「常楽台主老衲一期記」の版間の差分
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2021年11月27日 (土) 18:40時点における版
『存覚上人一期記』。
本願寺3代法主覚如の子存覚の,生涯の間の重要事件を記したもの。原題は,存覚が常楽台の住持だったことにちなんで《
御開山の孫である覚恵法師と異父弟である唯善房との大谷本廟を巡る確執や、廿三歳(1312)の時に父の覚如上人が大谷廟堂の寺院化を企図し「専修寺」といふ寺号を裁可したのだが叡山に反対されたこと等が記されている。
文中、覚信とは御開山の末娘の覚信尼、禅念坊とは覚信尼の再婚相手小野宮禅念のこと。大々上は覚信尼の息男覚恵法師、大上(おお-うえ)は覚恵の息男覚如のことか。覚恵法師は、覚信尼と日野広綱の子であるが、唯善は、覚信尼の再婚相手である小野宮禅念との間の子である。覚信尼は夫であるる小野宮禅念の土地を関東の「門弟中」に寄進し、自らは留守職(るすしき)であるとして御開山の廟堂を創設した。この廟堂の相続について争われるのだが、唯善にしてみれば大谷廟堂の地は元来、実父の禅念が残したものであるという意識だったのであろう。だから「禅念坊譲狀」などを偽造したのだと思われる。なお、真宗大谷派が京都烏丸通にある建物の正式名称を「真宗本廟」と称しているのはこの覚信尼の古事に拠る。門主による寺の財産処分に対して、それは専横だと近代教学派が声を挙げた遠因には、唯円による土地簒奪の古事が念頭にあったかも。 ようするに。原点回帰を標榜した大谷派の「同朋会運動」に拠るのだが、聞法の道場を本廟といふ墓場にしたのは左巻きのアホの所業であると思ふ。
目次
- 1 常楽台主老衲一期記[於御前口筆畢]
- 1.1 十二歳
- 1.2 十三歳
- 1.3 十四歳
- 1.4 十五歳
- 1.5 十六歳
- 1.6 十七歳
- 1.7 十八歳
- 1.8 十九歳
- 1.9 廿歳
- 1.10 廿一歳
- 1.11 廿二歳
- 1.12 廿三歳
- 1.13 廿四歳
- 1.14 廿五歳
- 1.15 廿六歳
- 1.16 廿七歳
- 1.17 廿八歳
- 1.18 廿九歳
- 1.19 卅歳
- 1.20 卅一歳
- 1.21 卅三歳
- 1.22 卅四歳
- 1.23 卅五歳
- 1.24 卅六歳
- 1.25 卅七歳
- 1.26 卅八歳
- 1.27 四十一歳
- 1.28 四十二歳
- 1.29 四十三歳
- 1.30 四十四歳
- 1.31 四十五歳
- 1.32 四十六歳
- 1.33 四十七歳
- 1.34 四十八歳
- 1.35 四十九歳
- 1.36 五十歳
- 1.37 五十二歳
- 1.38 五十三歳
- 1.39 五十四歳
- 1.40 五十五歳
- 1.41 五十七歳
- 1.42 五十八歳
- 1.43 五十九歳
- 1.44 六十歳
- 1.45 六十一歳
- 1.46 六十二歳
- 1.47 六十三歳
- 1.48 六十四歳
- 1.49 六十五歳
- 1.50 六十六歳
- 1.51 六十七歳
- 1.52 六十八歳
- 1.53 六十九歳
- 1.54 七十歳
- 1.55 七十一歳
- 1.56 七十二歳
- 1.57 八十二歳
- 1.58 八十三歳
- 1.59 八十四歳
常楽台主老衲一期記[於御前口筆畢]
正応三年六月四日[誕生]。
永仁三年慈俊生。
同五年八歳之時、従五位下親綱。此時前伯耆守親顕為子、親顕卒後、親業卿又為子。仍出家之時、実名親恵。又親顕者親業卿子、顕盛朝臣之弟也。
正安元年、大谷南敷地被買副畢。彼地主者、長楽寺隆寛律師弟子慈信坊澄海{能說学生}旧跡也。彼真弟禅日房良海相伝居住、雖無沽却之志、特可買得之由懇望之間、以直法万疋買得畢。根本覚信御房御寄進地者、口五丈奥十丈、是一戸主也。後被買副地丈数、以同。
唯善房者、
十二歳
