同一念仏…
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同一念仏 無別道故 どういつねんぶつ-むべつどうこ
「同一に念仏して別の道なきがゆゑに」(行巻訓) (行巻 P.186,証巻 P.310,真巻 P.372,一代記 P.1320)
出典(教学伝道研究センター編『浄土真宗聖典(注釈版)第二版』本願寺出版社
『浄土真宗聖典(注釈版)七祖篇』本願寺出版社
区切り線以下の文章は各投稿者の意見であり本願寺派の見解ではありません。
『浄土真宗聖典(注釈版)七祖篇』本願寺出版社
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『論註』では『浄土論』の「如来浄華衆 正覚華化生」(浄土論 P.30) の偈文を釈して、
と「同一念仏 無別道故」とされていた。浄土へ生まれるとは、生死輪廻による四生 (胎・卵・湿・化)という生まれ方ではなく、浄土の正覚の蓮華に化生するのであった。
法然聖人は「往生と言うは、
御開山は「行巻」で、その意を、
- ここをもつて『論の註』にいはく、「かの安楽国土は、阿弥陀如来の正覚浄華の化生するところにあらざることなし。同一に念仏して別の道なきがゆゑに」とのたまへり。(行巻 P.186)
と、『論註』の文を念仏を称えて「念仏成仏」する文証として引文されておられた。
なお、御開山が晩年に述された法然聖人の法語集である『西方指南鈔』では、一声や一念の信に固執して称名(なんまんだぶ)をおろそかにして相続(次々に続くこと)しないことを、
- 問。法蔵菩薩の本願の約束は、十声・一声なり。一称ののちは、法蔵菩薩の因位の本誓に心をかけて、名号おば称すべからざるにや。
- 答。無沙汰なる人は、かくのごとくおもひて、因位の願を縁じて念仏おも申せは、これをしえたるここちして、願を縁ぜざる時の念仏[1]おば、ものならずおもふて、念仏に善悪をあらす[2]るなり。これは無按内[3]のことなり。法蔵菩薩の五劫の思惟は、衆生の意念を本とせば、識揚神飛[4]のゆへ、かなふべからずとおぼしめして、名号を本願と立たまへり。この名号はいかなる乱想の中にも称すべし。称すれば、法蔵菩薩の昔の願に、心をかけむとせざれとも、自然にこれこそ本願よとおぼゆべきは、この名号なり。しかれば、別に因位の本願を縁ぜむと、おもふべきにあらず。(『西方指南抄』四箇条問答p.178|)
とされておられた。