興福寺奏状
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『興福寺奏状』は、元久2年(1205)奈良興福寺の衆徒が法然聖人の提唱した専修念仏の禁止を求めて朝廷に提出した文書で、起草者は、法相宗中興の祖といわれる解脱坊貞慶上人とされる。法然聖人弾劾の上奏文というべき文書であり、これを因として、承元の法難と称される法然師弟に対する死罪を含む専修念仏への弾圧がなされた。御開山は『教行証文類』の後序で、
- ひそかにおもんみれば、聖道の諸教は行証久しく廃れ、浄土の真宗は証道いま盛んなり。しかるに諸寺の釈門、教に昏くして真仮の門戸を知らず、洛都の儒林、行に迷ひて邪正の道路を弁ふることなし。
- ここをもつて興福寺の学徒、太上天皇[後鳥羽院と号す、諱尊成]今上[土御門院と号す、諱為仁]聖暦、承元丁卯の歳、仲春上旬の候に奏達す。主上臣下、法に背き義に違し、忿りを成し怨みを結ぶ。これによりて、真宗興隆の大祖源空法師ならびに門徒数輩、罪科を考へず、猥りがはしく死罪に坐す。あるいは僧儀を改めて姓名を賜うて遠流に処す。予はその一つなり。
- 参考文献→「興福寺奏状と教行証文類」
目次
興福寺奏状
法然聖人流罪事
貞慶解脱上人御草
同形状詞少少
九箇条の失の事
第一 新宗を立つる失。
第二 新像を図する失。
第三 釈尊を軽んずる失。
第四 万善を妨ぐる失。
第五 霊神に背く失。
第六 浄土に暗き失(浄土を暗くする失)。
第七 念仏を誤る失。
第八 釈衆を損ずる失。
第九 国土を乱る失。
興福寺僧綱大師等、誠惶恐謹言。
- 興福寺の僧綱大師等、誠に
惶 れ恐れて謹んで言く。
請彼殊蒙 天裁永糾改沙門源空
所勧専修念仏宗義状
殊 に天裁[1]を蒙り、永く沙門源空勧むるところの専修念仏の宗義を糾改せられんことを請ふの状。
右謹考案内有一沙門、世号法然。立念仏之宗、勧専修之行。其詞、雖似古師其心多乖本説。粗勘其過略有九箇条。
興福寺奏状 第一
第一に新宗を立つる失。
夫仏法東漸後、我朝有八宗。或異域神人来而伝授、或本朝高僧往而請益。于時上代明王勅而施行、霊地名所、隨縁流布。其興新宗、開一途之者、中古以降、絶而不聞。蓋機感已足、法将不応故歟。凡立宗之法、先分義道之浅深、能弁教門之権実、引浅兮通深、会権兮帰実。大小前後文理雖繁、不出其一法。不超其一門、捈彼至極、以為自宗。譬如衆流宗巨海 猶似万郡之朝一人矣。
若夫以浄土念仏名別宗、一代聖教、唯説弥陀一仏之称名、三蔵指帰、偏在西方一界之往生歟。今及末代始令建一宗者、源空其伝燈之大祖歟。豈如百済の智鳳・大唐鑑真、称千代之規範、寧同高野弘法・叡山伝教有万葉之昌栄者乎。若自古相承不始于 今者逢誰聖哲面受口択、以幾内証教誡示導哉。縦雖有功有徳、須奏公家以待勅許。私号一宗甚以不当。
- それ仏法東漸の後、わが朝に八宗あり。或は異域の神人来って伝授し、或は本朝の高僧往きて益を請ふ。時に上代の明王勅して施行し、霊地名所、縁に随って流布す。それ新宗を
興 し、一途を開くの者、中古より以降、絶えて聞かず。蓋 し機感[3]已 に足り、法まさに応ぜざるゆえか。およそ宗を立つるの法、先づ義道の浅深を分ちて、能く教門の権実を弁 へ、浅を引いて深に通じ、権を会して実に帰す。大小前後、文理繁 しと雖も、その一法に出でず。その一門に超えず、かの至極を捈(ひ)いて、以て自宗とす。譬へば衆流の巨海に宗するがごとく、なほ万郡の一人に朝するに似たり。 - もし
