信知
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しん-ち
信じ知ること。阿弥陀仏の信(まこと)を知ること。
阿弥陀仏の教法(本願)を聞いて、我を救い仏陀と成らしめる阿弥陀仏の本願力回向の信(真実)を信じ、自己の罪障と仏に成るための自力無功[1]を知ること。
『一念多念証文』では善導大師の『往生礼讃』の深信釈、
- 二には深心。すなはちこれ真実の信心なり。自身はこれ煩悩を具足する凡夫、善根薄少にして三界に流転して火宅を出でずと信知し、いま弥陀の本弘誓願は、名号を称すること下十声・一声等に至るに及ぶまで、さだめて往生を得と信知して、すなはち一念に至るまで疑心あることなし。ゆゑに深心と名づく。(往生礼讃 P.654)
の「今信知弥陀本弘誓願(いま弥陀の本弘誓願は…)」の文を引かれて、
- 「今信知弥陀本弘誓願 及称名号」(礼讃 六五四)といふは、如来のちかひを信知すと申すこころなり。
- 「信」といふは金剛心なり、「知」といふはしるといふ、煩悩悪業の衆生をみちびきたまふとしるなり。また「知」といふは観なり、こころにうかべおもふを観といふ、こころにうかべしるを「知」といふなり。 (一多 P.686)
とされておられる。
『往生礼讃』では、『観経』で説かれる深心を「すなはちこれ真実の信心なり」と定義されている。
御開山は、この真実の信心を「如来のちかひを信知すと申すこころなり」と押さえ、「〈信〉といふは金剛心なり」とし、信心とは如来の智慧を賜った金剛心であるとされる。そして「〈知〉といふはしるといふ」といい、金剛心を受けた信知である知とは「煩悩悪業の衆生をみちびきたまふとしるなり」といわれている。
なお「観」を「こころにうかべおもふを〈観〉といふ、こころにうかべしるを〈知〉といふなり」とされておられ、摩訶止観の観(正しい智慧をおこして対象を観(み)ること)の「観」の字義とされていたことは留意すべきである。[2] →観
ともあれ、信知という語を、如来の真実なる智慧を賜った信(法の深信)と、煩悩悪業に纏われていることを知る(機の深信)という形で二種深信をあらわされているとされたのである。信知とは、機法二種の深信の意であり、それが「すなはちこれ真実の信心なり」であった。 御開山は信知を「まことに知んぬ」と
訓じておられた。(なお和語では信を、〈まこと〉とも読むので、信知を、まこと(如来の真実)を知るとも読める。)
➡ 188,203,228,485,486,584,591,609,693,694,875,877,1086,1149,1364,1365,1373,1390,1394
- 蛇足
自覚 じかく
近年、浄土真宗の信心を、自覚(自意識)[3]という言葉で表現する僧俗が多い。 そもそも自覚という語は、自ら迷いを断って覚(さと)りを開くことを意味する仏教語であり、善導大師は、
と、自ら真理をさとり(自覚)、他をさとらせ(覚他)、自覚と覚他のすべて満足している者(
しかし、世間で使われている自覚とは、 自己自身の置かれている状態や自分の価値を知るという自己認識の意味で使われているので、浄土真宗の他力の信心の表現として濫用すべきではない。もし自覚という語を使うなら仏教語としての意味と世俗語での意味の違いを示して使用すべきである。
善導大師は浄土教に於ける信心を「信知」という言葉で示して下さったのであるから、自覚という言葉より、信知という表現で浄土真宗のご信心を語るべきであろう。
以下のご和讃の信知を、自覚と読み変えてみれば、その違和感が判るであろう。
(32)
(73)
- 煩悩具足と信知して
- 本願力に乗ずれば
- すなはち穢身すてはてて
- 法性常楽証せしむ (善導讃)
- →知られる私
- →信知
- →自覚・覚他・覚行窮満
- →智慧は作にあらず
- ↑ 自力無功とは、自らの仏道修業による
功力 (修行によって得た力)では、往生成仏の仏果を得ることが出来ないことをいう。親鸞聖人は、『御消息』(6)の、笠間の念仏者の疑ひとはれたる事の中で、
まづ自力と申すことは、行者のおのおのの縁にしたがひて余の仏号を称念し、余の善根を修行してわが身をたのみ、わがはからひのこころをもつて身・口・意のみだれごころをつくろひ、めでたうしなして浄土へ往生せんとおもふを自力と申すなり。
と云われている。ここで「余の仏号を称念し、余の善根を修行して」とは阿弥陀如来の選択された本願によらない行業を修することを自力であるとされている。次下に、
また他力と申すことは、弥陀如来の御ちかひのなかに、選択摂取したまへる第十八の念仏往生の本願を信楽するを他力と申すなり。
とされ、本願を信じ念仏を申して仏になる行業を他力であるとされている。ようするに自力と他力の対判は、仏道修行の上で論じる概念であった。
なお、無功と似た語に無効という言葉があるが、無効とは、はじめから効力が無く仏道に対して何の功力(くりき)も無いことをいう。いわゆる浄土真宗のご法義の枠中におりながら、一声の称名もしない無力(むりき)の輩を指す言葉である。 - ↑ 「化巻」の十三文例には「「諦観彼国浄業成者」といへり、本願成就の尽十方無碍光如来を観知すべしとなり」(化巻 P.382) とある。
- ↑ 『日本大百科全書』の自覚の解説から引用:
自分自身のあり方を反省し、自分が何であるかを明瞭(めいりょう)に意識にもたらすこと。自己意識、自己認識、自己反省などとほぼ同義であるが、「自覚」には仏教用語の転用からくる特有のニュアンスが付きまとう。
ソクラテスが古代ギリシアの格言「汝(なんじ)自身を知れ」を自己の課題としたように、自覚は哲学にとって出発点でもあり目標でもあった。しかし自覚とは、自分が自分を知ることである以上、知る自分と知られる自分とは、区別されねばならないと同時に、同一の自分でもあり続けねばならない。ここに、自己の分裂と統一という反省にまつわるパラドックスが生ずる。
〔以下〔…〕内は林遊の追記:このような自己と他を区別することを思索の出発点とする「われ思惟す、ゆえにわれあり」という自己の存在を有(主体)とする西欧の思索の原理に対して、仏教ではその主体(有)を否定して「無我」を説くのである。浄土真宗ではそれを「捨自帰他(自らを捨て法に帰する)」という。それは知ろうとする者は、既に知られる者によって知られているという意味である。未だ言語分節によって主客が分かれる以前に自己の存在を見出す立場であった。それが第十八願の「もし生ぜずは、正覚を取らじ(若不生者 不取正覚)」という生仏一如の教説であった。その意を日本的仏教思想の文脈上で語られたのが『自然法爾のご法語』であった。〕
わが国では西田幾多郎(きたろう)が「自覚の立場」を提唱して、この困難に挑んだ。彼によれば、主客未分の知るものと知られるものとが一つである直観的意識と、それを外側から眺める反省的意識とが内的に結合され、統一された状態、それが自覚の立場にほかならない。[野家啓一] 『『自覚に於ける直観と反省』(『西田幾多郎全集 第2巻』所収・1950・岩波書店)』 出典 小学館 日本大百科全書(ニッポニカ)日本大百科全書(ニッポニカ)