『観経』の三心をえてのちに、『大経』の三信心をうるを一心をうるとは申すなり
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『観経』に説かれている三心の、至誠心・深心・回向発願心を
- 「若少一心」といふは、「若」はもしといふ、ごとしといふ、「少」はかくるといふ、すくなしといふ。一心かけぬれば生れずといふなり。
- 一心かくるといふは信心のかくるなり、信心かくといふは、本願真実の三信心のかくるなり。
- 『観経』の三心をえてのちに、〔それを翻して〕『大経』の三信心をうるを一心をうるとは申すなり。このゆゑに『大経』の三信心をえざるをば一心かくると申すなり。この一心かけぬれば真の報土に生れずといふなり。(唯文 P.714)
と、〔それを翻して〕の文を略して云われたのであろう。
法然聖人は、ご自身の回心の体験(*) から偏依善導といわれ、主として『観経疏』の説に拠られ浄土教を開顕された。それに対して、御開山は法然聖人が所依の論として挙げられた『浄土論』と、その注釈書である『論註』によって法然聖人の真意を洞察されたのであった。そして阿弥陀仏の本願を説く『大経』を真実の経とし、第十八願の、至心・信楽・欲生の三信(三心)を根拠とし詳細に展開されたのである。『観経』の三心から『大経』の三心への指示が「『観経』の三心をえてのちに、『大経』の三信心をうるを一心をうるとは申すなり」の釈であろう。それが三心結釈として、
と、疑蓋無雑の『浄土論』の「世尊我一心」の一心であった。
- 広く三経の光沢を蒙りて、ことに一心の華文を開く。しばらく疑問を至してつひに明証を出す。(信巻 P.209)
とある本願力回向の華のような一心であったのである。