夫 れ浄土の念仏を以て別宗と名づけば、一代の聖教、ただ弥陀一仏の称名のみを説き、三蔵の指帰、偏 に西方一界の往生のみに在らんか。今末代に及びて始めて一宗を建てしむるは、源空はその伝燈の大祖なるか。あに百済の智鳳、大唐の鑑真のごとく、千代の規範と称し、寧 ぞ高野の弘法、叡山の伝教に同じく、万葉の昌栄ある者か。もし古より相承して今に始まらずとならば、誰か聖哲に逢ひて面 りに口択〔決〕を受け、幾 の内証を以て教誡示導するや。たとひ功あり徳ありと雖も、すべからく公家に奏して以て勅許を待つべし。私に一宗と号すること、甚だ以て不当なり。
興福寺奏状 第二
第二に新像を図する失。
近来諸所翫一画図、世号摂取不捨曼陀羅。弥陀如来之前有衆多人。仏放光明、其種種光、或枉而横照、或は来而返本。是顕宗之学生・真言行者為本、其外持諸経 誦神呪造自余善根の人。其光所照、唯専修念仏一類也。見地獄絵像之者、恐作罪障、見此曼荼羅者、悔修諸善。教化之趣、多以此類也。上人云「念仏衆生摂取不捨経文也。我全無過」云云。此理不然、偏修余善、全不念弥陀者、実可漏摂取光。既欣西方亦念弥陀、寧以余行故、隔大悲光明哉。
- 近来、諸所に一の画図を
翫 ぶ。世に摂取不捨の曼陀羅と号す。弥陀如来の前に衆多の人あり。仏、光明を放ち、その種種の光、或は枉 げて横に照し、或は来りて本に返る。是れ顕宗の学生、真言の行者を本とし、その外に諸経を持し、神呪を誦して、自余の善根を造 すの人なり。
その光の照すところ、ただ専修念仏の一類なり。地獄の絵像を見るの者は、罪障を作すことを恐れ、この曼荼羅を見るの者は、諸善を修することを悔ゆ。教化の趣、多く以てこの類なり。上人云く、「念仏衆生摂取不捨は経文なり。我、全く過なし」と云云。この理然らず、
興福寺奏状 第三
第三に釈尊を軽んずる失。
夫三世諸仏、慈悲雖均、一代教主、恩徳独重、有心之者、誰不知之。爰専修云、「身不礼余仏、口不称余号」。其余仏・余号者、即釈迦等諸仏。専修専修、汝誰弟子、誰教彼弥陀名号、誰示其安養浄土。可憐、末生忘本師名。彼覚親論師(仏陀密多)・法愛沙門、不及此咎、尚蒙大聖呵者歟。善導礼讃文云、「南無釈迦牟尼仏等一切三宝、我稽首礼、南無十方三世虚空遍法界微塵刹土中一切三宝、我稽首礼」云云。和尚意趣、以之可知。衆僧猶帰命、況於諸仏哉。諸仏尚不簡、況於本師哉。
- それ三世の諸仏、慈悲
均 しと雖も、一代の教主、恩徳独り重し、心あらんの者、誰かこれを知らざる。ここに専修の云く、「身に余仏を礼せず、口に余号を称せず」と。その余仏余号とは、即ち釈迦等の諸仏なり。専修専修、汝は誰が弟子ぞ、誰かかの弥陀の名号を教へたる、誰かその安養浄土を示したる。憐むべし、末生にして本師の名を忘れたること。かの覚親論師(仏陀密多)、法愛沙門、この咎に及ばず、なほ大聖の呵を蒙る者か。善導の礼讃の文に云く、「南無釈迦牟尼仏等一切三宝、我稽首礼、南無十方三世虚空遍法界微塵刹土中一切三宝、我稽首礼」と云云。和尚の意趣、これを以て知りぬべし。衆僧なほ帰命す、況 んや諸仏においてをや。諸仏なほ簡 ばず、況んや本師においてをや。
興福寺奏状 第四
第四に万善を妨ぐる失。
凡恒沙法門、待機而開甘露良薬、随縁而授。皆是釈迦大師、無量劫中難行苦行所得正法。今執一仏之名号、都塞出離要路。不唯自行、普誡国土、不唯棄置及軽賤。而間、浮言雲興、邪執泉涌く、或云読「法花経」之者堕地獄、或云受持『法花』浄土業因者は、是謗大乗人也云云。
本誦八軸・十軸及千部・万部之人、聞此説永以廃退。剰悔前非。所捨本行、宿習実深、所企念仏、薫修未積、中途仰天歎息者多矣。此外花厳・般若之帰依真言・止観の結縁、十之八九皆以棄置。如堂塔建立・尊像造図、軽之、笑之、如土如沙。福恵共闕、現当憑少。上人者智者也、自定無謗法心歟。但門弟之中、其実難知。至愚人者、其悪不少。根本始末、恐皆同類也。昔信行禅師之立三階行業、孝慈比丘之止一乗読誦、全不軽大乗、量末世機制止其行。然信行、成大蛇身、百千徒衆、住其口中、孝慈、当鬼神之害、士人同類、忽臥高座下。謗大乗業罪中 最大雖。五逆罪、復不能及。是以、弥陀悲願、引摂雖度 誹謗正法、捨而無救。於戲西方行者、所憑在誰乎。
