「本願招喚の勅命」の版間の差分
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などと、南無阿弥陀仏について「こゑにつきて決定往生のおもひをなすべし」とされていた。梯實圓和上は『法然教学の研究』で | などと、南無阿弥陀仏について「こゑにつきて決定往生のおもひをなすべし」とされていた。梯實圓和上は『法然教学の研究』で | ||
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:「親鸞が「行文類」の六字釈において、南無の訳語である帰命を釈して「帰命者、本願招喚之勅命也(帰命は本願招喚の勅命なり。)」といい、念仏における所称の名号のうえに、本願招喚の勅命をききとっていかれたのは、法然の「'''こえにつきて、決定往生のおもひをなすべし'''」といわれた意を、根源的に展開されたものであったといえよう。<br /> | :「親鸞が「行文類」の六字釈において、南無の訳語である帰命を釈して「帰命者、本願招喚之勅命也(帰命は本願招喚の勅命なり。)」といい、念仏における所称の名号のうえに、本願招喚の勅命をききとっていかれたのは、法然の「'''こえにつきて、決定往生のおもひをなすべし'''」といわれた意を、根源的に展開されたものであったといえよう。<br /> | ||
:本願を信じて念仏し、念仏によっていよいよ本願の仏意によびさまされつつ生きていくのが本願他力に帰する信行の相〔本来の性質〕であり、本願他力が願生行者のうえにあらわれていく相〔すがた〕でもあったのである。」 | :本願を信じて念仏し、念仏によっていよいよ本願の仏意によびさまされつつ生きていくのが本願他力に帰する信行の相〔本来の性質〕であり、本願他力が願生行者のうえにあらわれていく相〔すがた〕でもあったのである。」 | ||
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2020年1月6日 (月) 10:19時点における版
ほんがんしょうかんのちょくめい
衆生に帰せよと命じる如来のよび声。(行巻 P.170)
『浄土真宗聖典(注釈版)七祖篇』本願寺出版社
区切り線以下の文章は各投稿者の意見であり本願寺派の見解ではありません。
ほんがんしょうかんのちょくめい
衆生に対して「帰せよ」と命じる如来のよび声のこと。摂取して衆生を必ず救うという仏意を表す。「行巻」には「帰命は本願招喚の勅命なり」(註 P.170)とある。 →六字釈。(浄土真宗辞典)
- しかれば南無の言は帰命なり。帰の言は、[至なり]、また帰説(きえつ)なり、説の字は、[悦の音なり。]また帰説なり、説の字は、[税の音なり。悦税二つの音は告なり、述なり、人の意を宣述するなり。]命の言は、[業なり、招引なり、使なり、教なり、道なり、信なり、計なり、召なり。]ここをもつて帰命は本願招喚の勅命なり。(行巻 P.170)
現代語
- そこで南無という言葉は、翻訳すれば帰命といいます。「帰」という言葉には、至るという意味があります。また帰説(きえつ)と熟語した場合、説は「悦(えつ)」と同じ意味になって、悦服(えっぷく)のことで、「よろこんで心からしたがう」という意味になります。また帰説(きさい)と熟語した場合、説は「税(さい)」と同じ意味になって、舎息(しゃそく)のことで「やどる、安らかにいこう〔憩〕」という意味になります。
- 説の字には、悦(えつ)と税(さい)の二つの読み方がありますが、説(せつ)と読めば「告げる、述べる」という意味で、人がその思いを言葉として述べることをいいます。「命」という言葉は、業(はたらき)、招引(まねきひく)、使(せしめる)、教(おしえる)、道(目的地に通ずる道。また「言う」の意)、信(まこと)、計(はからい)、召(めす)という意味を表しています。
