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無量寿とは仏のはたらきの時間的無限性をあらわし、無量光とは空間的な無辺性をあらわしており、時間的空間的な限定を超えて、あらゆる[[衆生]]をもらさず救う仏の名である。これによって[[親鸞聖人]]は、「摂取してすてざれば阿弥陀と名づけたてまつる」といわれる。([[浄土和讃#P--571|弥陀経讃P.571]])
 
無量寿とは仏のはたらきの時間的無限性をあらわし、無量光とは空間的な無辺性をあらわしており、時間的空間的な限定を超えて、あらゆる[[衆生]]をもらさず救う仏の名である。これによって[[親鸞聖人]]は、「摂取してすてざれば阿弥陀と名づけたてまつる」といわれる。([[浄土和讃#P--571|弥陀経讃P.571]])
  
[[善導]]大師は、阿弥陀仏は念仏の衆生を救うことができなければ仏になるまいと誓い、永劫(ようごう)の修行によってその願いを成就してなられた仏であるから、願行に報いた報身仏(ほうじんぶつ)であるといわれた。そして、聖道(しょうどう)諸師の中において阿弥陀仏を応化身(おうげしん)とみるような説を否定するとともに、念仏の衆生は、仏の本願力に乗じて必ず報仏の土(報土)へ往生できると強調された。
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[[善導]]大師は、阿弥陀仏は念仏の衆生を救うことができなければ仏になるまいと誓い、<kana>永劫(ようごう)</kana>の修行によってその願いを成就してなられた仏であるから、願行に報いた<kana>[[報身仏]](ほうじんぶつ)</kana>であるといわれた。そして、<kana>聖道(しょうどう)</kana>諸師の中において阿弥陀仏を<kana>応化身(おうげしん)</kana>とみるような説を否定するとともに、念仏の衆生は、仏の本願力に乗じて必ず報仏の土(報土)へ往生できると強調された。
  
 また親鸞聖人は曇鸞大師の教えによって[[法性]](ほっしょう)・方便の二種法身(ほっしん)として阿弥陀仏を説明されている。法性法身とは、さとりそのものである法性真如(しんにょ)を本身とする仏身のことで、それはあらゆる限定を超え、私どもの認識を超えたものである。これについて『唯信鈔文意』には、「いろもなし、かたちもましまさず。しかれば、こころもおよばれず、ことばもたえたり」とある。([[唯文#P--709|唯信鈔文意P.709]])
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 また親鸞聖人は曇鸞大師の教えによって<kana>[[法性]](ほっしょう)</kana>・方便の二種<kana>法身(ほっしん)</kana>として阿弥陀仏を説明されている。法性法身とは、さとりそのものである法性<kana>真如(しんにょ)</kana>を本身とする仏身のことで、それはあらゆる限定を超え、私どもの認識を超えたものである。これについて『唯信鈔文意』には、「いろもなし、かたちもましまさず。しかれば、こころもおよばれず、ことばもたえたり」とある。([[唯文#P--709|唯信鈔文意P.709]])
  
 
そして方便法身とは、「この一如(法性法身)よりかたちをあらはして、方便法身と申す御すがたをしめして、法蔵比丘と名のりたまひて」といわれる。すなわち、万物が本来平等一如のありようをしていることを人々に知らしめ、自他を分別し執着して、煩悩をおこし苦悩しているものをよびさまし、真如の世界にかえらしめようとして、絶対的な法性法身がかたちを示し、阿弥陀仏という救いの御名を垂れて人々に知らしめているすがたを方便法身というのである。『論註』(下)には、「正直を方といひ、おのれを外にするを便といふ」といい、真如にかなって、おのれを捨てて一切衆生を救う大悲のはたらきを方便というとされている。要するに大悲の本願をもって衆生を救済する仏を方便法身というのである。
 
そして方便法身とは、「この一如(法性法身)よりかたちをあらはして、方便法身と申す御すがたをしめして、法蔵比丘と名のりたまひて」といわれる。すなわち、万物が本来平等一如のありようをしていることを人々に知らしめ、自他を分別し執着して、煩悩をおこし苦悩しているものをよびさまし、真如の世界にかえらしめようとして、絶対的な法性法身がかたちを示し、阿弥陀仏という救いの御名を垂れて人々に知らしめているすがたを方便法身というのである。『論註』(下)には、「正直を方といひ、おのれを外にするを便といふ」といい、真如にかなって、おのれを捨てて一切衆生を救う大悲のはたらきを方便というとされている。要するに大悲の本願をもって衆生を救済する仏を方便法身というのである。
  