- およそ恒沙の法門、機を待ちて開き、甘露の良薬、縁に随って授く。皆是れ釈迦大師、無量劫の中に難行苦行して得るところの正法なり。今一仏の名号を執して、都(すべ)て出離の要路を塞ぐ。ただ自行のみにあらず、普く国土を誡め、ただに棄置するのみにあらず、あまつさへ軽賤に及ぶ。しかる間、浮言雲のごとく興り、邪執泉のごとく涌く、或は法花経を読むの者は地獄に堕つと云ひ、或は法花を受持して浄土の業因と云ふ者は、是れ大乗を謗る人なりと云云。本八軸・十軸[4]を誦して千部万部に及ぶの人、この説を聞いて永く以て廃退す。あまつさへ前非を
悔 ゆ。捨つるところの本行、宿習実に深く、企つるところの念仏、薫修未だ積まず、中途にして天を仰ぎて歎息する者多し。この外、花厳・般若の帰依、真言・止観の結縁、十の八九は皆以て棄置す。堂塔の建立、尊像の造図のごとき、これを軽んじて、これを笑ふこと、土のごとく、沙 のごとし。福恵共に闕 け、現当憑 み少し。上人は智者なり、自らは定めて謗法の心なきか。ただし門弟の中、その実知り難し。愚人に至っては、その悪少からず。根本始末、恐らくは皆同類なり。昔信行禅師の三階の行業を立て、孝慈比丘の一乗の読誦を止めし、全く大乗を軽んぜす、末世の機を量りて、その行を制止す。しかるに、信行、大蛇の身と成りて、百千の徒衆、その口中に住し、孝慈、鬼神の害に当りて、士人同類、忽ちに高座の下に臥す。大乗を謗ずる業、罪の中に最も大なり。五逆罪と雖も、また及ぶこと能はず。是を以て、弥陀の悲願、引摂広しと雖も、誹謗正法、捨てて救ふことなし。ああ西方の行者、憑むところ誰に在るぞや。
興福寺奏状 第五
第五に霊神を背く失。
念仏之輩、永別神明、不論権化・実類、不憚宗廟・大社。若牒〔恃?〕神明必堕魔界云云。於実類鬼神者、置亦不論。至権化垂迹者、既是大聖也。上代高僧皆以帰敬。彼伝教、参宇佐宮、参春日社、各有奇特之瑞相。智証、詣熊野山、請新羅神、深祈門葉之繁昌。行教和尚袈裟之上、三尊宿影、弘法大師画図中、八幡顕質。是皆不及法然之人歟、可堕魔界之歟。就中、行教和尚、帰大安寺、造二階楼、上階安八幡御体、下階持一切経論。神明若不足拝者、如何安聖体於法門之上哉。末世沙門、猶敬君臣、況於霊神哉。如此麤言、尤可被停廃。
- 念仏の輩、永く神明に別る、権化・実類を論ぜず、宗廟大社を
憚 らず。もし神明を牒〔恃 〕めば、必ず魔界に堕つと云云。実類の鬼神においては、置いて論ぜず。権化の垂迹に至っては、既に是れ大聖なり。上代の高僧皆以て帰敬す。かの伝教、宇佐宮に参じ、春日社に参じて、おのおの奇特の瑞相あり。智証、熊野山に詣 で、新羅神を請じて、深く門葉の繁昌を祈る。行教和尚の袈裟の上に、三尊影を宿し、弘法大師の画図の中に、八幡質 を顕はす。是れ皆法然に及ばざるの人か、魔界に堕つべきの僧か。なかんずく、行教和尚、大安寺に帰りて、二階の楼を造りて、上階に八幡の御体を安じ、下階に一切経論を持す。神明もし拝するに足らざれば、如何ぞ聖体を法門の上に安ぜんや。末世の沙門、なほ君臣を敬す、況んや霊神においてをや。此のごときの麁言、尤 も停廃せらるべし。
興福寺奏状 第六
第六に浄土に暗き失。
勘『観無量寿経』云、
「一切凡夫 欲生彼国者当修三業。一者孝養父母 奉仕師長 慈心不殺 修十善業。二者受持三帰 具足衆戒 不犯威儀。三者発菩提心 深信因果 読誦大乗」云々