[正安三]、冬比、長井道信{鹿嶋門徒}依『黒谷伝』[九巻]新草所望在京。仍大上令草之給。其次道信申云、唯公称有禅念坊譲狀、宛唯公身被掠賜院宣之由有其聞。随而被捽管領之所存歟。此事不可然。其故者、当敷地為建立上人御影堂、覚信比丘尼於門弟中可管領之由、寄進狀顕然也。而構謀書被称禅念坊譲与狀之条、母子敵対、未来之牢籠也。此事争不被申披哉{云々}。仍大々上入御左大弁宰相[有房卿]亭、是千草先祖也、宗真法印引導也。被申述上件子細之処、彼卿云、任禅念譲書畢{云々}。被申云、譲狀事不実也、若令備進者是謀書也、出門弟中覚信寄進狀顕然也、若彼狀被御覧歟之由被仰之処、無其儀。禅林寺長老規庵依被申沙汰無左右勅許、被出符案可書進院宣之由被仰下之間、任案計也。重被申披者、定可帰正理歟之由返答。仍令帰坊畢。
十三歳
[乾元々]、為大々上御使節、大上為勧進可申披之料足、御下向東国。無幾則御帰洛。仍被申下院宣於当方了、其詞云、「親鸞上人影堂敷地事。依山僧濫妨、唯善欲申之間、雖被下院宣、所詮任尼覚信置文門弟等沙汰不可有相違者、依院宣所仰、如件。 正安四年 月 日、参議[有房卿]判、親鸞上人門弟等中、」付此宛所事彼卿被申云、可進貴辺如何{云々}。爰大々上被仰云、当方唯公共以非可自専、覚信置文顕然之上者、可宛門弟中{云々}。爰彼卿云、所被申廉直之至、尤可然。但彼上人門徒一向在家下劣輩也。然者書「門徒中」之条不可叶{云々}。其時被申云、以前所被下唯善之院宣、以可為同前。強彼門徒一向非可下劣、況唯公又門徒之随一也。然者彼時所被載唯公与此門弟、更不可有勝劣之由詳被申之間、伏理任望被書下「門弟等中」畢。十月 日、和州中河成身院{実範住持寺}同宿東北院円月上人[慶海]。
十四歳
[嘉元々]、童体之時、於発心院殿禅師覚意御坊、毎月有講莚、毎度問者勤仕。慶海上人諷諫之上、伯法印実伊扶持也。又三位法印良寛{于時已講}西南院同宿之時、連々入寺之間、彼仁論義等事被加扶持了。彼良寛者、慶海上人之祖師兼宝律師之弟子也、其時号経宝而好顕宗、致興福寺交衆了。十月十日、出家、同十日、於東大寺遂受戒了。実名興親、仮名中納言。十一月廿八日、十八道行、至金剛界伝受。於関東有専修念仏停廃事。其時唯公窃馳下、以巨多之料足、被申成安堵之御下知了。横曽禰門徒木針智信出三百貫。其外勧進所々、以数百貫被申之間無相違。其文章、「仮令於親鸞上人門流者、非諸国横行之類。在家止住之土民等懃行之条、為国無費、為人無煩、不可混彼等之由、唯善為彼遺跡所申非無其謂之間、所被免許、如件。 嘉元々年 月 日、加賀守三善判。」此下知無両所判形。号政所下{云々}。文章又非遺跡成敗。然而為混事於遺跡申成之歟。
十五歳
[嘉元二]、四月之比、為奉拝父祖等令上洛了。幼少之時連々煩邪気之刻、心性院僧正経恵{于時法印}奉渡慈恵大師御影、時々被加持。仍平復之間、成師弟之約、可同宿之由往日契約。然而中河東北院附弟相続之儀依為大切。父祖之御計雖令下向、往日之旧好難忘、山門之交衆猶本望之由依相存申子細之刻、可任意之由面々被仰之間、五月五日、入彼法印之坊礒嶋引接坊了。其時改親恵。五日、若有憚歟之由雖有其沙汰、日吉小五月会日也、殊可宜之由法印依被申、遂其節。故為引出物弘法大師御筆『如意輪大呪』被与之。自其以来同宿之後、『法花経』一部八巻一日伝受之、又十八道加行同伝受之。又依懇望、為心性院吹挙、入尊勝院僧正{玄智、于時大僧都}室了。八月十五夜、先面謁、不及同宿、密宗之受法等追日励之。十一月、於山門受戒之牒清書大納言法印浄実師主、青竜院二品親王{慈道、于時法性寺座主、無品親王}、僧正参仕之上奉公之号間、如此僧正相計者也。仍当年十一月十三日、十楽院准后大僧正[道玄]御入滅、青竜院御相続。
十六歳
[同三]、正月廿日、同宿尊勝院。光恵僧正{于時阿闍梨}兄弟之約可為大切之由相勧之間、二月六日、令同車、向日野大納言{于時中納言}亭、則成猶子之約了。於其席謁右衛門権佐資冬{光恵舎兄}。其後改光玄。養父之名字、顕宗師匠之名字、可宜之由、僧正被相計也。今月参仕十楽院。三月廿日、被補有職{号中納言新阿闍梨}。
十七歳
