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「仏説 無量寿経 (巻上)」の版間の差分

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 『大無量寿経』ともいい、略して『大経』とも称される。この経は王舎城の耆闍崛山において、すぐれた比丘や菩薩たちに対して、釈尊がひときわ気高く尊い姿をあらわして説かれたものであり、諸仏がこの世にお生れになる目的は、苦悩の衆生に阿弥陀仏の本願を説いて救うためであるといわれている。<br>
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 上巻には法蔵菩薩が発願し修行して阿弥陀仏となられたことが説かれる。まず「讃仏偈」において師の世自在王仏を讃嘆し、続いてみずからの願いを述べ、ついで諸仏の国土の優劣をみてすぐれたものを選び取り、それによってたてられた四十八願が説かれるが、なかでも、すべての衆生を救おうと誓われた第十八願が根本の願である。次に四十八願の要点を重ねて誓う「重誓偈」が、さらに兆載永劫にわたる修行のさまが説かれ、この願と行が成就して阿弥陀仏となられてから十劫を経ているといい、その仏徳と浄土のありさまがあらわされている。下巻には仏願の成就していることが説かれ、衆生は阿弥陀仏の名号を聞いて信じ喜び、念仏して往生が定まると述べ、さらに浄土に往生した聖者たちの徳が広く説かれる。次に釈尊は弥勒菩薩に対して、人の世の悪を誡め、仏智を信じて浄土往生を願うべきであると勧められる。最後に無上功徳の名号を受持せよと勧め、将来すべての教えが滅び尽きても、この経だけは留めおかれ人々を救いつづけると説いて終っている。<br>
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 親鸞聖人は『教行信証』に、「それ真実の教を顕さば、すなはち『大無量寿経』これなり」、また「如来の本願を説きて経の宗致とす、すなはち仏の名号をもつて経の体とするなり」と示され、如来の本願が説かれ名号のいわれがあらわされた真実の教えであるといわれている。浄土真宗の根本聖典である。}}
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==仏説無量寿経==
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高祖聖人の御選述『教行証文類』の序にいはく、「難思の弘誓は難度海を度する大船、无碍の光明ば无明の闇を破する慧日なり」と。已上<br />
<small><small>一連番号をクリックすると対応する現代語文が参照できます。</small></small>
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 弥陀不共の利生この一文にあらはれ、凡夫出離の用心この一句にたれりとす。いはゆる難思の弘誓といふは如来別意の弘誓、果分不可説の法門なるがゆへに、佛意の建立するところ因位の測量のをよぶべきにあらず。いはんや凡慮は分をへだてたることをあらはすことばなり。こゝをもて『大経』(巻下)には、「如来の智慧海は深広にして涯底なし、二乗はかるところにあらず、たゞ佛のみひとり明了なり」といひ、『小経』には、「六方の諸佛舌相をのべて証誠したまふに、不可思議の功徳を称讃す」とときたまへり。たゞ智願の広海の不可思議なるのみにあらず、国土の荘厳も不可思議なり。<br />
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これによりて論主(浄土論)は二十九句の荘厳をあかして依正の功徳をほむるとき、「かの佛国土の荘厳は不可思議力を成就せり」といひ、宗師(般舟讃)は念佛の行者初生の相をいふとして、「佛生人をひきゐて観看せしめたまふ、いたるところはたゞこれ不思議なり」といへり。されば若不生者の
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ちかひむなしからずして成じたまへる正覚なるがゆへに、正報の功徳の佛果、无漏の万徳を円満したまへるも、しかしながら我等が往生の決定することをあらはし、依報の荘厳の第一義諦妙境界の相を成就したまへるも、ひとへに無縁の大悲にむくはずといふことなし。<br />
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しかるあひだ、おこしたまふところの誓願も諸佛に超絶して鄣重根鈍の衆生をたすけ、まうけたまふところの浄土も三界に勝過して湛然寂静の妙相を感成せり。安居院の大和尚(唯信鈔意)の「この極楽世界は二百一十億の諸佛の浄土のなかに、悪をすてゝ善をとり麁をすてゝ妙をとりて、さまざまにすぐりいだせることを嘆ずるには、たとへばやなぎのえだにさくらのはなをさかせ、ふたみのうらにきよみがせきをならべたらんがごとし」といへり。をろかなるこゝろになをあくところなくあらまほしきは、かのたおやかなるえだにさきたらんはなの、春秋をわかず、ちることなくてひさしくにほひ、その名たかき浦々の月のかげをならべたらんが、よる・ひるのさかひなくて、いつもてらさんをみばやとおぼゆるは、この景色によせてかの厳飾をおもひやらんとなり。<br />
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難度海といふは生死の大海なり。凡地と聖道とのなかに、この大海をへだてゝわたることたやすからず。これにつきて三乗の法舟あり、声聞は四諦を観じてこれをわたり、縁覚は十二因縁を観じてこれをわ
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たり、菩薩は六波羅蜜を行じてこれをわたる。慳貪・破戒・瞋恚・懈怠・散乱・愚癡の六弊は所度の海なり、布施・持戒・忍辱・精進・禅定・智慧の六度は能度の船なり。なをくはしくこれを論ぜば、教により宗にしたがひてその修行まちまちなるべし。生滅・无生・无量・无作の四諦を観じ、五重唯識・八不中道の観門等、みなこれ流転生死の愛海をしのがんとする方便の船なり。<br />
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しかるにこれらの行をたづぬるに、もしは根性利者のなすところ、もしは大根志幹の修するところなるがゆへに、三乗の修行いづれもたてが<br />
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たきによりて、たまたまその門におもむくひとも、退縁にあひぬれば不退のくらゐにいたりがたし。いかにいはんや、とき末代にをよび人下機になりぬ、いづれの行をつとめ、いかなるふねをもとめてか、このうみをわたりてかのきしにいたるべき。<br />
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生死をはなれんこと、たとひそのこゝろざしありとも、そののぞみ達しがたし。こゝに弥陀の本願は、かの諦・縁・度の法をもこゝろにかけず、戒・定・慧の三学をも身に行ぜざるともがら、法財をば煩悩の賊にうばゝれ、佛性をば癡惑のやみにおほはれたれば、たゞ六道にめぐりて、さらに出離の方法をしらざるに、如来かゝるたぐひをたすけんがために、おこしたまへる大慈大悲の弘誓、无上殊勝の本願なれば、ひとたび帰命の誠心をいたし、わづかに六字の名号を称するに、たちどころに横超断四流の益を
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えて、ひそかに三界沈没の暴流をたち、つゐに速証无生身のくらゐにのぼりて、すみやかに法性常楽のさとりをひらかんこと、まことにこれ難度の海をわたる大船、難思の弘誓のきはまりなり。またく行人の功にあらず、ひとへに佛願のちからによれり。<br />