又九品生中説上品上生云、「具諸戒行、読誦大乗」、中品下生、「孝養父母、行世仁愛」云云。
曇鸞法師者念仏大祖也。於往生上輩出五種縁。其四(略論)云、「修諸功徳」、中輩七縁之中、「起塔寺、飯食沙門」云云。
又道綽禅師、会常修念仏三昧文云、「行念仏三昧多故言常修。非謂全不行余三昧也」云云。善導和尚者、「所見塔寺、無不修葺」(瑞応伝)。然者上自三部之本経、下至一宗之解釈、諸行往生盛所許也。
加之曇融亘橋、善晟造路、常旻修堂、善冑払坊、空忍採花、安忍焼香、道如施食、僧慶縫衣。各以事相一善、皆得順次往生。僧喩之持阿含、行衍之講『摂論』、雖小乗一経、雖凡智講解、各有感応、実詣浄土。
沙門道俊者、念仏無隙 不書『大般若』、覚親論師者、専修忘他不造釈迦像。皆妨往生願、蒙大聖誡。永改其執、遂生西方。当知不依余行、不依念仏、出離之道、只在于心矣。
若夫『法花』雖有「即住安楽」文、般若雖有「随願往生」之説、彼猶総相也、少分也。
不如別相念仏、不及決定業因者、総則摂別上必兼下。仏法之理、其徳必然、何以凡夫親疎之習、誤失仏界平等之道。
若往生浄土者、非行者之自力者、只憑弥陀之願力。於余経・余業者、無引摂別縁、無来迎別願、於対念仏人不能及者、為弥陀所化可預来迎。豈異人哉、是人也。逢釈迦之遺法、修大乗行業、即其体也。若不帰彼尊者、実可謂無縁。若不兼念仏者、且可為闕業。
既兼二辺、何漏引摂。若無専念故不往生者、智覚禅師毎日兼修一百箇之行、何得上品上生哉。凡造悪人者、難救而恣救口称小善者、難生而倶生。「乃至十念」之文、其意可知。而近代之人、剰忘本而付末、憑劣而欺勝。寧叶仏意哉。
彼帝王布政之庭、代天授官之日、賢愚随品、貴賤尋家。至愚之者、縦雖有夙夜之功、不任非分之職。下賤之輩、縦雖積奉公之労、難進卿相之位。大覚法王之国、凡聖来朝之門、授彼九品之階級、各守先世之徳行。自業自得、其理必然。而偏憑仏力不測涯分、是則愚癡之過也。就中仮名念仏浄業、難熟順次往生、本意有違失、戒恵倶闕、所恃何事哉。若経生々漸可成就者、一乗薫修・三密の加持、豈亦無其力哉。同雖沈愚団者深沈、共雖浮智鉢早浮。況智之兼行、虎之有翅也、以一遮多、仏宜照見。
但如此評定、自本不好。専修党類、謬以井蛙之智、猥斥海鼈之徳之間、黙而難止、遂及 天奏。若愚癡道俗、不得此意、或軽往生之道、或退念仏之行、或又不兼余行、無生浄土者、全非本懐還可禁制。縦又依此事、雖為念仏瑕瑾、比其軽重、猶不如宣下歟。
- 『観無量寿経』を
勘 うるに云く、 - 「一切の凡夫、かの国に生ぜんと欲せば、まさに三業を修すべし。一は、父母に孝養し、師長に奉仕し、慈心にして殺さず、十善の業を修す。二は、三帰を受持し、衆戒を具足して、威儀を犯さず。三は、菩提心を起して、深く因果を信じ、大乗を読誦すべし」と云云。
- また九品生の中に上品上生を説いて云く、「諸の戒行を具し、大乗を読誦すべし」、中品:下生に、「父母に孝養し、世の仁愛を行ふべし」と云云。
- 曇鸞大師は念仏の大祖なり。往生の上輩において五種の縁を出せり。その四(略論)に云く、「修諸功徳」、中輩七縁の中に、「起塔寺」「飯食沙門」と云云。
- また道綽禅師、常修念仏三昧の文を会して云く、「念仏三昧を行ずること多きが故に常修と言ふ、全くに余の三昧を行ぜずと謂ふにはあらざるなり」と云云。善導和尚は、見るところの塔寺、
修葺 せずといふことなし。しからば、上、三部の本経より、下、一宗の解釈に至るまで、諸行往生、盛んに許すところなり。 - しかのみならず、曇融、橋を