[徳治元]、今年唯善房騒乱漸更発。霜月之比、大々上受重病御平臥之最中、奉乞御影堂鎰嗷々之間、窃逃出令移住衣服寺給了。
十八歳
[同二]、入四季講。夏季入衆、秋季可懃講師之処、四月十二日、大々上御入滅之間、依世諍之難治不勤之。仍令離坊了。四月十一日夜、大々上被仰云、縦雖不入隠遁之門可為当所管領之上者、故可有房号之由被命、則被授之尊覚{云々}。但依為中山宮御名、改尊為存。
是先考之御計也。大々上御入滅之地者、二条朱雀衣服寺也。彼所者僧教仏宿所也。是又先妣父也。先妣者奉宮仕大々上、初播磨局、後大夫。予・兄弟誕生之後、号御上之、四十六才入滅。自十月至十二月、経廻樋口安養寺。于時長老阿日上人彰空為聞法也。自「玄義」至「定善義」聴聞之了。十一月、伊達郡野辺了専[幷]子息了意{于時九良}両人上洛[衣服寺]、奉見世諦御無力奉同道大上下向奥州。予御留主。
十九歳
[同三、延慶元]、四月御上洛以後、御居住法興院辻子。於是今出川上臘{廿七歳、延明門院按察}[小野宮中将入道女]両人連々令通信。入道女即御同宿、依御籠居三室戸、御離別已後、翌年十二月他界{云々}。即生房之息女者、嫁中納言阿闍梨光助{光円卿猶子}。後祗候大原青蓮院二品親王[尊助]成坊官、号中納言上座。子息中納言律師源伊者、山門堂僧也。上人御舎弟尋有僧都者、東塔善法院坊主也。依由縁源伊相伝此坊了。舎弟中納言上座光昌、竹内僧正[慈順]坊人也。常寿院宮御治山之時、於上人之遺跡者、源伊卿可致管領之由出沙汰。仍執事兵衛督法印公尋{後至僧正}為奉行被成問狀之令旨。然而被申披無別事。来善者、即生坊下人也。仍子孫等源伊相伝之間、奉譲大々上被買得{云々}。相副彼調度文書、自大々上被譲与于予了。御門弟三方使者上洛{法興寺辻子御宿}。鹿嶋順性[順慶父]使浄信、高田顕智[定専曽祖父]使善智、和田信寂使寂静[子息也]。各申云、以巨多之料足改院宣、門弟多年致管領之処、唯公一向押領、被置山僧等於北殿之間、門弟等参入且有憚、又背本意、早被申披、令安堵之様可有御沙汰{云々}。而其時洛中雑訴等不及勅裁。偏可為使庁沙汰之由被定之間、任法経其沙汰了。于時大理三条坊門宰相中将通顕{後至内大臣于時十九才}、刑部卿入道顕盛朝臣{于時前宮内大輔}納々読書之師範也。大理父内大臣通重{于時大納言}者、右少弁有正{于時前甲斐司}無双之文友・知己也。仍叔姪・父子所縁異他之間、被申下安堵之庁裁了。如此当方雖令安堵、敵方之山徒不及退出。然而使庁下部等非可致嗷義之間停滞。此人々申云、重又不申賜[伏見]院宣者、此事難道断歟{云々}。仍属故日野大納言俊光卿{于時中納言}被述此子細之処、可伺試之由領狀。仍経七、八箇日之後、為催促随身小酒肴渡御彼亭之時、彼卿云、経奏聞之処、使庁成敗之由被聞召之旨仰下之条、不可有子細之由勅答也。仍畏悦無極。然者則拝領可為何様哉之由被仰之間、於当座記書渡了。其詞云、「親鸞上人影堂[幷]敷地事、任正安院宣使庁成敗之由被聞召者、院宣如此。仍執達如件。 延慶元年 月 日判、」表書、「親鸞上人門弟等中、俊光。」{云々}如此致沙汰之処、唯公又廻異方便、申青蓮院、令申成院宣於門跡。大旨云、「妙香院領法楽寺敷地事、任先規一同可有計御沙汰之由、院宣所候也。仍言上如件。俊光恐惶頓首謹言。 延慶元年 月 日判奉、」表書云、「進上青蓮院法印御房、俊光。」{云々}此青蓮院者[慈深]、後光明峰寺摂政[家経]御息、僧正之後御遁世号海津僧正御房{大乗院御師}。此院宣以後、自門跡被仰当方之様、自元於門跡可有成敗之処、及院宣使庁之沙汰之条、存外之次第也。於本所可究訴諫之由被仰之間、仰天無極。仍三方使節大略退屈。其上無足之在京難治之間、先帰国了。此沙汰不慮延引。九月之比、老母経歷処々、器量聡敏僧、若有所要事者、可挙之由被示之処、至毗沙門谷寺務証聞院僧正観高坊、被述上件之子細間、大切之由返答。自元為日野中納言殿御猶子者、被付彼卿狀於寺務僧正者、不可有子細之由、弟子俊覚僧正{于時少僧都}相計之間、令悦喜。仍九月九日、大上有御同道、被仰家督卿之間、無左右領狀。翌日被遣取之時、無相違被書与了。其狀云、「光玄阿闍梨為一門之上、猶子候。御同宿候者、可為本望候。且内々可申九条殿候。恐々謹々。 九月十日、俊光、」表書云、「中納言法印御房。」仍帯此狀、向証聞院坊法印幷僧都対面。無幾、被補尊勝供僧朝遍阿闍梨遁世闕也。然而年内不及入寺移住。