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无碍の光明といふは、すなはち『大経』にとくところの十二光佛のそのひとつなり。二六の尊号のなかに、その功能ことにすぐれたり。『阿弥陀経』には「かの佛の光明无量にして十方の国をてらすに障碍するところなし」といひ、『観経』には「念佛の衆生を摂取してすてたまはず」とときたまへるを、和尚(礼讃)この両経のこゝろによりて、かの佛の名義を釈したまふに、无所障碍の文と、摂取不捨の文とを、ひきまじへてのち、「かるがゆへに阿弥陀となづく」と結したまへり。かの光明の障碍するところなきは摂取のためなり。摂取のゆへに阿弥陀の号をえたまへば、衆生の往益はひとすぢにこの嘉号によるときこへたり。このゆへに天親菩薩も一心帰命のこゝろざしをのべたまふに、あまたの徳号のなかに、えらびて尽十方無碍光如来と礼したまへり。<br />
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おほよそ弥陀如来の利生に、无能碍者の徳あるも、この名号の功用なり。そのゆへは、衆生もろもろの邪業繋につながれて三界の牢獄にとらはれ、よろづの果縛にかゝはりて生死を解脱することあたはず、業愛癡の縄ひとをしばりてをくれば、われら
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いかでか獄卒の呵責をまぬかれん。業風のふくにしたがひて苦のなかにおつれば、罪人なんぞ泥梨の苦にもれん。あるひは悪口・両舌・貪・瞋・慢、八万の地獄にみな周遍すともいひ、あるひは佗人三宝のとがを論説すれば死して抜舌泥梨のなかにいるともいへり。しかるにこれらの三業の罪●は多生のあひだにもことごとくこれををかし、かくのごときの一切の惑障は今世にもみなこれを具せり。染浄の因にこたへて善悪の果をうるならば、垢障覆深の凡夫なにゝよりてか輸廻の果報をまぬかるべき。曠劫の流転もこれによれり、未来の沈淪もまたおなじかるべし。<br />
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しかりといへども佗力に帰し佛願をたのみて信心を発得し名号を称念すれば、ながく生死の苦域をはなれて无為の浄土にいたることは、しかしながら无碍光佛の利益によりて无能碍者の威力をほどこしたまふゆへなり。无明の闇の破する慧日といふは、世間の闇冥を破することは日輸にこえたるはなく、愚癡の昏迷をのぞくことは智慧にすぎたるはなし。かるがゆへにならべて法・喩をあぐることばなり。その本説をたづぬれば『大経』にいでたり。佗方の菩薩の安養に往詣して教主を供養したてまつることば(巻下)に「慧日世間をてらして生死の雲を消除す」といへる、これなり。憬興師この文を釈して(述文賛巻下)いはく、「慧日といふはたとへにしたがへたる名なり、惑と業と苦
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との三は、よく真空をよび智の日月をおほふこと、すなはち雲の虚空と日月とをおほふにおなじ、かるがゆへに生死雲といふ。佛智真に達して、よく自佗の惑・業・苦のさはりをのぞく、かるがゆへに慧日といふ」と。[已上]<br />
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また宗師『観経』にとくところの佛日を解する文(序分義)には、「たとへば日いでゝ衆闇ことごとくのぞこるがごとし、佛智ひかりをかゞやかせば、无明の夜、日ほがらかなり」とのたまへり。弥陀・釈迦二尊の利益ことなるに似たれども、慧日・佛日・智光の功用准じてしりぬべし。<br />
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されば聖道門のこゝろならば、みづから智慧のひかりをかゞやかして生死のやみをのぞくべし、もし智慧のひかりなからんたぐひは、その明闇なにゝよりてかはるゝことをえん。しかるに如来利佗の慧日、衆生黒業のやみをてらしたまふゆへに、をのれがちからにて生死の罪業をのぞくことあるまじけれども、弥陀无碍の光明、一切の悪業にさへられず衆生を摂取したまふにより、愚惑の凡身をあらためずして、かならず清浄の智土に生ずるなり。略してかの序のはじめのことばを解することかくのごとし。<br />
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そもそも弥陀如来の、深重の本願をおこし殊妙の国土をまうけたまへるは、衆生をして三輪をはなれしめんがためなり。その三輪といふは、一には无常輪、二には不浄輪、三には苦輪なり、この義慈恩大師の『阿弥陀経の通賛』にみえたり。<br />
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また慧心の『往
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生要集』(巻上本)に十門をたつるなかの、第一に厭離穢土の相を判ずとして、人間のいとふべきことをあかすにもこの三をあげたり。かの『集』には不浄・苦・无常とつらねたり。<br />
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一に无常輪といふは、この世のなかのさだめなくはかなきありさまなり。『大経』にこのことはりをときて、あるひは(巻下)「愛欲栄華つねにたもつべからず、みなまさに別離すべし」といひ、あるひは(巻上)「処年寿命よくいくばくもなし」といへり。<br />
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つらつらおもんみれば、輪王高貴のくらゐ七宝つゐに身にしたがふことなく、釈天宝象のあそび四苑ながくまなこにへだつる期あり。あふいで六欲・四禅をおもふに三界のうちにうらやましかるべきところなし、ふして三悪・四趣をうかゞふに六道のあひださながらみなかなしみをまぬかるべきところにあらず。人間南浮のわづかなるいのち、粟散辺国のいやしき果報、なんぞ著楽をなすべきや。不死のくすりをもとめし秦皇・漢武もむなしくさりぬ、たゞ悲風の釃山・杜陵のふもとにむせぷあり。<br />
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武勇のはかりごとに長ぜし樊噲張良も名をのみのこせり、いま遷変有為のあだをふせぐ弓箭あることをきかず。綺羅の三千もそらにおひたり、漢李・唐楊のたほやかなりしすがたも一聚のちりとなりぬ。付法蔵の賢聖もことごとくかくれぬ、有智高行の聖人もかたざらぬは无常の殺鬼なり。老少不定のさかひなれば、さかりなるひとも
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おほくゆく。生者必滅のことはりなれば、おひぬるひとはましてとゞまらず。鳥部山のけぶり、みねにものぼりふもとにもたつ、われもいつかそのかずにいらん。あだし野の露、あしたにもきえ、ゆふべにもおつ、たれとてもよそにやはおもふべき。<br />
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後鳥羽の禅定上皇の遠島の行宮にして宸襟をいたましめ浮生を観じましましける御くちずさみにつくらせたまひける『无常講の式』こそ、さしあたりたることはり耳ぢかにてよにあはれにきこえ侍るめれ。<br />
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その勅藻をみれば、「あるひはきのふすでにうづんで、なみだをつかのもとにのごふもの、あるひはこよひをくらんとして、わかれを棺のまへになく人あり。<br />
