「無量寿経」の版間の差分
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2巻。曹魏の康僧鎧の訳と伝えられている。『大無量寿経』ともいい、『大経』『大本』『双巻経』などとも呼ばれる。浄土三部経の一。浄土真宗の根本所依の経典であり、阿弥陀仏の本願が説かれる。<br /> | 2巻。曹魏の康僧鎧の訳と伝えられている。『大無量寿経』ともいい、『大経』『大本』『双巻経』などとも呼ばれる。浄土三部経の一。浄土真宗の根本所依の経典であり、阿弥陀仏の本願が説かれる。<br /> | ||
− | 序分には、[[王舎城]]の[[耆闍崛山]]において、すぐれた[[比丘]]や[[菩薩]]たちに対して、[[釈尊]]が五徳の瑞相をあらわして([[五徳瑞現]])説いたものであり、如来が世間に出現するのは、苦悩の衆生に真実の利益を与えて救うためである(出世本懐)といわれている。[[正宗分]]にはいって、第一に[[法蔵菩薩]]が発願し修行して[[阿弥陀仏]]となった仏願の始終が説かれる。まず「讃仏偈」において師の[[世自在王仏]]を讃嘆し、続いてみずからの願を述べる。次いで諸仏土中における[[選択]]と、それによってたてられた[[四十八願]]が説かれるが、なかでも、すべての衆生に名号を与えて救おうと誓う[[第十八願]] | + | 序分には、[[王舎城]]の[[耆闍崛山]]において、すぐれた[[比丘]]や[[菩薩]]たちに対して、[[釈尊]]が五徳の瑞相をあらわして([[五徳瑞現]])説いたものであり、如来が世間に出現するのは、苦悩の衆生に真実の利益を与えて救うためである(出世本懐)といわれている。[[正宗分]]にはいって、第一に[[法蔵菩薩]]が発願し修行して[[阿弥陀仏]]となった仏願の始終が説かれる。まず「讃仏偈」において師の[[世自在王仏]]を讃嘆し、続いてみずからの願を述べる。次いで諸仏土中における[[選択]]と、それによってたてられた[[四十八願]]が説かれるが、なかでも、すべての衆生に名号を与えて救おうと誓う[[第十八願]]が根本である。次に四十八願の要点を重ねて誓う「[[大経上#重誓偈|重誓偈]]」が、さらに[[兆載永劫]]にわたる修行のさまが説かれ、この願と行が[[成就]]して[[阿弥陀仏]]となってから十劫を経(へ)ているといい、その仏徳と浄土のありさまがあらわされている。下巻にいたると第十八願が成就して、衆生は阿弥陀仏の名号を聞信する一念に往生が定まると述べ、さらに浄土に往生した聖衆の徳が広く説かれる。こうして第二に[[釈尊]]は[[弥勒菩薩]]に対して、[[三毒]]、[[五悪]]を誡め、[[胎生]]と[[化生]]の得失を判定し、仏智を信じて浄土往生を願うべき旨を勧める。最後に[[流通分]]にいたって、無上功徳の名号を受持せよとすすめ、将来聖道の法が滅尽しても、本経だけは留めおいて人々を救いつづけると説いて終っている。<br /> |
親鸞は、「教巻」([[P:135|註 135]]) に 「それ真実の教を顕さば、すなはち大無量寿経これなり」、また「如来の本願を説きて経の宗致とす、すなはち仏の名号をもつて経の体とするなり」 と示し、如来の本願が説かれ、名号のいわれがあらわされた真実の教えであるとする。<br /> | 親鸞は、「教巻」([[P:135|註 135]]) に 「それ真実の教を顕さば、すなはち大無量寿経これなり」、また「如来の本願を説きて経の宗致とす、すなはち仏の名号をもつて経の体とするなり」 と示し、如来の本願が説かれ、名号のいわれがあらわされた真実の教えであるとする。<br /> | ||
なお、訳者について、実際は仏陀跋陀羅と宝雲の共訳で、421年頃の訳出であると推定されている。あるいは、竺法護訳であって308年の訳出であるとみる説もある。また、異訳には『大阿弥陀経』『無量清浄平等覚経』『無量寿如来会』『荘厳経』が現存し、その他サンスクリット本などもある。→[[教]]、五存七欠。(浄土真宗辞典) | なお、訳者について、実際は仏陀跋陀羅と宝雲の共訳で、421年頃の訳出であると推定されている。あるいは、竺法護訳であって308年の訳出であるとみる説もある。また、異訳には『大阿弥陀経』『無量清浄平等覚経』『無量寿如来会』『荘厳経』が現存し、その他サンスクリット本などもある。→[[教]]、五存七欠。(浄土真宗辞典) |
2024年10月25日 (金) 08:29時点における版
むりょうじゅきょう
『無量寿経』二巻。
引用は『小経』 の取意の文。 (安楽集 P.283)
『浄土真宗聖典(注釈版)七祖篇』本願寺出版社
区切り線以下の文章は各投稿者の意見であり本願寺派の見解ではありません。
ぶっせつ-むりょうじゅきょう 仏説無量寿経
2巻。曹魏の康僧鎧の訳と伝えられている。『大無量寿経』ともいい、『大経』『大本』『双巻経』などとも呼ばれる。浄土三部経の一。浄土真宗の根本所依の経典であり、阿弥陀仏の本願が説かれる。
序分には、王舎城の耆闍崛山において、すぐれた比丘や菩薩たちに対して、釈尊が五徳の瑞相をあらわして(五徳瑞現)説いたものであり、如来が世間に出現するのは、苦悩の衆生に真実の利益を与えて救うためである(出世本懐)といわれている。正宗分にはいって、第一に法蔵菩薩が発願し修行して阿弥陀仏となった仏願の始終が説かれる。まず「讃仏偈」において師の世自在王仏を讃嘆し、続いてみずからの願を述べる。次いで諸仏土中における選択と、それによってたてられた四十八願が説かれるが、なかでも、すべての衆生に名号を与えて救おうと誓う第十八願が根本である。次に四十八願の要点を重ねて誓う「重誓偈」が、さらに兆載永劫にわたる修行のさまが説かれ、この願と行が成就して阿弥陀仏となってから十劫を経(へ)ているといい、その仏徳と浄土のありさまがあらわされている。下巻にいたると第十八願が成就して、衆生は阿弥陀仏の名号を聞信する一念に往生が定まると述べ、さらに浄土に往生した聖衆の徳が広く説かれる。こうして第二に釈尊は弥勒菩薩に対して、三毒、五悪を誡め、胎生と化生の得失を判定し、仏智を信じて浄土往生を願うべき旨を勧める。最後に流通分にいたって、無上功徳の名号を受持せよとすすめ、将来聖道の法が滅尽しても、本経だけは留めおいて人々を救いつづけると説いて終っている。
親鸞は、「教巻」(註 135) に 「それ真実の教を顕さば、すなはち大無量寿経これなり」、また「如来の本願を説きて経の宗致とす、すなはち仏の名号をもつて経の体とするなり」 と示し、如来の本願が説かれ、名号のいわれがあらわされた真実の教えであるとする。
なお、訳者について、実際は仏陀跋陀羅と宝雲の共訳で、421年頃の訳出であると推定されている。あるいは、竺法護訳であって308年の訳出であるとみる説もある。また、異訳には『大阿弥陀経』『無量清浄平等覚経』『無量寿如来会』『荘厳経』が現存し、その他サンスクリット本などもある。→教、五存七欠。(浄土真宗辞典)