廿歳
[延慶二]、自正月居住証聞院、次第受法等遂之了。去年三方使節、夏比上洛、為執沙汰此事也。仍罷向門跡奉行伊与法眼承任宿所、連々問答。所詮不可及訴諫、両方参候門跡。参候以雑掌可遂対決之由治定。仍大上自三室戸御出京、七月上旬之比、出対。青蓮院被置両方之正員於別所、以雑掌重々対決。不審事等各被尋正員、両方申狀悉被記置退散。此時不及是非也。評判、其後当方顕本所御下知了。其詞大途者、任正安院宣庁宣又重院宣領掌。不可有子細之由御下知也。如此及厳密之御沙汰之間、唯公没落関東之刻、奉取御影・御骨、奉安置鎌倉常葉。田舎人々群集彼所{云々}。御留守職之事、可為何様哉、如此落居之上者、可移住歟、如何之由被尋使節之処、吾等無左右難計申之間、以門徒一同之衆儀可有沙汰之由返答。仍御影堂御留主性善也。
廿一歳
[同三]、正月、大上御下向東国。其故者御留守職事若不叶者、談有志之人、別建立一所終生涯之由内々御所存也。勧進帳草試哉之由含仰之間、自毗沙門谷草進了。仮令四、五日間思案也。是予筆削之最初也。殊勝之由被感仰了。此時御影堂相続之事幷若州・伊賀国久多庄等事、条々悉載御譲狀賜之了。秋比、御帰洛。安積・鹿嶋殊共許之間、御入洛已後即御居住御影堂。但就被帯文書連々如此煩出来。悉可被出門弟中之由、面々令申之間、雖有御斟酌、不被出者御居住難治之間、留主職相承券契・覚信御坊御狀被出了。其上条々懇望狀事等寂静令申之間、被書出了。十月比、予、証聞院辞退供僧離寺了。所労之上、当所安堵之初、為相続付弟之上者、可同宿之由大上被仰之間、応厳命之故也。雖令離寺、与彼僧正[幷]弟子俊覚僧正、生涯和睦無相違。
廿二歳
[応長元]、五月之比、大上御下向越前国、則奉扈従畢。廿余日御居住大町如道許、奉伝受『教行証』之間、依御与奪、予大略授之了。閏六月廿三日、慈俊法印{十七歳、童名光珠}向毗沙門谷殿法印{九条禅閤御息、忠恵}坊。可引導之由頻被仰之間、予秘計也。而先妣廿五日、逝去。仍告示之間、令帰房。冬比、帰参、遂出家了。実名光真、仮名右衛門督也。改名度々、所詮、光真・光楯・光尋・光禅・慈俊也。秋比、大上御下向勢州。十月、与今出川上臘大上御同宿。同下旬被離別、被迎御領殿{従三位為信卿女、法名相如、十九才}。
廿三歳
[正和元]、青蓮院宮門跡三方{良助親王・尊円親王・慈道親王}御相論。大上尤可宜之由被仰、訴諫事労功異他。此時光玄為光顕。夏比、為法智[1]発起、被打額寺号専修寺。同人計申之。勘解由小路二位入道経尹卿{法名寂尹}書之。予申錦小路僧正誂之。秋比、山門事書到来。其旨趣、一向専修者往古所停廃也。而今専修号不可然。早可破却{云々}。座主裏築地僧正公什也。附弟慈什僧正者鷹司禅尼{冬雅卿伯母}曽孫之間、以彼縁令談座主、仍無為也。然而猶定不休歟、枉卿改寺号。然者先可撤額之間、座主幷玄智僧正相計之間、被撤其額。後日法智申下吾寺、用彼寺号打之{云々}。此折節仙芸随光玄。
廿四歳
[正和二]。
廿五歳
{存覚、管領(留守式を受諾)}
[正和三]、春比、大上御下向尾州、奉扈従了。廿余日御逗留。大上連々御所労之間、当寺管領事、自御存日可被譲与之由、自秋比連々被仰下。奉固辞之処、於身者可退当寺、於管領事不随命者、以聖跡可懸牛馬之蹄歟、可在意之由被仰之間、此上固辞無拠歟之間、奉承諾。仍十二月廿五日、請取之。其時絹一疋・用途百疋賜之。年内無可上洛之人、越年已下令周章之処、法智当年灯明遅引、仍廿八日、五百疋到来之間、叶冥慮之由御感。以之如形致越年等之沙汰了。御渡世之料足上下四人之衣食被定員数了。
廿六歳
[正和四]、春比、大上令借住窪坊給了。
廿七歳
[同五]、十二月、奈有迎之。大上御計也。
廿八歳
[文保元]、八月下旬之比、大上御夫婦予奈有密々参詣天王寺・住吉等。今年御領殿御離別。
廿九歳
[同二]、二月之比、被迎善照房、十九才。