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おほよそはかなきものはひとの始・中・終、まぼろしのごとくなるは一期のすぐるほどなり。三界无常なり、いにしへよりいまだ万歳の人身あることをきかず、一生すぎやすし。いまにありてたれか百年の形体をたもつべきや、われやさき人やさき、けふともしらずあすともしらず、をくれさきだつひとは、もとのしづくすゑのつゆよりもしげし」といへり。<br />
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またちかごろ、智行名たかくきこゆる笠置の解脱上人のかゝれたることばも、よにやさしく肝にそみておぼゆ。そのことば(愚迷発心集)には「風葉の身たもちがたく草露のいのちきえやすし。[乃至]南隣にも哭し北里にも哭す、人ををくるなみだいまだつきず。山下にもそひ原上にもそふ、ほねをうづむ
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つちかはくことなし。いたましきかな、まのあたりことばをまじへし芝蘭のとも、いきとゞまりぬればとをくをくり、あはれなるかな、まさしくちぎりをむすびし断金のむつび、たましゐさりぬれば、ひとりかなしむ」といへり。かやうのことはりは目のまへにみゆれば人ごとにしりがほなれども、欲塵に著し境界にほださるゝならひなれば、凡夫としておどろかざる、まことにはかなかるべし。<br />
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しかれば『座禅三昧経』(巻上意)には、「今日この事をいとなみ明日かの事をなさん、楽著して苦を観ぜざれば死賊のいたることをさとらず、忿々として衆務をいとなめば日夜のさることをさとらず」といひ、『大般涅槃経』(北本巻二南本巻二)には、「一切のもろもろの世間に、生あるものはみな死に帰す、寿命无量なりといへどもかならずをはりつくることあり、それさかんなるものはかならずおとろふることあり、あひあふものは別離することあり」とときたまへり。<br />
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かゝる无常のかなしみは浄土にあらずばのがれがたく。この有待のすが<br />
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たは生死をはなれずばいかでかあらためん。三乗の修行みなこの无常の果報をまぬかれてかの常住の極位にいたらんとすれども、修因成ぜざれば証果むなしきに似たり。<br />
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しかるを弥陀の願力にすがりて安養の往生をとげぬれば、かの土は无為涅槃のさかひ、无衰湛然のところなるがゆへに、みづからの功行をからず、佛力の加被
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によりて、ながく生死の无常輪をのがれ、真常の宝所にいたるなり。<br />
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二に不浄輪といふは、この身の汚穢にして浄潔ならざることをいふなり。これにつきて三種あり、種子不浄、自体不浄、究竟不浄なり。種子不浄といふは、この身は栴檀のたねよりも生ぜず蓮華のくきよりもいでず、中有のかたちをすて業識を胎内にやどすはじめより、その種子またくこれ不浄なり。<br />
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自体不浄といふは、三百六十のほねあつまりて身形を成じ、三万六千のちすぢながれて気命をたもつ、五臓・六府みなこれ不浄なり、涕唾・便痢ひとつとしてきよからず。たとひ海水をかたぶけてこれをあらふとも自体の不浄をばきよむべからず、たとひ沈・檀をたきてこれに薫ずとも本性の臭穢をばあらたむべからず。やなぎのまゆみどりなりといへどもその実体を観ずるに耽著すべきにあらず、はなのかほばせこまやかなりといへどもただこれ画せるかめに糞穢をいれたるがごとし。智行兼備のやんごとなき聖人達もかりのいろにめでゝ行業をむなしくすること、三国にそのためしおほし。肉身の不浄をば現量にも識知し、聖教の明文にむかふときは、一旦その道理を甘心することなきにあらざれども、无明のまよひによりてみづからの心を調伏せざること、欲界繋の煩悩の所為ちからなきことなり。五欲を貪求すること、相続してこれつねなり。<br />
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「たとひ清心をおこせども、なをし水にゑがくがごとし」(序分義)といへる。濁世の凡心は、覧愚ともに、おそらくはいたくかはらずもや侍べるらん。<br />
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 究竟不浄といふは、ふたつのまなこたちまちにとぢ、ひとつのいきながくたえぬれば、日かずをふるまゝにそのいろを変じ、次第にあひかはるに九相あり。しかれども、すなはち野外にをくりてよはのけぶりとなしはてぬるには、九相の転移をみず、たゞ白骨の相をのみみれば、たしかにそのありさまをみぬによりて、をろかなるこゝろにおどろかぬなるベし。たまたま郊原・塚間をすぐるに、おのづからその相をみるときは、一念なれども、しのびがたきものなり。紅顔そらに変じて桃李のよそほひをうしなひぬれば、たちまちに胮脹爛壊のすがたとなり、玄鬢身をはなれて荊棘のなかにまつはれぬれば、烏犬噉食のこゑのみあり。あるひは爪髪分散してこゝかしこにみてるところもあり。<br />
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あるひは手足腐敗して東西にちれるところもあり。まことにこれ不浄の究竟するところ、そもそもまた有待のしからしむるきはまりなり。もし浄刹にいたらずば、いかでかこの不浄の性をあらたむることあらんや。<br />
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三に苦輪といふは、三界・六道みなこれ苦なれども四苦・八苦はことに人間にあり、貴賤ことなりといへどもことごとくこれをそなへ、貧富おなじからざれどもこれに
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なやまされずといふことなし。四苦といふは生・老・病・死なり、八苦といふはこれに愛別離苦・求不得苦・怨憎会苦。五陰盛苦をくはふ。もし壮年にして世をはやくすぐる人は老苦をうけざるあり、もし富有にしてたからをもとむることなからんひとは貧苦をまぬかるゝあり、そのほかのともがらはこれらの苦をのがるべからず。これによりて光明寺の大師(序分義)は、「この五濁・五苦・八苦等は六道に通じてうく、いまだなきものあらず、つねにこれに逼悩せらる。もしこの苦をうけざるものは、すなはち凡数の摂にあらず」とのたまへり。<br />
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『倶舎論』(巻二二)のなかに凡夫の苦をうけながらみづからしらざる相を判じていへることあり、「ひとつのまつげをもてたなごゝろにをけばひとさとらず、もし眼睛のうへにをけば損をなしをよびやすからず、愚夫は手掌のごとし行苦のまつげをしらず、智者は眼睛のごとし縁じてきはめて厭怖を生ず」といへり。たゞし人天の両趣にはすこしきの楽なきにあらず、すべて地居・空居の勝報いづれもとどりなれども、ことに三十三天の快楽などはたぐひすくなくこそきこゆれ。<br />
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しかれども、たゞたのしみにのみまつはれてさらに佛道を修せず、曠劫流転よりこのかた六道経歴のあひだ、われらもさだめてかれらの生をうくる世もありけん。しかるに殊勝池ののみづ閼伽にむすばずしてむなしくすぎ、歓喜苑のはなぶ