- こういうわけですから「帰命」とは、衆生を招き喚び続けておられる阿弥陀仏の本願の仰せです。 (「帰命釈」現代語)
とされた。この字訓釈により、南無(梵語)とは帰命(漢訳)であり、それは
『正像末和讃』には、
と、よばうてとされておられた。
- →よばうて
法然聖人は、
ただ心の善悪をもかへりみず、罪の軽重をもわきまへず、心に往生せんとおもひて、口に南無阿弥陀仏ととなへば、こゑについて决定往生のおもひをなすべし。その决定によりて、すなはち往生の業はさだまる也。 かく心えつればやすき也。往生は不定におもへばやがて不定なり、一定とおもへばやがて一定する事なり。 →(『和語灯録』-「往生大要鈔」)
※「隠/顕」心の善悪をもかへり見づ、つみの軽重をも沙汰せず、ただ口に南無阿弥陀仏と申せば、仏のちかひによりて、かならず往生するぞと、决定の心ををこすべき也。その決定の心によりて、往生の業はさだまる也。 往生は不定におもへば不定也。一定とおもへば一定する事也。 →(『和語灯録』-「浄土宗略抄」)
わか心のわろけれは往生はかなはじなとこそは、申あひて候めれ。そのうたかひの、やがて往生せぬ心にて候けるものを、たた心のよきわろきをも返りみず、罪のかろきをもきをも沙汰せず、心に往生せんとおもひて、口に南無阿弥陀仏ととなへて、声につきて決定往生のおもひをなすへし。その決定の心によりて、即往生の業はさだまる也。かく心うればうたがひなし。往生は不定とおもへは、やかて不定也、一定とおもへは、一定する事にて候也。 →(『拾遺語灯録』-「御消息」)
しかればたれだれも、煩悩のうすくこきおもかへりみす、罪障のかろきおもきおもさたせず、ただくちにて南無阿弥陀仏ととなえば、こゑにつきて決定往生のおもひをなすべし、決定心を、すなわち深心となづく。その信心を具しぬれば、決定して往生するなり。詮ずるところは、ただとにもかくにも、念仏して往生すといふ事をうたがはぬを、深心とはなつけて候なり。 →(『西方指南抄』「上野大胡太郎実秀への御返事」)
などと、南無阿弥陀仏について「こゑにつきて決定往生のおもひをなすべし」とされていた。梯實圓和上は『法然教学の研究』で
- 「親鸞が「行文類」の六字釈において、南無の訳語である帰命を釈して「帰命者、本願招喚之勅命也(帰命は本願招喚の勅命なり。)」といい、念仏における所称の名号のうえに、本願招喚の勅命をききとっていかれたのは、法然の「こえにつきて、決定往生のおもひをなすべし」といわれた意を、根源的に展開されたものであったといえよう。
- 本願を信じて念仏し、念仏によっていよいよ本願の仏意によびさまされつつ生きていくのが本願他力に帰する信行の相〔本来の性質〕であり、本願他力が願生行者のうえにあらわれていく相〔すがた〕でもあったのである。」
といわれていた。 〔…〕内は林遊が追記。
なんまんだぶと称えれば、なんまんだぶと耳に聞える。この可聞可称の声を御開山は「本願招喚の勅命」とされたのであった。
この意を、元照律師の『弥陀経義』の文を引いて、
- いはんやわが弥陀は名をもつて物を接したまふ。ここをもつて、耳に聞き口に誦するに、無辺の聖徳、識心に攬入す。永く仏種となりて頓に億劫の重罪を除き、無上菩提を獲証す。まことに知んぬ、少善根にあらず、これ多功徳なり。 (行巻 P.181)
と、阿弥陀仏は、名号でもって物(衆生)を摂取するとされた所以である。
- 勅命
ちょくめい
天子の命令。
「綸言汗の如しと」は、汗は一度出たら戻すことができないように、天子が一度口にしたことは取り消すことがないという意。『漢書』に、
- 言号令如汗、汗出而不反者也。
- 言うこころは号令は汗の如し、汗は出でて反(かえ)らざるものなり。 →漢文大系
とある。