卅歳
[元応元]、二月廿八日、光女誕生[円興寺長老也]。五月之比、大上御下向参州、奉伴了。自参州令越信州給、入御飯田寂円許。御帰洛之時、予瘧病、横吹之嶮路乍乗馬打在了。善教奉扈従之後、捨師匠寂円直参。寂円預御勘気了。
卅一歳
[同二]、仏光寺空性初参{俗体弥三郎}。六波羅南方{越後守維貞}家人比留左衛門大郎維広之中間也。初参之時申云、於関東承此御流。念仏知識者甘縄了円、是阿佐布門人也。而雖懸門徒之名字、法門已下御門流事、更不存知。適令在洛之間、所参詣也、毎事可預御諷諫{云々}。其時大上御対向窪、依申入此由、雖有御対面、於如然之扶持者、一向可為予沙汰之由被仰付之上、直此旨被仰含彼男之間、其後連々入来。依所望、数十帖聖教或新草或書写、入其功了。九月之比、光星丸生、柏庭也。
卅三歳
{存覚、義絶}
[元亨二]、五月、最勝講被行。先皇御治天之始也。仍殊有清撰之御沙汰。錦小路僧正始被召証義[兼講師]。仍初座表白事、為相続被招引之間、罷向彼坊、終夜草之。翌日光勝法印令同車帰坊了。此両年、口舌事相続、遂預御勘気之間、六月廿五日、令退出、寄宿牛王子辻子。七月廿日、出京、着江州瓜生津。是年於奥州越年。是者東国同行等和睦口入之為也。来秋必可申{云々}。
卅四歳
[元亨三]、三月晦日、自奥州着江州瓜生津。五月、赴帰路。了源所建立寺山科也。奥州人々上洛、以連署被申。長井明源[道信]・鹿嶋順慶・成田信性以下也。此後数年信海門流不及参詣、近年上洛。此後対所被来之同行達、如此有連署、為後証被載署哉之由令申候間、四十余輩上足加判。然者不及進覧、世上擾乱之時焼失了。無念了。
卅五歳
[正中元]、七月廿四日、愛光誕生[在所仏光寺也]。八月時正中日、山科興正寺{空性建立之寺、寺号大上被付也}予致供養了。装束鈍色、甲袈裟也。
卅六歳
[同二]、八月晦日、光徳丸誕生。
卅七歳
[嘉曆元]。
卅八歳
[嘉曆二]、秋比、取立住坊、為空性沙汰。此時今出川上臘被致随分助成為被訪菩提之由被示也。
四十一歳
[元徳二]、二月時正中日、供養仏光寺{本寺号興正寺、一両年以前、自山科移之、予改仏光寺}、導師予也。聖道出仕儀式也。夏比、武蔵守貞将辞管領。
四十二歳
[元弘元]、正月廿二日、進発関東{汁谷炎以後、窮困之故也}。先着瓜生津、奈有・光御前・光徳令同道、預置彼所了。柏庭者無住和尚同宿之処、塔主辞仁和寺籠居之刻、住東福寺普門院。二月十一日、着甘縄願念[誓海]宿所。三月八日、於江州瑠璃光女生。十二月比、為倉柄沙汰留置江州、大晦日、着倉柄宿所。伝聞、今年大上御下向東国。為如信上人卅三年御忌之間、為被詣彼御遺跡{云々}。其御留主之時、慈法被嫁梅之{云々}[十三才]。
四十三歳
[正慶元]、今春付真俗有御用、大上御経廻関東之由伝聞之。於大仏陸奥守貞有亭、禅尼[長楽寺殿]是彼息女介戚也、父者花山院師藤卿也。仁和寺妙光寺塔主無住禅師下向関東之間、就予申承。彼禅尼与坊主親服之間、依其引導、光女為長楽寺禅尼養子同宿。
四十四歳
[同二]、関東没落之後、予党住大倉谷。是静昭法印下向関東之間、依申通也。於光徳丸者預彼法印、予両人京上之時、念性一人召具了。是空性同朋也、後日聞之、念性預置阿護於沼戸。上洛而長途痢病之間、於遠江国麻田逝{仏光寺下}。又定専預置奈有於彼所一身上洛。六月九日、立鎌倉、至四十九院四十余日也。自瓜生津着仏光寺。愛光女、去年十一月十五日他界之由始聞之、九才。霜月之比、刑部禅門{于時右京大夫与予令同道}向万里小路一品[宣房]亭、光徳丸為申恩賞、称右少弁有正子息、有建立之子細。帯二条大閤{南方前殿師基}御書了。
四十五歳
[建武元]、仏光寺本尊開眼、夜陰内々之儀也。春比、光女上洛。同七日、於彼寺光威丸生。
四十六歳
[建武二]、光徳丸上洛。二月時正、光女自切髪[号永禅房]。
四十七歳
[同三]、夏比、大上御下向溝杭辺{云々}。行幸坂本、大谷殿上下相具数十人、御没落瓜生津、御越年{云々}。此御留主大谷御堂如之、留主御影堂{幷御影}等回禄了。予・光徳丸住塩小路烏丸興国寺。
四十八歳
