「往生之業 念仏為本」の版間の差分
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「往生之業 念仏為本」は、御開山が伝授を受けた法然聖人の『選択本願念仏集』の標宗の教語である。この語は源信僧都の『往生要集』中巻の第五「助念方法」[[往生要集中巻_(七祖)#往生之業念仏為本|p.1030]] にある、往生之業 念仏為本の語を依用されたものである。同じく源信僧都の『妙行業記』には「念仏為先」とあり、当サイトに掲載されている『選択本願念仏集』では、往生之業 念仏為先となっている。参照→[[先]]<br /> | 「往生之業 念仏為本」は、御開山が伝授を受けた法然聖人の『選択本願念仏集』の標宗の教語である。この語は源信僧都の『往生要集』中巻の第五「助念方法」[[往生要集中巻_(七祖)#往生之業念仏為本|p.1030]] にある、往生之業 念仏為本の語を依用されたものである。同じく源信僧都の『妙行業記』には「念仏為先」とあり、当サイトに掲載されている『選択本願念仏集』では、往生之業 念仏為先となっている。参照→[[先]]<br /> | ||
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なお御開山は『尊号真像銘文』で、『選択本願念仏集』の標宗である「南無阿弥陀仏 往生之業 念仏為本」の語を、 | なお御開山は『尊号真像銘文』で、『選択本願念仏集』の標宗である「南無阿弥陀仏 往生之業 念仏為本」の語を、 | ||
:『選択本願念仏集』といふは、聖人(源空)の御製作なり。「南無阿弥陀仏 往生之業 念仏為本」といふは、安養浄土の往生の'''正因'''は念仏を本とすと申す御ことなりとしるべし。正因といふは、浄土に生れて仏にかならず成るたねと申すなり。 ([[尊号真像銘文#no15|尊号 P.664]]) | :『選択本願念仏集』といふは、聖人(源空)の御製作なり。「南無阿弥陀仏 往生之業 念仏為本」といふは、安養浄土の往生の'''正因'''は念仏を本とすと申す御ことなりとしるべし。正因といふは、浄土に生れて仏にかならず成るたねと申すなり。 ([[尊号真像銘文#no15|尊号 P.664]]) |
2022年9月17日 (土) 13:34時点における版
おうじょうしごう ねんぶついほん
「往生の業は念仏を本とす」(行巻訓)(尊号 P.664)
出典(教学伝道研究センター編『浄土真宗聖典(注釈版)第二版』本願寺出版社
『浄土真宗聖典(注釈版)七祖篇』本願寺出版社
区切り線以下の文章は各投稿者の意見であり本願寺派の見解ではありません。
『浄土真宗聖典(注釈版)七祖篇』本願寺出版社
区切り線以下の文章は各投稿者の意見であり本願寺派の見解ではありません。
「往生之業 念仏為本」は、御開山が伝授を受けた法然聖人の『選択本願念仏集』の標宗の教語である。この語は源信僧都の『往生要集』中巻の第五「助念方法」p.1030 にある、往生之業 念仏為本の語を依用されたものである。同じく源信僧都の『妙行業記』には「念仏為先」とあり、当サイトに掲載されている『選択本願念仏集』では、往生之業 念仏為先となっている。参照→先
『和語灯録』諸人伝説の詞には、
- 「順彼仏願故」の文ふかくたましゐにそみ、心にととめたる也。
- そののち恵心の先徳の『往生要集』(巻中)の文をひらくに、「往生之業念仏為本」といひ、又恵心の『妙行業記』の文を見るに、「往生之業念仏為先」といへり。覚超僧都、恵心僧都にとひての給はく、なんじが所行の念仏は、これ事を行ずとやせん、これ理を行ずとやせんと。
- 恵心僧都こたへての給はく、心万境にさへぎる。ここをもて、われただ称名を行ずる也。往生の業には称名もともたれり。(和語灯録#P--609)
なお御開山は『尊号真像銘文』で、『選択本願念仏集』の標宗である「南無阿弥陀仏 往生之業 念仏為本」の語を、
- 『選択本願念仏集』といふは、聖人(源空)の御製作なり。「南無阿弥陀仏 往生之業 念仏為本」といふは、安養浄土の往生の正因は念仏を本とすと申す御ことなりとしるべし。正因といふは、浄土に生れて仏にかならず成るたねと申すなり。 (尊号 P.664)
と、「安養浄土の往生の正因は念仏を本とす」とされておられる。
また、第十八願を「信文類」では、至心信楽の願と標願されて、信の出処を、
- この心すなはちこれ念仏往生の願(第十八願)より出でたり。(信巻 P.211)
と、されておられる。昨今の浄土真宗のご法義においては、覚如上人や蓮如上人が強調された「信心正因」の語と、現代人の自己実現という自覚という言葉が同値されて、御開山聖人が示して下さった信と齟齬が生じているのであった。『浄土和讃』の「大経讃」では、浄土真宗のご法義の結論として
(71)
- 念仏成仏これ真宗
- 万行諸善これ仮門
- 権実真仮をわかずして
- 自然の浄土をえぞしらぬ (浄土 P.569)
と、「念仏成仏これ真宗」とされ、なんまんだぶを称えて仏に成るご法義が、浄土真宗であるとされておられるのであった。 なんまんだぶと称える乃至十念の行為(業行)は、第十八願の「もし生ぜずは、正覚を取らじ(若不生者 不取正覚)」という、衆生と仏が不二である仏願に信順することであった。「歎異抄』p.839の第十二条に、「本願を信じ念仏を申さば仏に成る」と、あるごとくである。