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さ佛界に供することなくしていたづらにちりにしかば、かへりて下界におちていまだ輪廻をまぬかれぬこそ、うたてくはづかしけれ。人間の果報にも金輪・銀輪、飛行の至尊はまふすにおよばず、異朝・本朝、理世の聖主もまふすにあたはず、さならぬひとも、豪姓の位にむまれて身を玉楼金闕のうちにやすくし、富貴のいへにありてくらに珠玉・錦繍のたからをみてたる人、先世の福因もゆかしく当時の栄耀もうらやましかるべけれども、それもたゞ今生の豊楽にほこりて後世の資糧をこゝろにか<br />
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けずば、松樹千年のよはひもつゐにかぎりあらんとき、火車八獄のむかへ、たちまちにきたらんをばいかゞふせぐべき。こゝろをたのしましむとも、いくばくかあらん、須臾にすなはちすつるがゆへなり。楽とおもふも妄想なり、実によれば苦受なるがゆへなり。<br />
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「おほよそ三界やすきことなし、なをし火宅のごとし、衆苦充満してはなはだ怖畏すべし」(法華経巻二)と佛ときたまへば、いづれのさかひか煩悩の火宅にあらざらん、たれのともがらか生死の衆苦をうけざるべき。苦をうけながらまよひて楽とおもひ、さとらずいとはざるは愚夫のならひなれども、一分も因果のことはりをわきまへ、まして後世をねがはんたぐひ、この苦因の制しがたきことをしり、その苦果のまぬかるまじきことをおもひて、自力にてははなるまじき生死の根源をたゝんこ
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とは、ひとヘに佗力をもてたすけたまふ如来の恩徳なりとあふぐべきなり。<br />
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无常輪をはなるゝことは、无量寿の佛徳によりて、衆生もおなじく常住の寿命をうればなり。『阿弥陀経』に、「かの佛の寿命をよびその人民も无量无辺阿僧祇劫なり、かるがゆへに阿弥陀となづく」といへる、その義ことに甚深なり。佛の正覚は衆生の往生によりて成じ、衆生の往生は佛の正覚によりて成ずるがゆへに、機法一体にして能所不二なるいはれあれば、佛の寿命も衆生の寿命もあひおなじくして、无常をのがれ常住をうることもかはることなきなり。<br />
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このゆへに『法事讃』(巻下)には、「一念に空に乗じて佛会にいりぬれば、身色寿命ことごとくみなひとし」とほめ、『般舟讃』には、「身を常住のところに安ぜんとおもはゞ、まづ要行をもとめて真門にいれ」とをしへ、『往生礼讃』には、あるひは「无生の果をえんとおもはゞ、かの土にかならずすべからくよるべし」といひ、あるひは「浄国は衰変なし、ひとたび立して古今しかなり」といへり。<br />
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 不浄輪をさることは、阿弥陀佛をば無量清浄佛となづけたてまつり、極楽をば一乗清浄无量寿世界と号するゆへに、身土清浄にして、依報も正報も有漏の垢穢をはなれ、能化も所化もみな無漏の浄体なり。こゝをもて『大経』の説をみるに、諸佛の衆会の菩薩につげて安養の往覲をすゝめたまふことば(大経巻下)には、「法をきゝてこのんで
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受行して清浄のところをえよ」とをしへ、四十八願のなかをみるにも、あるひは「一切万物厳浄光麗ならん」(大経巻上)といひ、あるひは「国土清浄にして諸佛の世界を照見せん」(大経巻上)とちかひたまへり。<br />
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このゆへに往生をうるひとは、貪瞋の惑をはなれて自然虚无の身をうけ、清白の法をきゝて離蓋清浄の報をうく。これすなはち雑生の世界には四生まちまちなりといへども、をのをの惑業の感ずるところ不浄の生元なり。かの安楽国土は雑業の所生にあらずして、同一にに念佛し、ながく胞胎をたちて如来正覚の華より化生するがゆへに、生ずるものはことごとく清浄の体をうるなり。<br />
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 苦輪をいづることは、ことに大悲の本意、これ済度の極致なり。すでに国を極楽となづけ、また安楽と号す。苦果をはなるゝこと、そらにしんぬべし。こゝをもて『大経』(巻上)には、「三途苦難の名あることなし、たゞ自然快楽のこゑのみあり」といひ、『小経』には、「もろもろのくるしみあることなし、たゞもろもろのたのしみをのみうく」とときたまへり。しかのみならず、『論』(浄土論)には荘厳无諸難功徳成就をあかして、「ながく身心の悩をはなれて楽をうくることつねに无間なり」といひ、『註』(論註巻上)にこれを釈するには、「身悩といふは飢渇・寒熱・殺害等なり、心悩といふは是非・得失・三毒等なり」といへり。<br />
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また大師処々の解釈にも、おほく受楽の義をあかして、衆生をして欣慕せしめた
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まへり。いはゆる『観経義』(定善義)には宝地の讃をつくりて、「西方寂无為の楽は、畢竟逍遙して有无をはなれたり」といひ、『般舟讃』には「かくのごときの逍遙快楽のところに、さらになんのことを貪してか生ずることをもとめざらん」とすゝめ、『礼讃』には、「生ぜんと願ずること、なんのこゝろにか切なる、まさしく楽の无窮なるがためなり」といへる解釈等これなり。われら愚癡の身、罪悪生死の機、苦因を断ぜざれば苦果をのがるべからず、楽因をたくはへざれば楽果をうべからず。しかるに弥陀如来、凡夫のためにかまへたまへる西方の浄土は、よこさまに五悪趣をきるがゆへに、本願の強縁によりて極楽の往生をとげぬれば、をのづから不遭苦患の利をえて、たゞ凞怡快楽の益にあづかるなり。<br />
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『往生要集』(巻上末)に十楽をたつるなかの第五に、快楽不<br />
 +
退楽をあかして離苦得楽の相をのべたり。その文にいはく、「かの西方世界は楽をうることきはまりなし、人天交接して、ふたつながらあひみることをう。慈悲心に薫じて、たがひに一子のごとし。ともに瑠璃の地のうへに経行し、おなじく栴檀のはやしのあひだに遊戯す。宮殿より宮殿にいたり、林池より林池にいたるに、もししづかならんとおもふときは風浪・絃管をのづからみゝのもとにへだゝり、もしみんとおもふときは山川・渓谷なをまなこのまへに現ず。香・味・触・法、念にしたがひてまたしか
 +
<span id="P--369"></span>
 +
なり。あるひは飛梯をわたりて伎楽をなし、あるひは虚空にあがりて神通を現ず。あるひは佗方の大士にしたがひて迎送し、あるひは天人聖衆にともなひて遊覧す。<br />
 +