[同四]、春比、大上御帰洛御居住西山[久遠寺]。上臘[十六才]前源中納言同宿之間、大上等御同宿彼亭了。
四十九歳
[曆応元]、三月、於備後国府守護前、与法花宗対決了。御門弟依望申、忘其憚、改名字号悟一出対了。法花衆屈、仍当方弥繁昌。其次作『決智抄』了、『仮名報恩記』・『至道抄』[各一帖]、『選択註解抄』[五帖]等也。『顕名抄』者、明光於京都所望之間、於彼境草遣了。潤七月、帰京。九月、依愚咄坊口入、預大上御免。同十八日、相伴愚咄坊参了。其時御在京八条源中納言雅康卿亭也。可同宿之由被仰之間、参住了。十月之比、御影反座之事、唯善房遺跡令承諾之由依有其說、高田専空等為御迎下向彼境。此上者争不動坐之由被仰、則御下向。予奉扈従了。而依無其実、専公空帰洛、於尾州参会之間、御上洛。予又同前。御下向之時者、先着瓜生津。彼房主奉伴、大和性空同道。十一月 日、為専空沙汰、買得今御堂{本願寺卅六貫}建立了。其時和田寂静令上洛、同致其沙汰了。
五十歳
[曆応二]、三月之比、光徳丸入室新熊野滝尻智蓮光院[教空]。四月十二日、大々上卅三廻忌辰也。仍於一条亭被行法事讚。無足之間、名僧等無之。慈法・光徳[十五才]共行。予病悩之間、不及出現。其後奈有病悩、而亭主[中納言]令恐怖歟之由推量之間、移住大谷。其時未及房舎造立之沙汰、仍寄宿御堂北局。秋比、大上御入寺南局、慈法居住後戸挻了。
五十二歳
[同四]、正月 日、光威丸自粟津上洛。八月廿八日、下向温泉。為手療治也。九月三日、帰京住大谷。
五十三歳
[康永元]、為湯治宿五条坊門室町旅所。其最中御義絶之由被仰之間、不及帰参大谷、宿塩小路油小路顕性宿所越年了。
五十四歳
[同二]、五月 日、光威丸向毗沙門堂、住証門院。九月比、依随心院前大僧正坊命、参住彼門跡。其時被遣俊覚僧正御書云、「光玄法印真弟小童御同宿之由承及候。召給候而遂出家羯磨沙弥、可令随之由候也。」僧正賜此御書無左右領狀。其時予居住和州、仍不及談合。其子細且談遣中納言公[房宋]。其時勘解由小路大納言{兼綱卿、于時蔵人学士}成猶子之約。仍綱字彼卿字、厳者門主経厳之厳字也。彼卿猶子之儀、俊覚僧正媒介也。十月十七日、出家、戒師門主僧正房也。十月廿日、付弟禅師御房通厳、於南都東大寺受戒之時、為羯磨沙弥同登壇受戒、取度縁了。
五十五歳
[同三]、二月 日、下向和州居住。十二月比、上洛居住大宮寺。上洛之後不幾、鹿嶋順慶・長井道空・飯田頓妙等上洛。
五十七歳
[貞和二]、六月廿七日、窃退六条、寄宿綾小路町{道性宿所}。其時目所労以外之間、数日休息而柏木願西等種々依有申旨、七月廿五日、帰住。其後和談事面々雖申之、遂不許容。九月之比、済々令上洛、和睦之事頻雖申之不許。同十一月、御報恩別時之時、又重願西等尚雖申之、不忠之子細再往宣說之時、伏理承諾。則面々下国之刻、於磯嶋可修別時之由、教願令申候間、悉以下向。
五十八歳
[貞和三]、二月上旬之比、綱厳退出随心院可帰参之由雖被仰、固辞申、于今同宿。和州・摂州之輩、至柏木来、当方之族今年治定了。錦織寺慈空房、於当宗有学問之懇志之由令示之間、遣挙於安養寺。為彼引導、寄宿円福寺。十二月之比、皆悉下向和州越年了。
五十九歳
[同四]、夏比、慈空房口入、宝塔院叡憲律師誂『信貴鎮守講式』之間、草遣了。
六十歳
[同五]、五月廿一日、善照御房御往生、御悲歎之最中、御免事種々雖申之不叶。同比、為奉訪善照御房、慈公・寂公上洛。此由申入之処、慈公者大宮方縁者也、不可叶。寂公者参入不可有子細{云々}。仍慈公失面目空下向、寂公者入見参了。九月七日、自和州上洛、着六条大宮。大谷御免之事為秘計也。仍相大理{時光、于時蔵人佐}之間、晦日彼卿奉召請、申此事之処、難治之由御返答。無念之間、十月二日示之。又十月比、遣学円三川和田道場門徒口入事談之。領狀、可伺便宜{云々}。同十一日、向蔵人佐西大路亭、終日談此事、猶以便宜可被得意之由懇望之。
六十一歳