亘 し、善晟、路を造り、常旻、堂を修し、善冑、坊を払ひ、空忍、花を採み、安忍、香を焼き、道如、食を施し、僧慶、衣を縫ふ。おのおの事相の一善を以て、皆順次の往生を得。僧喩の阿含を持し、行衍の摂論を論ぜし、小乗の一経と雖も、おのおの感応あり、実に浄土に詣す。沙門道俊は、念仏隙なくして大般若を書せず、覚親論師は、専修他を忘れて釈迦の像を造らず。皆往生の願を妨げて、大聖の誡を蒙る。永くその執を改めて、遂に西方に生ず。まさに知るべし、余行によらず、念仏によらず、出離の道、ただ心に在り。 - もし夫れ法花に即住安楽の文ありと雖も、般若に随願往生の説ありと雖も、彼はなほ相相なり、少分なり。別相の念仏に如かず、決定の業因に及ばずとならば、総は則ち別を摂して、上は必ず下を兼ぬ。仏法の理、その徳必ず
然 なり。何ぞ凡夫親疎の習を以て、誤って仏界平等[5]の道を失はんや。 - もし往生浄土は、行者の自力にあらざれば、ただ弥陀の願力を
憑 む。余経余業においては、引摂の別縁なく、来迎の別願なし。念仏の人に対して及ぶこと能 はざるにおいては、弥陀の所化として来迎に預るべし。あに異人ならんや、是の人なり。釈迦の遺法に逢ひて、大乗の行業を修す、即ちその体なり。もしかの尊に帰せざれば、実に無縁と謂ふべし。もし念仏を兼ねざれば、かつは闕業たるべし。 - 既に二辺を兼ねたり、何ぞ引摂に漏れん。もし専念なき故に往生せずとならば、智覚禅師は毎日一百箇の行を兼修せり、何ぞ上品上生を得たるや。およそ造悪の人は、救ひ難くして恣(ほしいまま)に救ひ、口に小善を称するは、生じ難くして
倶 に生ず。「乃至十念」の文、その意知るべし。しかるに近代の人、あまつさへ本を忘れて末に付き、劣を憑みて勝を欺く。寧 ぞ仏意に叶 はんや。
- かの帝王の
政 を布 くの庭に、天に代わって官を授くるの日、賢愚品に随ひ、貴賤家を尋ぬ。至愚の者、たとひ夙夜 の功[6]ありと雖も、非分の職に任 せず。下賤の輩、たとひ奉公の労を積むと雖も、卿相の位に進み難し。大覚法王の国、凡聖来朝の門、かの九品の階級を授くるに、おのおの先世の徳行を守る。自業自得、その理必然なり。しかるに偏 に仏力を憑 みて涯分を測らざる、是れ則ち愚癡の過なり。なかんづく、仮名の念仏、浄業熟し難く、順次往生、本意に違失あり、戒恵倶に闕く、恃むところ何事ぞや。もし生生を経て漸(ようや)く成就すべくは、一乗の薫修、三密の加持。あにまたその力なからんや。同じく沈むと雖も、愚団の者は深く沈み、共に浮むと雖も、智鉢は早く浮む。況や智の行を兼ぬるは、虎の翅 あるなり、一を以て多を遮す。仏宜しく照見すべし。
- ただし此のごときの評定、本より好まず。専修の党類、謬って井蛙(せいあ)の智を以てし、猥(みだりがわ)しく
海鼈 の徳を斥 ふの間、黙して止み難く、遂に天奏に及べり。もし愚癡の道俗、この意を得ず、或いは往生の道を軽んじ、或いは念仏の行を退け、或いは余行を兼ねずして、浄土に生ずることなくは、全くに本懐にあらず、還って禁制すべし。たとひまたこの事によって、念仏の瑕瑾たりと雖も、その軽重を比するに、なほ宣下に如かざるか。
興福寺奏状 第七
第七に念仏を誤る失。
先於所念仏 有名有体。其体中有事有理。次付能念之相、或口称、或心念。彼心念中、或繋念、或観念。彼観念中、自散位至定位、自有漏及無漏。浅深重々、前劣後勝。
然者、口唱名号、不観不定、是念仏之中麁也、浅也。若随世依人、此又雖足正及校量者、争不弁差別。爰専修蒙如此難之時、不顧万事、只答一言、是弥陀本願有四十八、念仏往生第十八の願也。何隠爾許大願、唯以一種号本願哉。付彼一願、「乃至十念」者、挙其最下也。以観念為本、下及口称、以多念為先不捨十念。是大悲至深、仏力尤大也。
其易導易生者、観念也、多念也。依之『観経』云、「若人苦迫不得念仏応称無量寿仏」云云。