あるひは宝池のもとにいたりて新生のひとを慰問す、なんぢしるやいなや、このところをば極楽世界となづく、この界の主をば弥陀佛と号したてまつる、いままさに帰依すべし。あるひはおなじく宝池のうちにあり、をのをの蓮台のうへに坐して、たがひに宿命の事をとく[乃至]あるひはともに十方の諸佛利生の方便をかたり、あるひはともに三有の衆生抜苦の因縁を議す、議しをはりて縁ををひてあひさり、かたりをはりてねがひにしたがひてともにゆく。あるひはまた七宝のやまにのぼり、八功の池に浴して寂然宴黙し、讀誦解説す。かくのごとく遊楽すること相続してひまなし。ところはこれ不退なればながく三途八難のをそれをまぬかれ、いのちはまた无量なればつゐに生・老・病・死の苦なし。心事相應すれば愛別離の苦なく、慈眼ひとしくみれば怨憎会の苦なし。白業の報なれば求不得の苦なし、金剛の身なれば五盛陰の苦なし。ひとたび七宝のうてなに託しぬればながく三界苦輸の海をわたる」と。[已上]<br />
 +
<br />
 +
いまかすかに聖教の所説をきゝてもなを渇仰のこゝろをもよほす、たゞちにみづから无為の法楽をうけん、むしろ歓喜のおもひにたへんや。<br />
 +
<span id="P--370"></span><br />
 +
総じて三輪をはなるゝことは、如来の荘厳清浄功徳成就のゆへなり。その功徳といふは、『論』(浄土論)に「かの世界の相を観ずるに三界の道に勝過せり」といへる、これなり。<br />
 +
『註』(論註巻上)にこの文を解するには、「この清浄はこれ総相なり、佛もとこの荘厳功徳をおこしたまふゆへは、三界をみるに、これ虚偽の相、これ輪転の相、これ无窮の相なり。これ蚇蠖の循環するがごとく、蠶蠒のみづから縛するがごとし。あはれなるかな、衆生この三界にむすぼゝれて不浄に転倒せること。衆生を不虚偽のところ、不輪転のところ、不无窮のところにをきて、畢竟安楽大清浄処をえしめんとおぼす。<br />
 +
このゆへにこの清浄荘厳功徳をおこしたまへり。成就といふは、いふこゝろは、これ清浄にして破壊すべからず、汙染すべからず。三界はこれ汙染の相、これ破壊の相なるがごとくにはあらざるなり」といへり。このなかに虚偽といふは転倒の義なり、すなはち无常を常とおもひ、不浄を浄と執し、苦を楽と計するこゝろなり。これに无我を我とおもへるこゝろをくはへて四倒といふなり。輪転といふは、涅槃の常住をえざれば六道に経歴するなり。无窮といふは、その輪転の一世にあらず二世にあらず、はじめもなくはてもなきことをあらはすなり。<br />
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『摩訶止観』(巻一上)に「善悪輪環す」といへるを、『弘決』(止観輔行巻一之三)にこれを釈すとして、「善は非想に通じ悪は无間にきはまる、のぼりてまたし
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<span id="P--371"></span>
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づむ、かるがゆへになづけて輪とす。はじめもなくきはもなし、これをたとふるに環のごとし」といへる、これそのこゝろなり。三輪ことなれども、すべてこれをいふに大苦にあらずといふことなし。この大苦を対治して畢竟安楽大清浄処をえせしめたまふなり。世すでに末世なり、これを利益するはことに弥陀の本願なり、機また下機なり、これを引入するは浄土の一門なり。時をはかりて行じ、分をかへりみて修すベし。<br />
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<br />
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なかんづくに女人の出離はことにこの教の肝心なり、もし无漏の智水をほどこさずばいかでか五障の垢塵をすゝぐことあらん。もし名号の梵風をあふがずばなんぞ三悪の猛火をけすべきや。第十八の願に「十方衆生」といへる、ひろく男女にわたるといヘども、別して女人往生の願をおこしたまへるは、ことに諸佛の済度にもれたる重障をあはれみ、十方の浄土にきらはれたる極悪をたすけんとなり。これによて『観経』の発起をたづぬるに、韋提の厭苦よりいでゝ定散随佗の二善をとくといヘども、つゐに弘願随自の一門をあらはしゝかば、夫人たちまちに大悟无生の益をえ、侍女おなじく阿耨菩提の心をおこしゝよりこのかた、三従を具せりといへども三明を証せんことかたからず、女身をうけたりといへども佛身をえんことをしる。も
 +
<span id="P--372"></span>
 +
ともそのあとををひてねがふべし、たれかその益をきゝてもとめざらんや。<br />
 +
ほのかにきく、日本正治二年庚申四月十二日、大内羅城門のあとにして、農夫田のなかよりおほきなる石をほりいだすことありけり。たかさ六尺、ひろさ四尺、うへに文字あり。<br />
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奇異のことなるによりて東寺より奏聞しければ、勅使をたてられ、文士をえらばれてこれをみせらるゝに、その字古文なるが、つちのそこにありてそこばくの年序をへぬれば、点画たしかならざるによりて、たやすくよむひとなし。そのとき月輪の禅定殿下の教命として黒谷の聖人かのところにむかひ、その字を御覧ぜられてこれをよみたまひけり。その文字には、「前代所伝者、聖道上人之教、我朝未弘者、此宗旨也。<br />
 +
大同二年仲春十九日執筆嵯峨帝国母」といふ三十六字なり。聖人のたまひけるは、大同のころほひ浄教いまだきたらず、さきよりつたはれる聖道の教に対してこの宗旨といへるは浄土の法門なり。国母といへるは在世の韋提の再誕なりと料簡したまひければ、叡感ことにはなはだしくて、すなはち聖人のうつされたる本を平等院の宝蔵におさめられけるとなん。聖人の出世にあたりて権化の未来記をえたる、時機の純熟、宗旨の恢弘、もともたふとむべし。平城天皇の御宇大同二年丁亥より、土御<br />
 +
門院の御宇正治二年庚申にいたるまで三百九十四年ををくり、その翌年建仁元歳
 +
<span id="P--373"></span>
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辛酉より、いま今上聖暦永和五年己未にいたるまで百七十九年をへたり。大同のむかしよりいまゝでは、あはせて五百七十三年にあたる。年紀渺焉のすゑにあたりて利物偏増のときにあへり、宿縁のをふところ慶喜もともふかし。さてもかの聖人の禅房に、ことのやうけだかくしかるべき貴女とおぼしき人ののぞみたまひけるが、乗御のよそほひもみえず来入の儀もさだかならで、のどかに対面をとげねんごろに法門の沙汰ありければ、勢観上人あやしくおもはれけるに、かへりたまふときは乗車なりければ、ひそかにあとををいてみらるゝに、賀茂の河原のほとりにてにはかにみうしなひたてまつられければ、いとゞ奇特のおもひをなし、いぶかしさのあまりに、事の子細を聖人に啓せられけるに、それこそ韋提希夫人よ、賀茂の大明神にてましますなりとこたへたまひけり。かの大明神の御本地をば、ひとたやすくしらず、たとひしれる人も左右なくまふさぬことにてはんべるとかや。いま聖人ののたまふところも、いづれの佛・菩薩とはおほせられねば、当社の故実をばわすれたまふにはあらで、しかも韋提の垂迹としり、あまさへまのあたり神体を拝したまひけるは、大権のいたりいよいよ信敬するにたれり。しかれば夫人のあとをまもりて住生をねがはんひと、和光の冥助にもあづかり、聖人のをしへをあふぎて安養をも
 +
<span id="P--374"></span>
 +
とめんともがら、出離の直道にむかひて女人も悪人もともに救済をかうぶり、自証も利佗もすみやかに円満せん。これしかしながら弥陀招喚の願力、釈尊発遣の大慈、かねてはまた歴代明師の遺恩、列祖聖人の余徳なり。あふぐべし、信ずべし。<br />
 +
<br />
 +
:右就浄教大綱、書与法語一句哉之由、依得契縁禅尼之請書之。本来无智之上、近曾廃学之間、屡雖令固辞、偏難避懇望之故也。不及深思、不能再案、只任浮心即記<br />
 +
 苟以遂志為詮、叵謂肝要之文言。亦耻臂折之書役。堅可禁外見、旁為顧後謗而 已。<br />
  