[観応元]、五月之比、書写一行於教願為使者遣西大路。大谷御義絶事、猶可有口入之由申驚之。可申試之由領狀。仍教願自六条大宮連日催促往反。今月二日、先親亜相[資名卿]十三廻忌。同十三日、亡祖亜相[俊光]忌日也。旁被休人憂者、可為追善之潤色歟。大谷又故禅尼[善照房]一廻也。当此時赦免、可為慈悲之最詮之由、口入尤被得便宜候由、就尽詞及種々之述懐、有慇懃之贔屭、仍於本人者強無子細。是天性之理歟。然而讒口不絶之間、無左右不及許諾送日月。将亦旧冬、示遣之趣、和田不忘却、差専使勤連署申之、三人加署送之。真俗如此扶助之上、性円禅尼内々随逐和談之間、機感純熟、時節到来。遂御許諾、七月五日、被出免許御狀。蔵人佐廷尉以自筆書銘、喜悦無極之由送予之狀。六日、教願又為催促参向之時与之。仍請取之、不廻時刻即下摂州磯嶋、其夜一宿。同七日、自彼所発使者、大和相触之。同日、自身者帯彼狀、午刻許来着豊嶋。披閲之処、喜悦千廻。[乃至]八日、上洛。予、奈有綱厳僧都、酉刻大宮着。同九日早旦、先向西大路、且賀入眼、且相伴可向大谷之由示之、同道領狀之間、所乗之輿返大宮。奈有駕之、先被向僧都同道。為一献二百疋用意之。両国同朋各含笑歓呼之余、参集此所了。同十日、樋口大宮法事讚之時、予幷僧都参向、慈俊法印・俊玄律師供奉。十一日、参入奉伴、向彼宿所詠吟、人々亭主先人信光朝臣・予・慈法・光養。又明日恒例御報恩行法也。尤可接法延之由厳命之間、件日参行。九月十四日、故光長丸往事等被仰之、御詠等被取出之間和之、一献後帰京。以下十一月、恒例七箇日御報恩参籠。廿八日、結願了。後及晩帰大宮。而世上動乱興盛之間、自河州大枝妙光以下参洛。招引刻、申子細之処、如此之時、一所居住、尤可為本意。然而自他依不階、互不相扶、背本意了。然者各全身命者、不可過之。但老齢於今者不可期後会。今生限今歟之由被仰之、則御落淚千行。愚朦又不堪離憂、頗湿双袖。翌年御入滅之後、思出此事、誠以最後。尤可悲之。廿九日、則下国、先着妙性宿所暫逗留、後移妙光宿所了。
六十二歳
[観応二]、於妙光宿所越年。都鄙動乱雖驚耳目、郷内近辺輩参集、時々念仏不懈、連々法談無廃。正月八日、尊老御札法心持下之。新拝祝言殊含喜悦。但天下騒動河西・河北不静。仍御房中、窮困至極之由被仰之。誠察申之間、於表志之条者雖無其力、動静之式朝夕不重之間、欲申愚報之処、路次悉塞之間、行人往反不叶之由、依令謳歌送日数。然而愁吟之余、只任天運、憑冥助、可帰洛之由勧法心之刻、同十三日、帰京。法心其為体、帷一之下着紙衣。予偸廻思案、入鵝眼十疋余[於]紙衣中、予自以続飯一々押付之進入之、被召寄一提、一旦可被慰御心労之由申也。又来廿一日、為光長丸一廻之間、追修之時如此為加一灯、五十疋送母堂、同押之。其外為袈裟綃粥麞牙最少分送尼衆。而於山崎軍勢奪彼小米。又雖剝所着之帷、於紙衣者不懸手、存内也。仍無為京着。雖然京都路次猶不輒之間、法心於六条大宮暫休息{云々}。移日之後、十七日持参之処被仰云、此芳志尤以難有。即被召御房人、被述事由被省一滴{云々}。而自其晩頭有御違例之気。後日聞之、彼一渧為最後之御受用{云々}。同十九日夕、自大谷専使[宝寿丸]下着。照心房送狀、其趣、大上自一昨日御不予、白地御風気歟之由雖思給、為御老体之間、為用意告示之旨也。仍翌日[廿日]上洛。当時将軍方卜陣山崎、錦小路禅門以八幡為城之間、上下往反之路難義難輒通之由面々雖令申、成凌大千火之思、忘身命進発、経河内地揚鞭。近日余寒以外之上、今朝烈風払袖、頗難向面、馬蹄渡河之処、湿尾之滴、即結冰之式也。人馬共以疲極、上下雖及退屈、処々休馬足、時々続人息、西斜希有着六条大宮。不及休息、即馳参之処、去夕御往生。縡之楚忽、頗以迷惑。唯恨不拝平日恩顔不逢最後刹那。廿三日葬礼、廿四日収骨。予・慈俊法印・光養丸各供奉。廿五日初七日、遇御修善後、廿六日、又下大枝。二月廿二日、令当五七日給之間、自廿一日上洛、法事讚、為予沙汰勤修了。予・奈有已下也。四月七日、仰円寂図父祖両所之御影各作賛。六月廿三日、帯香園院姫宮御文、向浄花 院謁長老。是為望綱厳僧都住寺聞法也。即領狀。仍七月七日、本人向彼寺向顔、後列門弟得指授了。七月七日、江州錦織寺主席慈空大徳入滅。同十三日、奈有為訪先被下向。同十五日、帰洛。八月十八日、予下向澄禅尼元、自居住。愚咄大徳廿日来臨同宿。此時且為亡者之素意、且為自身之安立、此遺跡一向致管領、可継法命之由両人命之。爰予余命不可有幾、綱厳僧都相続可宜之由就示之、有慇懃之約諾。其儀今無相違。宿縁之所追歟。参籠大谷、逢七箇日御報恩。自彼報恩結願、上臘病臥、十二日早世。又廿日、下向彼境。
