り線以下の文章は各投稿者の意見であり本願寺派の見解ではありません。
『浄土真宗聖典(注釈版)七祖篇』本願寺出版社
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聞 (もん)
耳に聞く。思、修に対する。経典などによって教説をうけ信じることをいい、聞法、聞信などと熟語にする。
北本涅槃経巻三十六迦葉菩薩品(*)には、仏の教説の一半のみを信じるもの、他人に解説できぬもの、議論のためや名誉や利益を得るために教説を身にたもつものを聞不具足(聞いても本当には聞いていない)とする、とある。
無量寿経巻下には、阿弥陀仏の名号を聞いて信じよろこぶ一念で浄土へ生まれ不退の位に住することができる(聞其名号、信心歓喜、乃至一念。至心廻向。願生彼国、即得往生、住不退転[1])とあり、これを真宗では、聞とは本願の趣意を聞きわけて疑いのないこと、即ち信と同じ意であるとする。
また仏の光明が衆生をおさめとって救うはたらきがあると信ずることを聞光力という。(仏教語辞典)
経典の教えを聞いて生じる〔聞慧〕、思惟・観察によって得られる〔思慧〕、禅定を修めて得られる〔修慧〕を三慧という。「総序」には、
- 誠なるかな、摂取不捨の真言、超世希有の正法聞思して遅慮することなかれ。(総序 P.132)
と「聞・思」とある。世に超えて稀有な大悲の智慧である阿弥陀仏の正法を聞信してためらうなかれとされている。御開山は「聞」の人であり、阿弥陀如来の教法を聞くことがそのまま信である聞即信であることを聞思といわれたのであろう。