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 法然聖人の専修念仏において、諸行の位置づけを示す三つのあり方で、 廃立・助正・傍正の三義を挙げる。法然聖人はこの三者を、専修念仏の教えにおける諸行の位置づけを示すものとして解釈された。法然聖人は、阿弥陀仏等が往生行としては念仏のみを選び勧めているので、その通りに修すべしとして専修念仏の教えをたてたが、なぜ念仏のみといえるのか、それを考察されたのが『選択集』「三輩章」の「廃立」([[選択本願念仏集 (七祖)#廃立|選択集 P.1217]])・「助正」([[選択本願念仏集 (七祖)#助正|選択集 P.1218]])・「傍正」([[選択本願念仏集 (七祖)#傍正|選択集 P.1219]]) である。<br />
 
 法然聖人の専修念仏において、諸行の位置づけを示す三つのあり方で、 廃立・助正・傍正の三義を挙げる。法然聖人はこの三者を、専修念仏の教えにおける諸行の位置づけを示すものとして解釈された。法然聖人は、阿弥陀仏等が往生行としては念仏のみを選び勧めているので、その通りに修すべしとして専修念仏の教えをたてたが、なぜ念仏のみといえるのか、それを考察されたのが『選択集』「三輩章」の「廃立」([[選択本願念仏集 (七祖)#廃立|選択集 P.1217]])・「助正」([[選択本願念仏集 (七祖)#助正|選択集 P.1218]])・「傍正」([[選択本願念仏集 (七祖)#傍正|選択集 P.1219]]) である。<br />
 
 法然聖人は『和語灯録』「諸人伝説の詞」で安心について、
 
 法然聖人は『和語灯録』「諸人伝説の詞」で安心について、
:又いはく、本願の念仏には、ひとりたちをせさせて<kana>助(すけ)</kana>をささぬ也。助さす程の人は、極楽の辺地にむまる。すけと申すは、智恵をも助にさし、持戒をもすけにさし、道心をも助にさし、慈悲をもすけにさす也。([[hwiki:和語灯録#P--682|『和語灯録』諸人伝説の詞]])
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:又いはく、[[本願]]の念仏には、ひとりたちをせさせて<kana>助(すけ)</kana>をささぬ也。助さす程の人は、極楽の辺地にむまる。すけと申すは、智恵をも助にさし、[[持戒]]をもすけにさし、[[道心]]をも助にさし、[[慈悲]]をもすけにさす也。([[hwiki:和語灯録#P--682|『和語灯録』諸人伝説の詞]])
と、本願の念仏には助業を用いないとされておられたが、念仏以外の余業については、
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と、[[本願]]の念仏には助業を用いないとされておられたが、念仏以外の余業については、
 
:問ていはく、念仏の外の余善をば、往生の業にあらずとて、修すべからずといふ事あり。これはしかるべしや。
 
:問ていはく、念仏の外の余善をば、往生の業にあらずとて、修すべからずといふ事あり。これはしかるべしや。
 
:答ていはく、たとへば人のみちをゆくに、主人一人につきて、おほくの眷属のゆくがごとし。往生の業の中に念仏は主人也、余の善は眷属也。しからば余善をきらふまではあるへからず。 ([[hwiki:和語灯録#P--641|『和語灯録』十二箇条問答)]]
 
:答ていはく、たとへば人のみちをゆくに、主人一人につきて、おほくの眷属のゆくがごとし。往生の業の中に念仏は主人也、余の善は眷属也。しからば余善をきらふまではあるへからず。 ([[hwiki:和語灯録#P--641|『和語灯録』十二箇条問答)]]

2018年5月26日 (土) 23:22時点における最新版

じょしょう

 →助業(じょごう)〔助〕、正定業(しょうじょうごう)〔正〕 (高僧 P.590)

出典(教学伝道研究センター編『浄土真宗聖典(注釈版)第二版』本願寺出版社
『浄土真宗聖典(注釈版)七祖篇』本願寺出版社

区切り線以下の文章は各投稿者の意見であり本願寺派の見解ではありません。

助正

Ⅰ 正定業助業のこと。

Ⅱ 浄土に往生するための行業である念仏を助けるために、諸行が説かれたとする見方。『選択集』には、

次の義はすなはちこれ助正のために説く。いはく念仏の正業を助けんがために諸行の助業を説く。(選択集 P.1220)

とある。(浄土真宗辞典)

 法然聖人の専修念仏において、諸行の位置づけを示す三つのあり方で、 廃立・助正・傍正の三義を挙げる。法然聖人はこの三者を、専修念仏の教えにおける諸行の位置づけを示すものとして解釈された。法然聖人は、阿弥陀仏等が往生行としては念仏のみを選び勧めているので、その通りに修すべしとして専修念仏の教えをたてたが、なぜ念仏のみといえるのか、それを考察されたのが『選択集』「三輩章」の「廃立」(選択集 P.1217)・「助正」(選択集 P.1218)・「傍正」(選択集 P.1219) である。
 法然聖人は『和語灯録』「諸人伝説の詞」で安心について、

又いはく、本願の念仏には、ひとりたちをせさせて(すけ)をささぬ也。助さす程の人は、極楽の辺地にむまる。すけと申すは、智恵をも助にさし、持戒をもすけにさし、道心をも助にさし、慈悲をもすけにさす也。(『和語灯録』諸人伝説の詞)

と、本願の念仏には助業を用いないとされておられたが、念仏以外の余業については、

問ていはく、念仏の外の余善をば、往生の業にあらずとて、修すべからずといふ事あり。これはしかるべしや。
答ていはく、たとへば人のみちをゆくに、主人一人につきて、おほくの眷属のゆくがごとし。往生の業の中に念仏は主人也、余の善は眷属也。しからば余善をきらふまではあるへからず。 (『和語灯録』十二箇条問答)

と、余善を修することは、念仏〔なんまんだぶ〕を主として、念仏以外の余善は主に随順する眷属(従者)のような助業であるとされていた。純一な信心を論ずる浄土真宗では、この「助正」に関する論題に対して種々の「助正論」が論じられた。