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「自信教人信」の版間の差分

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 [[阿弥陀仏]]の本願の救いを自分も信じ、他人にも信を勧める。<ruby><rb>[[善導]]</rb><rp>(</rp><rt>ぜんどう</rt><rp>)</rp></ruby>大師以来、念仏者の姿勢として示されたもの。他人にも信を勧める<ruby><rb>教化</rb><rp>(</rp><rt>きょうけ</rt><rp>)</rp></ruby>が阿弥陀仏への報恩となる。善導大師の『<ruby><rb>[[礼讃]]</rb><rp>(</rp><rt>らいさん</rt><rp>)</rp></ruby>』の文に、「みづから信じ人を教へて信ぜしむること、<ruby><rb>難</rb><rp>(</rp><rt>かた</rt><rp>)</rp></ruby>きがなかに<ruby><rb>転</rb><rp>(</rp><rt>うた</rt><rp>)</rp></ruby>たまた難し、大悲を伝へてあまねく化する、まことに<ruby><rb>仏恩</rb><rp>(</rp><rt>ぶっとん</rt><rp>)</rp></ruby>を報ずるに成る」とあるのによる。なお親鸞聖人は異本によって「大悲弘くあまねく化す」と読まれている。
 
 [[阿弥陀仏]]の本願の救いを自分も信じ、他人にも信を勧める。<ruby><rb>[[善導]]</rb><rp>(</rp><rt>ぜんどう</rt><rp>)</rp></ruby>大師以来、念仏者の姿勢として示されたもの。他人にも信を勧める<ruby><rb>教化</rb><rp>(</rp><rt>きょうけ</rt><rp>)</rp></ruby>が阿弥陀仏への報恩となる。善導大師の『<ruby><rb>[[礼讃]]</rb><rp>(</rp><rt>らいさん</rt><rp>)</rp></ruby>』の文に、「みづから信じ人を教へて信ぜしむること、<ruby><rb>難</rb><rp>(</rp><rt>かた</rt><rp>)</rp></ruby>きがなかに<ruby><rb>転</rb><rp>(</rp><rt>うた</rt><rp>)</rp></ruby>たまた難し、大悲を伝へてあまねく化する、まことに<ruby><rb>仏恩</rb><rp>(</rp><rt>ぶっとん</rt><rp>)</rp></ruby>を報ずるに成る」とあるのによる。なお親鸞聖人は異本によって「大悲弘くあまねく化す」と読まれている。
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 「みづから信じ。人を教えて信じしむ」(信巻訓) ([[御文四#P--1171|御文章 P.1171]])
  
 
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2008年1月19日 (土) 20:34時点における版

じしんきょうにんしん

 阿弥陀仏の本願の救いを自分も信じ、他人にも信を勧める。善導(ぜんどう)大師以来、念仏者の姿勢として示されたもの。他人にも信を勧める教化(きょうけ)が阿弥陀仏への報恩となる。善導大師の『礼讃(らいさん)』の文に、「みづから信じ人を教へて信ぜしむること、(かた)きがなかに(うた)たまた難し、大悲を伝へてあまねく化する、まことに仏恩(ぶっとん)を報ずるに成る」とあるのによる。なお親鸞聖人は異本によって「大悲弘くあまねく化す」と読まれている。


 「みづから信じ。人を教えて信じしむ」(信巻訓) (御文章 P.1171)

出典(教学伝道研究センター編『浄土真宗聖典(注釈版)第二版』本願寺出版社
『浄土真宗聖典(注釈版)七祖篇』本願寺出版社

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