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「無上菩提心」の版間の差分

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と、無上菩提心を発さずして浄土に往生することは不可であるとされていある。<br />
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御開山は本願力回向の菩提心を「[[横超]]」とされ、
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と、無上菩提心を発さずして浄土に往生することは不可であるとされている。<br />
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とされ、これを「[[横超の金剛心]]」の「[[信楽]]」とされていた。
 
とされ、これを「[[横超の金剛心]]」の「[[信楽]]」とされていた。
  

2024年7月25日 (木) 17:17時点における最新版

むじょう-ぼだいしん

 この上ないさとりを求める心。 →菩提心 (ぼだいしん)。 (要集 P.905)

出典(教学伝道研究センター編『浄土真宗聖典(注釈版)第二版』本願寺出版社
『浄土真宗聖典(注釈版)七祖篇』本願寺出版社

区切り線以下の文章は各投稿者の意見であり本願寺派の見解ではありません。

むじょう-ぼだいしん 無上菩提心

 この上ないさとりを求める心のこと。『論註』には

「この無上菩提心は、すなはちこれ願作仏心なり。 願作仏心は、すなはちこれ度衆生心なり」(信巻引文・註 247)

とあり、仏になろうと願う心である願作仏心と、衆生を済度しようとする心である度衆生心のことと規定している。 →菩提心。(浄土真宗辞典)

『論註』では、無上菩提心を「願作仏心」「度衆生心」とされている。

この無上菩提心とは、すなはちこれ願作仏心なり。願作仏心とは、すなはちこれ度衆生心なり。度衆生心とは、すなはち衆生を摂取して有仏の国土に生ぜしむる心なり。このゆゑにかの安楽浄土に生ぜんと願ずるものは、かならず無上菩提心を発すなり。 もし人、無上菩提心を発さずして、ただかの国土の楽を受くること間なきを聞きて、楽のためのゆゑに生ずることを願ずるは、またまさに往生を得ざるべし。 (論註 P.144) (信巻 P.247で引文)

と、無上菩提心を発さずして浄土に往生することは不可であるとされている。
御開山は本願力回向の菩提心を「横超」とされ、

横超とは、これすなはち願力回向の信楽、これを願作仏心といふ。願作仏心すなはちこれ横の大菩提心なり。これを横超の金剛心と名づくるなり。 (信巻 P.246)

とされ、これを「横超の金剛心」の「信楽」とされていた。

願作仏心
度衆生心
二双四重