既称名之外有念仏言、知、其念仏是心念也、観念也。彼勝劣両種中、如来本願、寧置勝而取劣哉。何況、善導和尚発心初見、浄土図嘆云、「唯此観門、定超生死」。
遂入此道発得三昧。定知彼師自行、十六想観也。念仏名兼、観与口。若不然者、作『観経疏』、亦作『観念法門』云。云本経、云別草、題目何表観字哉。而『観経』付属文、善導一期之行、唯在仏名、誘下機之方便也。彼師解釈詞有表裏、慈悲・智慧、善巧非一、守杭儻、開過於歟。誤亦雖付口称 三心能具四修無闕真実念仏名為専修。
只以捨余行為専、以動口手為修可謂、不専之専也、非修之修也。憑虚仮雑毒之行、作決定往生の思、寧善導之宗、弥陀之正機哉。凡云浄土、云念仏、云業因、往云生、江湖之浅深難分、行道之遠近易迷。若不学諸宗之性相者、争輒知一門之真実哉。
爰我法相大乗宗者、源出釈尊・慈尊之肝心、詳載本経・本論之誠文。印度則千部論師・十大菩薩、立破有空執、晨旦亦三蔵和尚・百本疏主相承無謬。雖道綽・善導説、未足依憑。然而彼亦為三昧発得人、豈背一生補処之説。互求会通、勿好乖諍。
- 先づ所念の仏において名あり体あり。その体の中に事あり理あり。次に能念の相について、或は口称あり、或は心念あり。かの心念の中に、或は繋念あり、或は観念あり。かの観念の中に、散位より定位に至り、有漏より無漏に及ぶ。浅深重重、前は劣、後は勝なり。
- しからば、口に名号を唱ふるは、観にあらず、定にあらず、是れ念仏の中の麁なり浅なり。もし世に随ひ、人によって、これまた足ると雖も、正しく校量に及ばは、
争 でか差別を弁 へざらん。ここに専修、此のごときの難を蒙らんの時、万事を顧みず、ただ一言に答へん、「是れ弥陀の本願に四十八あり、念仏往生は第十八の願なり」と。何ぞ爾許 の大願を隠して、ただ一種を以て本願と号せんや。かの一願に付きて、「乃至十念」とは、その最下を挙ぐるなり。観念を以て本として、下口称に及び、多念を以て先として、十念を捨てず、是れ大悲の至って深く、仏力尤 も大なるなり。その導き易く生じ易きは、観念なり、多念なり。これによって観経に云く、「もし人苦に迫められて、念仏を得ざれば、まさに無量寿仏と称すべし」と云云。 - 既に称名の外に念仏の言あり、知りぬ、その念仏は、是れ心念なり、観念なり。かの勝劣両種の中に、如来の本願、寧ぞ勝を置きて劣を取らんや。いかに況んや、善導和尚発心の初め、浄土の図を見て嘆じて云く、「ただこの観門、定めて生死を超えん」と。遂にこの道に入って、三昧を発得す。定めて知りぬ、かの師の自行、十六想観なり。念仏の名、観と口を兼ぬ。もし然らずは、観経の疏を作り、また観念法門を作る。本経と云ひ、別草と云ひ、題目に何ぞ観の字を表せんや。しかるに、観経付属の文、善導一期の行、ただ仏名に在らば、下機を誘ふるの方便なり。かの師の解釈の詞に表裏あり、慈悲智慧、善巧一にあらず、杭を守る儻(ともがら)、過を祖師に関(あず)くるか。
- たとひまた口称に付くと雖も、三心能く具し、四修闕くることなき、真実の念仏を名づけて専修とす。ただ余行を捨つるを以て専とし、口手を動かすを以て修とす。謂ひつべし、「不専の専なり、非修の修なり」と。虚仮雑毒の行を憑み、決定往生の思ひを作さば、寧ぞ善導の宗、弥陀の正機ならんや。およそ浄土と云ひ、念仏と云ひ、業因と云ひ、往生と云ふ、江湖の浅深分ち難く、行道の遠近迷ひ易し。もし諸宗の性相を学ばざれば、争でか輒(たやす)く一門の真実を知らんや。
- ここにわが法相大乗宗は、源釈尊慈尊の肝心より出でて、詳(つまびら)かに本経本論の誠文に載す。印度には則ち千部の論師・十大菩薩、有空の執を立破し、晨旦にはまた三蔵和尚・百本疏主、相承謬ることなし。道綽・善導の説たりと雖も、未だ依憑に足らず。しかれども彼もまた三昧発得の人たり、あに一生補処の説に背かんや。互に会通を求めて、乖諍を好むことなかれ。
