往生即成仏
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おうじょう-そく-じょうぶつ
浄土に往生すればただちに阿弥陀仏と同体の仏果を得るということ。一般的には、浄土は成仏のための修行がしやすい場所とされ、往生した後も仏道修行を積まなければならないと考えられていた。
これに対して御開山は、阿弥陀仏の浄土を完全に煩悩が寂滅した無為涅槃界とし、真実信心の念仏の行者は現生の命を終え阿弥陀仏の浄土に往生すればただちに阿弥陀仏と同体の仏果を得るとされた。
弥陀同体とは「証果」をあらわす「証巻」冒頭で証果の徳相をあかして、
- また証大涅槃の願と名づくるなり。しかるに煩悩成就の凡夫、生死罪濁の群萌、往相回向の心行を獲れば、即のときに大乗正定聚の数に入るなり。正定聚に住するがゆゑに、かならず滅度に至る。かならず滅度に至るはすなはちこれ常楽なり。常楽はすなはちこれ畢竟寂滅なり。寂滅はすなはちこれ無上涅槃なり。無上涅槃はすなはちこれ無為法身なり。無為法身はすなはちこれ実相なり。実相はすなはちこれ法性なり。法性はすなはちこれ真如なり。真如はすなはちこれ一如なり。しかれば弥陀如来は如より来生して、報・応・化、種々の身を示し現じたまふなり。(証巻 P.307)
と示し、証果の利益として「しかれば弥陀如来は如より来生して」の語にわれらの還相の相(すがた)をみるからである。転釈が難解なので現代語へリンク →「現代語 証果の徳相」
「信巻」真仏弟子釈には往生即成仏を、
- まことに知んぬ、弥勒大士は等覚の金剛心を窮むるがゆゑに、竜華三会の暁、まさに無上覚位を極むべし。
- 念仏の衆生は横超の金剛心を窮むるがゆゑに、臨終一念の夕べ、大般涅槃を超証す。ゆゑに便同といふなり。しかのみならず金剛心を獲るものは、すなはち韋提と等しく、すなはち喜・悟・信の忍を獲得すべし。これすなはち往相回向の真心徹到するがゆゑに、不可思議の本誓によるがゆゑなり。(信巻 P.264)
と述べられている。そして「和讃」でも、
と、五十六億七千万年後にさとりを開くとされる弥勒菩薩に先立って、本願力回向の行信を受容した者は、阿弥陀仏の本願力によって大般涅槃をさとらしめられるとされていた。
→往生