==巻上==
+
 文和五歳[丙申]三月四日<br />
<span id="P--3"></span>
+
              釈 存 覚[六十七歳]<br />
 +
 永和五歳[己未]二月廿二日書写之<br />
 +
              執筆桑門善如判<br />
  
 +
<!-- 1.17.2011--><br />
  
   {{kana|仏説無量寿経|ぶっせつむりょうじゅきょう}} 巻上
 
 
                      [[曹魏]][[天竺]][[三蔵]][[康僧鎧]]訳
 
 
==序分==
 
===証信序===
 
====六事成就====
 
<span id="no1"></span>
 
[[現代語 無量寿経 (巻上)#A--1|【1】]]
 
 われ聞きたてまつりき、かくのごとく。ひととき、仏、[[王舎城]][[耆闍崛山]]のうちに住したまひき。[[大比丘の衆]]、万二千人と倶なりき。一切は大聖にして、神通すでに達せり。
 
 
その名をば、尊者了本際・尊者正願・尊者正語・尊者大号・尊者仁賢・尊者離垢・尊者名聞・尊者善実・尊者具足・尊者牛王・尊者[[優楼頻蠃迦葉]]・尊者[[伽耶迦葉]]・尊者[[那提迦葉]]・尊者[[摩訶迦葉]]・尊者[[舎利弗]]・尊者[[大目犍連]]・尊者劫賓那・尊者大住・尊者大浄志・尊者摩訶周那・尊者満願子・尊者離障・尊者流灌・尊者堅伏・尊者面王・尊者異乗・尊者仁性・尊者嘉楽・尊者善来・尊者羅云・尊者阿難といひき。みなこれらのごとき[[上首]]たるものなり。
 
 
 また大乗のもろもろの菩薩と{{kana|倶|とも}}なりき。普賢菩薩・[[妙徳菩薩]]・慈氏菩薩(弥勒)等の、この[[賢劫]]のなかの一切の菩薩、また賢護等の十六[[正士]]、善思議菩<span id="P--4"></span>薩・信慧菩薩・空無菩薩・神通華菩薩・光英菩薩・慧上菩薩・智幢菩薩・寂根菩薩・願慧菩薩・香象菩薩・宝英菩薩・中住菩薩・制行菩薩・解脱菩薩なり。
 
 
====八相化儀====
 
<span id="no2"></span>
 
[[現代語 無量寿経 (巻上)#A--2|【2】]]
 
 みな[[普賢大士の徳に遵へり]]。もろもろの菩薩の無量の[[行願]]を具し、一切功徳の法に安住す。十方に遊歩して権方便を行じ、[[仏法蔵]]に入りて彼岸を究竟し、無量の世界において[[等覚]]を成ずることを現じたまふ。
 
 
兜率天に処して正法を弘宣し、かの天宮を捨てて[[神]]を母胎に降す。右脇より生じて七歩を行くことを現ず。光明は顕耀にして、あまねく十方を照らし、無量の仏土は、[[六種に震動]]す。声を挙げてみづから称ふ、「われまさに世において無上尊となるべし」と。[[釈梵|釈・梵]]は奉侍し、天・人は帰仰す。算計・文芸・射御を示現して、博く道術を綜ひ、群籍を貫練したまふ。後園に遊びて武を講じ芸を試みる。宮中[[色味]]のあひだに処することを現じ、老・病・死を見て世の[[非常]]を悟る。
 
 
国と財と位を棄てて山に入りて道を学す。服乗の白馬・宝冠・瓔珞、これを遣はして還さしむ。珍妙の衣を捨てて法服を着し、鬚髪を剃除し、樹下に端坐し、勤苦すること六年、行、所応のごとくまします。五濁の[[刹]]に現じて群生に随順す。塵垢ありと示して[[金流]]に沐浴す。天は樹の枝を按へて池より攀ぢ出づることを得<span id="P--5"></span>しむ。[[霊禽]]は、[[翼従]]して道場に往詣す。[[吉祥]]、[[感徴]]して[[功祚]]を表章す。哀れんで施草を受けて仏樹の下に敷き、[[跏趺して坐す]]。
 