興福寺奏状 第八
第八に釈衆を損ずる失。
専修云、「囲棊・双六不乖専修、女犯・肉食不妨往生。末世持戒市中虎、可恐可悪。若人、怖罪、憚悪、是不憑仏之人也。」
如此麁言、流布国土、為取人意、還成法怨。夫極楽教門、盛勧戒行、浄土業因、以之為最。所以者何非戒律者六根難守、恣根門者 三毒易起。妄縁纏身、念仏之窓不静、貪瞋濁心宝池之水難澄。此業所感、豈其浄土哉。依之浄土業因、盛用戒行。教文如上載。
但末世沙門、無戒破戒、自他所許也。専修之中亦持戒人非無。今所歎者全非其儀。
雖不如実受、雖不如説持怖之、悲之須生慚愧之処、剰破戒為宗叶道俗之心。仏法滅縁、無大於此。洛辺近国猶以尋常。至于北陸・東海等諸国者、専修僧尼盛以此旨云云。自不勅宣、争禁遏奏聞之趣、専在此等歟。
- 専修の云く、「囲棊双六は専修に乖かず、女犯肉食は往生を妨げず、末世の持戒は市中の虎なり、恐るべし、悪(にく)むべし。もし人、罪を怖れ、悪を憚らば、是れ仏を憑まざるの人なり」と。
- 此のごときの麁言、国土に流布す、人の意を取らんがために、還って法の怨(あだ)と成る。夫れ極楽の教門、盛んに戒行を勧む、浄土の業因、これを以て最とす。所以はいかんとならば、戒律にあらざれば六根守り難く、根門を恣(ほしいまま)にすれば三毒起り易し。妄縁身に纏(まと)はれば、念仏の窓静かならず、貪瞋心を濁せば、宝池の水澄み難し。この業の感ずるところ、あにそれ浄土ならんや。これによって、浄土の業因、盛んに戒行を用ふ。教文は上に載するがごとし。
- ただし末世の沙門、無戒破戒なる、自他許すところなり。専修の中にまた持戒の人なきにあらず。今歎くところは全くその儀にあらず。実のごとくに受けずと雖も、説のごとくに持せずと雖も、これを怖れ、これを悲しみて、すべからく慚愧を生すべきの処に、あまつさへ破戒を宗として、道俗の心に叶ふ。仏法の滅する縁、これより大なるはなし。洛辺近国なほ以て尋常(よのつね)なり、北陸・東海等の諸国に至っては、専修の僧尼盛んにこの旨を以てすと云云。勅宣ならざるよりは、争でか禁遏(きんあつ)することを得ん。奏聞の趣、専らこれらに在るか。
興福寺奏状 第九
第九に国土を乱る失。
仏法・王法猶如心身、互見其安否、宜知彼盛衰。当時浄土法門始興、専修要行尤盛。可謂王化中興之時歟。但三学已廃、八宗将滅。天下理乱、亦復如何。
所願、只諸宗与念仏、宛如乳水、仏法与王道、永均乾坤。
而諸宗皆信念仏雖無異心、専修深嫌諸宗、不及同座、水火難並、進退惟谷。若如専修志者、天下海内仏事法事、早可被停止歟。而貴賎未帰、法命未終尽者、全非他力。忝我后叡慮無動明鑑之故也。若及後代専修得隙之時、君臣之心、視余如芥者、縦雖不及停廃、八宗誠有若亡歟。矧復弗沙蜜王之壊伽藍也、容愚臣之諫言、会昌天子之殄僧尼也、起道士之嫉妬。法滅因縁、将来難測。為思此事泣達天聴。若無当時之誡、争絶後毘之惑。嗚呼両門随分之欝陶、古来雖多、八宗同心之訴訟、前代未聞。事之軽重、恭仰聖断。望請天裁、仰七道諸国、被糺改沙門源空専修念仏之宗義者、世尊付属之寄、弥和法水於舜海之浪、明王照臨之徳、永払魔雲於堯日之風矣。誠惶誠恐謹言。
- 仏法・王法猶し心身のごとし、互にその安否を見、宜しくかの盛衰を知るべし。当時浄土の法門始めて興り、専修の要行