六十三歳
{文和元正月歟}、十八日上洛、逢一廻御仏事之後、又下国。十月之比、性覚・明光等、於御廟参詣之所申云、大宮経廻遼遠不甘心。枉只可住大谷四壁内{云々}。雖固辞面々異見之間約諾了。十一月大谷恒例御報恩念仏、予又参籠。十二月一日、又下向木部。
六十四歳
[文和二]、年始勤行等如例。正月十七日上洛、逢第三廻御追修。廿三日、自六条下向和州、奈宇同道。木部開山大徳第三廻之間招引。六月廿七日、柳原前大納言資明卿逝去。今小路地之事、自孟夏之比問答、大略承諾之後、為此事治定。八月十八日上洛、買得之、於大宮半作堂堂沽却之、運渡樋口油小路道場焼跡{云々}。房[幷]北房等渡之造之。運送車等大略出雲路乗専助成也。引地塗壁以下事、教願奉行之間、桂里輩殊尽力致懃厚了。十一月廿七日御報恩参籠如前々。
六十五歳
[同三]、於新居迎春、毎事祝着。朔参御廟。二日房主召請。
六十六歳
[同四]、十一月、御報恩中参籠又如前々。
六十七歳
[延文元]、正月一日、詣御廟。十四日、綱厳阿闍梨任権律師。三月十八日、宮参仕之事、御本意之由御返事。八月十七日、光誦丸生。十二月廿五日、光助任権律師。
六十八歳
[同二]、三月七日、空暹上洛。源海一期行狀可記『講式』之由、致望之間在京。四、五日之間草書了。清書綱厳僧都也。自四月十四日柏庭違例。十六日、招引当台。同廿二日、亥刻円寂。六月九日、光助律師来入峰[第二度]、下向之次也。同廿二日、帰国。大谷念仏不参籠往反。
六十九歳
[同三]、大谷念仏不参籠往反。十二月十八日、綱厳{任権少僧都}。
七十歳
[同四]、正月十四日、光助転任権少僧都。青蓮院大王、四月十九日御入滅[五十八]。廿日夜、御葬送。予・綱厳共雖随御輿、御後不入荒垣内。廿二日、御収骨、老骨退屈之間、綱厳参了。霜月御報恩今年又復旧参籠。
七十一歳
[同五]、六月廿日、慈俊法印入滅。百箇日以後、真影賛俊玄律師令誂之間、草書了。門主被染御筆{云々}。
七十二歳
[同六]、元日、参廟。近年雖用夜陰之儀、新房主律師頻申候之間、朝喰已後両人参詣。其次祝着如例。二日、両人招引、是又如前々。四月比、空暹上洛之次、予先年所草之『謝徳講式』、聊有存分旨、条々可書改之旨趣令申之間、楚忽加添削了。前後両本依時可用之。清書俊玄律師染筆者也。
八十二歳
[応安四]、十二月、御下向錦織寺。
八十三歳
[同五]、六月、御影奉図之。良円法印筆。
八十四歳
[同六]、二月廿八日、御往生。
右此一期記者、存覚上人御在世之時、綱厳僧都於御前口筆之旨、被載端書畢。但七十二歳已後者、綱厳所書加給歟。爰去大永之比、予参洛之砌、謁懃忠法印聞此旨、則彼一巻与于給。暫時須利之間、取要抄出之、早奉返貴辺。然処享禄{晩年}依世上擾乱、常楽寺炎上之後、彼上人之御作文御真筆等若干篋令焼失{云々}。然旧冬参会之刻、随身之条、応御懇望之旨、疎墨之草本奉清書処也。辞以楚忽之、不審之事等雖有之、既正本紛失之上者重而不及校合。抑御在世園城寺御経歷、諸徒之談法、東関御行化、万民之懇志可為肝要之文段所除是多歟。然而今任現形本書写之。唯恨此一冊悉不終其書功、因茲千万言中、纔呈其一二[矣]。蓋聞彼中庸、遇秦皇焚書、只残十余章以行于世。是併達子思之本心者乎。況明師之金言、豈廃一句乎。仍不顧斟酌忘早跡染愚筆訖。旁秘深窓不可及外見而已。
于時天文廿年睦月五日記之
青蓮院三方御相論公事訴諫之事、於園城寺諍論之事、
於青蓮院御譲狀草書之事、慈恩講式草書之事、写本在之。荒木道空、上野岡野円実、荒木下覚意{一乗院前門主九条禅閤息}、尭海[西塔一方学頭]、成慶{下野法印始竪者成澄}。
脚 注
- ↑ 法智。真仏上人の門弟。大谷廟堂に掲げようとした「専修寺」の額を関東へ持ち帰る。