 
大光明を奮つて、魔をしてこれを知らしむ。魔、[[官属]]を率ゐて、来りて逼め試みる。制するに智力をもつてして、みな降伏せしむ。微妙の法を得て最正覚を成る。
 
 
釈・梵、祈勧して[[転法輪]]を請ず。〔成道せられし菩薩は〕仏の遊歩をもつてし、仏の吼をもつて吼す。法鼓を扣き、法螺を吹き、法剣を執り、[[法幢]]を建て、法雷を震ひ、法電を曜かし、法雨を澍ぎ、法施を演ぶ。つねに法音をもつて、もろもろの世間を覚せしむ。光明、あまねく無量の仏土を照らし、一切世界、六種に震動す。総じて魔界を摂し、魔の宮殿を動ず。衆魔、慴怖して帰伏せざるはなし。邪網を掴裂し、[[諸見]]を消滅し、もろもろの[[塵労]]を散じ、もろもろの欲塹を壊る。法城を厳護して法門を開闡す。垢汚を洗濯して清白を顕明す。仏法を光融し、正化を宣流す。国に入りて[[分衛]]して、もろもろの豊膳を獲、功徳を貯へしめ、[[福田]]を示す。
 
 
法を宣べんと欲して欣笑を現ず。もろもろの法薬をもつて三苦を救療し、[[道意]]無量の功徳を顕現す。菩薩に記を授け、[[等正覚]]を成らしむ。滅度を示現すれども、拯済すること極まりなし。[[諸漏]]を消除して、もろもろの徳本を植ゑ、功徳<span id="P--6"></span>を具足せしむること、微妙にして量りがたし。諸仏の国に遊びてあまねく[[道教]]を現ず。その修行するところ、清浄にして穢なし。たとへば幻師のもろもろの異像を現じて、男となし、女となして、変ぜざるところなく、[[本学]]明了にして意の所為にあるがごとし。このもろもろの菩薩、またまたかくのごとし。
 
 
一切の法を学して[[貫綜縷練]]す。[[所住安諦]]にして化を致さざることなし。無数の仏土にみなことごとくあまねく現ず。いまだかつて慢恣せず。衆生を愍傷す。
 
かくのごときの法、一切具足せり。菩薩の経典、要妙を究暢し、名称あまねく至りて十方を導御す。無量の諸仏、ことごとくともに護念したまふ。[[仏の所住]]には、みなすでに住することを得たり。[[大聖の所立]]は、しかもみなすでに立す。
 
 
如来の導化は、おのおのよく宣布して、もろもろの菩薩のために、しかも大師となる。甚深の[[禅慧|禅・慧]]をもつて衆人を開導す。[[諸法の性]]を通り、衆生の相に達せり。あきらかに諸国を了りて諸仏を供養したてまつる。その身を化現すること、なほ電光のごとし。よく[[無畏]]の網を学して、あきらかに[[幻化の法]]を了す。魔網を壊裂し、もろもろの[[纏縛]]を解く。声聞・縁覚の地を超越して、[[空無相無願三昧|空・無相・無願三昧]]を得たり。よく方便を立して三乗を顕示す。この[[中下]]におい<span id="P--7"></span>て、しかも滅度を現ずれども、また所作なく、また所有なし。不起・不滅にして平等の法を得たり。無量の総持、百千の三昧を具足し成就す。[[諸根智慧]]、[[広普寂定]]にして、深く菩薩の法蔵に入り、[[仏華厳三昧]]を得て一切の経典を宣暢し演説す。
 
 
深定門に住して、ことごとく現在の無量の諸仏を覩たてまつること、一念のあひだに周遍せざることなし。もろもろの[[劇難]]と、もろもろの[[閑と不閑と]]を済ひて、真実の際を分別し顕示す。もろもろの如来の[[弁才の智]]を得、もろもろの言音を入りて一切を開化す。世間のもろもろの[[所有の法]]に超過して、心つねにあきらかに度世の道に住す。一切の万物において、しかも随意自在なり。もろもろの[[庶類]]のために[[不請の友]]となる。群生を荷負してこれを重担とす。如来の甚深の法蔵を受持し、[[仏種性]]を護りて、つねに絶えざらしむ。
 
 
大悲を興して衆生を愍れみ、慈弁を演べ、法眼を授く。三趣を杜ぎ、善門を開く。不請の法をもつてもろもろの[[黎庶]]に施すこと、純孝の子の父母を愛敬するがごとし。もろもろの衆生において視そなはすこと、自己のごとし。
 
 
一切の善本みな彼岸に度す。ことごとく諸仏の無量の功徳を獲。智慧聖明なること不可思議なり。かくのごときらの菩薩大士、称計すべからず、一時に来会す。<span id="P--8"></span>
 
 
===発起序===
 
====五徳瑞現====
 
=====出世本懐=====
 
<span id="no3"></span>
 
[[現代語 無量寿経 (巻上)#A--3|【3】]]
 
 そのときに世尊、[[諸根悦予]]し、姿色清浄にして[[光顔巍々]]とまします。
 
 
尊者阿難、仏の聖旨を承けてすなはち座より起ちて、[[ひとへに]]右の肩を袒ぎ、長跪合掌して、仏にまうしてまうさく、
 
<div id="Inmon">
 
{{TI|教巻(3)}}
 
「今日世尊、諸根悦予し、姿色清浄にして光顔巍々とましますこと、[[明浄なる鏡]]の影、表裏に暢るがごとし。威容顕曜にして超絶したまへること無量なり。いまだかつて[[瞻覩]]せず、殊妙なること今のごとくましますをば。
 
 
[[ややしかなり|やや、しかなり]]。大聖、われ心に念言すらく、今日世尊、[[奇特の法]]に住したまへり。今日[[世雄]]、[[仏の所住]]に住したまへり。今日世眼、[[導師の行]]に住したまへり。今日世英、[[最勝の道]]に住したまへり。今日天尊、[[如来の徳]]を行じたまへり。去・来・現の仏、仏と仏とあひ念じたまふ。いまの仏も諸仏を念じたまふことなきことを得んや。なにがゆゑぞ、威神光々たることいまし、しかるや」と。
 
 
ここに世尊、阿難に告げてのたまはく、「いかんぞ阿難、諸天のなんぢを教へて仏に来し問はしむるか。みづから[[慧見]]をもつて威顔を問へるか」と。阿難、仏にまうさく、「諸天の来りてわれを教ふるものあることなし。みづから所見をもつてこの義を問ひたてまつるのみ」と。
 