尤 も盛んなり。王化中興の時と謂ふべきか。ただし三学已に廃し、八宗まさに滅せんとす。天下の理乱、亦復如何(またまたいかん)。願ふところは、ただ諸宗と念仏と、あたかも乳水のごとく、仏法と王道と、永く乾坤に均しからんことなり。 - しかるに諸宗は皆念仏を信じて異心なしと雖も、専修は深く諸宗を嫌ひ、同座に及ばず、水火並び難く、進退惟(こ)れ谷(きわ)まる。もし専修の志のごとくは、天下海内の仏事法事、早く停止せらるべきか。しかるに、貴賎未だ帰せず、法命未だ終尽せざるは、全く他の力にあらず、忝くもわが后(きみ)の叡慮動くことなく明鑑の故なり。もし後代に及びて専修隙を得るの時、君臣の心、余を視ること芥(あくた)のごとくは、たとひ停廃に及ばずと雖も、八宗まことに有若亡(ゆうじゃくぼう)ならんか。矧(いわ)んやまた弗沙蜜王の伽藍を壊せしや、愚臣の諫言を容(もち)ゐ、会昌天子の僧尼を殄(ほろぼ)せしや、道士の嫉妬に起れり。法滅の因縁、将来測り難し。この事を思ふがために天聴に奏達す。もし当時の誡なくは、争でか後毘の惑を絶たん。ああ仏門随分の欝陶、古来多しと雖も、八宗同心の訴訟、前代未聞なり。事の軽重、恭(うやうや)しく聖断を仰ぐ。望み請ふらくは、天裁、七道諸国に仰せて、沙門源空の専修念仏の宗義を糺改せられんことを、者(てえれば)、世尊付属の寄(よせ)、いよいよ法水を舜海の浪に和し、明王照臨の徳、永く魔雲を堯山の風に払はん。
誠惶誠恐謹言。
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奏 状
奏状一通
右件源空、偏執一門、都滅八宗。天魔所為、仏神可痛。仍諸宗関心、欲及天奏之処、源空既進怠状、不足鬱陶之由、依 院宣有御制。衆徒驚歎、還増其色。就中叡山発使加推問之日、源空染書起請後、彼弟子等、告道俗云、上人之詞、皆有表裏、不知中心、忽拘外聞云々。
其後、邪見之利口、都無改変。今度怠状、又以同前歟。 奉事不実、罪科弥重。縦有上皇之叡旨、争無明臣之陳言者、望請息慈早経奉聞、仰七道諸国、被停止せて、一向専修条々過失、兼又行罪過於源空並弟子等者、永止破法之邪執、還知念仏之真道矣。仍言上如件。
元久二年十月 日
奏状一通
- 右件の源空、一門に偏執し、八宗を都滅す[7]。天魔の所為、仏神痛むべし。
仍 って諸宗関心、天奏に及ばんと欲するのところ、源空既に怠状[8]を進む、鬱陶に足らざるの由、院宣によって御制あり。衆徒の驚歎、還って其の色を増す。なかんづく、叡山、使を発して推問を加うるの日、源空筆を染めて起請を書くの後、かの弟子等、道俗に告げて云く、「上人の詞、皆表裏あり、中を知らず、外聞に拘 はることなかれ」と云々。 - その後、邪見の利口、
都 て改変なし。今度の怠状、また以って同前か。奉事、実ならざれば、罪科いよいよ重し。たとひ上皇の叡旨ありとも、争 でか明臣の陳言なからん者、望み請ふらくは、息慈、早く奉聞を経て、七道諸国に仰せて、一向専修条条の過失を停止せられ、兼ねてまた行罪過。 - 源空ならびに弟子等に於いては、永く破法の邪執を止め、還って念仏の真道を知らん。
仍 って言上件のごとし。
- 元久二年十月 日
- ↑ 天裁(てんさい)。天皇の裁可。
- ↑ 案内(あない)。内心に案ずること。物事の事情を案じて。
- ↑ 機感(きかん)。機(衆生)の能力が発動する状態にあることに神仏が感応すること。ここでは八宗ですでに足りているといふ意。
- ↑ 八軸は八巻の法華経を指すか?
- ↑ 仏界平等。ここでは公平の意で平等という語を使ったのであろうが、阿弥陀如来の平等に衆生を救済するという意味を誤解している。
- ↑ 夙夜(しゅくや)の功。夙夜とは朝早くから夜遅くまで、明け暮れ、一日中励む意で、ここでは凡夫(下賤の輩)はいくら励んでも、その功を得ることはないといふ。
- ↑ 都滅(とめつ)。都はすべての意で、すべて滅するといふこと。
- ↑ 過ちをわび、あやまる為に、それを認めて差し出す謝罪状。おこたりぶみ。