 この阿弥陀仏を『浄土論』には「尽十方無碍光如来」といわれた。十方世界にみちみちて、一切衆生をさわりなく救う大悲の智慧の徳をもつ如来ということである。また『讃弥陀偈』には「不可思議光仏」といわれた。人間の思議を超えた絶対の徳を成就された如来ということである。親鸞聖人は、これによって阿弥陀仏を「帰命尽十方無碍光如来」、「南無不可思議光仏(如来)」、「南無阿弥陀仏」と十字、八字(九字)、六字の名号(みょうごう)をもって讃嘆(さんだん)し、敬信(きょうしん)せられた。
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 この阿弥陀仏を『浄土論』には「尽十方無碍光如来」といわれた。十方世界にみちみちて、一切衆生をさわりなく救う大悲の智慧の徳をもつ如来ということである。また『讃弥陀偈』には「不可思議光仏」といわれた。人間の思議を超えた絶対の徳を成就された如来ということである。親鸞聖人は、これによって阿弥陀仏を「帰命尽十方無碍光如来」、「南無不可思議光仏(如来)」、「南無阿弥陀仏」と十字、八字(九字)、六字の<kana>名号(みょうごう)</kana>をもって<kana>讃嘆(さんだん)</kana>し、<kana>敬信(きょうしん)</kana>せられた。
  
 
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2005年10月26日 (水) 21:02時点における版

1 阿弥陀仏

 阿弥陀仏とは、西方浄土(極楽世界)にあって大悲本願をもって生きとし生けるものを平等に救済しつつある仏である。 『大経』によれば、法蔵菩薩が光明無量(第十二願)、寿命無量(第十三願)であろうと願い、その願いに報いて成就されたので、無量光(アミターバ Amitābha)、無量寿(アミターユス Amitāyus)の徳をもつといい、このような徳をあらわすために阿弥陀と名づけられたといわれている。

無量寿とは仏のはたらきの時間的無限性をあらわし、無量光とは空間的な無辺性をあらわしており、時間的空間的な限定を超えて、あらゆる衆生をもらさず救う仏の名である。これによって親鸞聖人は、「摂取してすてざれば阿弥陀と名づけたてまつる」といわれる。(弥陀経讃P.571)

善導大師は、阿弥陀仏は念仏の衆生を救うことができなければ仏になるまいと誓い、永劫(ようごう)の修行によってその願いを成就してなられた仏であるから、願行に報いた報身仏(ほうじんぶつ)であるといわれた。そして、聖道(しょうどう)諸師の中において阿弥陀仏を応化身(おうげしん)とみるような説を否定するとともに、念仏の衆生は、仏の本願力に乗じて必ず報仏の土(報土)へ往生できると強調された。

 また親鸞聖人は曇鸞大師の教えによって法性(ほっしょう)・方便の二種法身(ほっしん)として阿弥陀仏を説明されている。法性法身とは、さとりそのものである法性真如(しんにょ)を本身とする仏身のことで、それはあらゆる限定を超え、私どもの認識を超えたものである。これについて『唯信鈔文意』には、「いろもなし、かたちもましまさず。しかれば、こころもおよばれず、ことばもたえたり」とある。(唯信鈔文意P.709)

そして方便法身とは、「この一如(法性法身)よりかたちをあらはして、方便法身と申す御すがたをしめして、法蔵比丘と名のりたまひて」といわれる。すなわち、万物が本来平等一如のありようをしていることを人々に知らしめ、自他を分別し執着して、煩悩をおこし苦悩しているものをよびさまし、真如の世界にかえらしめようとして、絶対的な法性法身がかたちを示し、阿弥陀仏という救いの御名を垂れて人々に知らしめているすがたを方便法身というのである。『論註』(下)には、「正直を方といひ、おのれを外にするを便といふ」といい、真如にかなって、おのれを捨てて一切衆生を救う大悲のはたらきを方便というとされている。要するに大悲の本願をもって衆生を救済する仏を方便法身というのである。

 この阿弥陀仏を『浄土論』には「尽十方無碍光如来」といわれた。十方世界にみちみちて、一切衆生をさわりなく救う大悲の智慧の徳をもつ如来ということである。また『讃弥陀偈』には「不可思議光仏」といわれた。人間の思議を超えた絶対の徳を成就された如来ということである。親鸞聖人は、これによって阿弥陀仏を「帰命尽十方無碍光如来」、「南無不可思議光仏(如来)」、「南無阿弥陀仏」と十字、八字(九字)、六字の名号(みょうごう)をもって讃嘆(さんだん)し、敬信(きょうしん)せられた。

出典(教学伝道研究センター編『浄土真宗聖典(注釈版)第二版』本願寺出版社
『浄土真宗聖典(注釈版)七祖篇』本願寺出版社

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