 
仏のたまはく、「善いかな阿難、問へるところはなはだ快し。深き智慧、真妙の<span id="P--9"></span>弁才を発し、衆生を愍念せんとしてこの[[慧義]]を問へり。如来、[[無蓋の大悲]]をもつて三界を矜哀したまふ。世に出興するゆゑは、[[道教を光闡して]]群萌を拯ひ、恵むに'''[[真実の利]]'''をもつてせんと欲してなり。無量億劫にも値ひがたく見たてまつりがたきこと、なほ[[霊瑞華]]の、時ありて、時にいまし出づるがごとし。
 
 
いま問へるところは、[[饒益]]するところ多し。一切の諸天・人民を開化す。阿難、まさに知るべし。如来の正覚は、その智量りがたくして、〔衆生を〕導御するところ多し。[[慧見無碍]]にして、よく[[遏絶]]することなし。<br />
 
</div>
 
[[一餐]]の力をもつて、よく寿命を住めたまふこと、億百千劫無数無量にして、またこれよりも過ぎたまへり。
 
 
諸根悦予してもつて毀損せず。姿色変ぜず、光顔異なることなし。ゆゑはいかん。如来は、[[定と慧]]と究暢したまへること極まりなし。一切の法において自在を得たまへり。阿難、あきらかに聴け、いまなんぢがために説かん」と。対へてまうさく、「やや、しかなり。願楽して聞きたてまつらんと欲ふ」と。
 
 
==正宗分==
 
===法蔵発願===
 
====五三仏====
 
<span id="no4"></span>
 
[[現代語 無量寿経 (巻上)#A--4|【4】]]
 
 仏、阿難に告げたまはく、「[[乃往]]過去久遠無量不可思議[[無央数]]劫に、[[錠光如来]]、世に興出して無量の衆生を教化し[[度脱]]して、みな道を得しめてすなはち滅度を取りたまひき。
 
 
次に如来ましましき、名をば光遠といふ。次をば月光<span id="P--10"></span>と名づく。次をば栴檀香と名づく。次をば善山王と名づく。次をば須弥天冠と名づく。次をば須弥等曜と名づく。次をば月色と名づく。次をば正念と名づく。次をば離垢と名づく。次をば無著と名づく。次をば龍天と名づく。次をば夜光と名づく。次をば安明頂と名づく。次をば不動地と名づく。次をば瑠璃妙華と名づく。次をば瑠璃金色と名づく。次をば金蔵と名づく。次をば焔光と名づく。次をば焔根と名づく。次をば地動と名づく。次をば月像と名づく。次をば日音と名づく。次をば解脱華と名づく。次をば荘厳光明と名づく。次をば海覚神通と名づく。次をば水光と名づく。次をば大香と名づく。次をば離塵垢と名づく。次をば捨厭意と名づく。次をば宝焔と名づく。次をば妙頂と名づく。次をば勇立と名づく。次をば功徳持慧と名づく。次をば蔽日月光と名づく。次をば日月瑠璃光と名づく。次をば無上瑠璃光と名づく。次をば最上首と名づく。次をば菩提華と名づく。次をば月明と名づく。次をば日光と名づく。次をば華色王と名づく。次をば水月光と名づく。次をば除痴瞑と名づく。次をば度蓋行と名づく。次をば浄信と名づく。次をば善宿と名づく。次をば威神と名づく。次をば法慧と名づく。次をば鸞音と名づく。次をば師子音と名づ<span id="P--11"></span>く。次をば龍音と名づく。次をば処世と名づく。かくのごときの諸仏、みなことごとくすでに過ぎたまへり。
 
 
<span id="no5"></span>
 
=====法蔵の示現=====
 
[[現代語 無量寿経 (巻上)#A--5|【5】]]
 
 そのときに、次に仏ましましき。世自在王[[如来]]・応供・等正覚・明行足・善逝・世間解・無上士・調御丈夫・天人師・仏・世尊と名づけたてまつる。
 
時に国王ありき。仏(世自在王仏)の説法を聞きて、心に悦予を懐く。すなはち[[無上正真道の意]]を発す。国を棄て王を捐てて、行じて沙門となる。号して法蔵といふ。高才勇哲にして、世と超異す。世自在王如来の所に詣でて仏足を稽首し、[[右に繞ること三帀して]]、長跪合掌して、[[頌]]をもつて讃めてまうさく、
 
 
====讃仏偈====
 
 
:〈光顔巍々として、威神極まりなし。かくのごときの[[焔明]]、ともに等しきものなし。
 
:日月・摩尼珠光の焔耀も、みなことごとく隠蔽せられて、なほ[[聚墨]]のごとし。
 
:如来の容顔は、世に超えて倫なし。正覚の大音、響き十方に流る。
 
:[[戒と聞と]]精進と三昧と智慧との威徳は、侶なくして、殊勝にして希有なり。<span id="P--12"></span>
 
:深くあきらかに、よく諸仏の法海を念じて、深きを窮め奥を尽して、その涯底を究む。
 
:[[無明と欲と怒りと]]は、世尊に永くましまさず。[[人雄獅子]]にして[[神徳]]無量なり。
 
:功勲広大にして、智慧深妙なり。光明の威相は、[[大千]]を震動す。
 
:願はくは、われ仏とならんに、[[聖法王]]に斉しく、生死を過度して、解脱せざることなからしめん。
 
:布施・[[調意]]・戒・忍・精進、かくのごときの三昧、智慧上れたりとせん。
 
:われ誓ふ、仏を得たらんに、あまねくこの願を行じて、一切の恐懼〔の衆生〕に、ために大安をなさん。
 
:たとひ仏ましまして、百千億万の無量の[[大聖]]、数恒沙のごとくならんに、一切のこれらの諸仏を供養せんよりは、道を求めて、堅正にして却かざらんにはしかじ。
 
:たとへば恒沙のごときの諸仏の世界、また計ふべからざる無数の刹土あらんに、光明ことごとく照らして、このもろもろの国に遍じ、かくのごとく<span id="P--13"></span>精進にして、威神量りがたからん。
 
:われ仏とならんに、国土をして第一ならしめん。その衆、奇妙にして道場超絶ならん。
 
:国[[泥洹]]のごとくして、しかも等しく双ぶものなからしめん。われまさに哀愍して、一切を度脱すべし。
 
:十方より来生せんもの、心悦清浄にして、すでにわが国に到らば快楽安穏ならん。
 
:幸はくは仏(世自在王仏)、[[信明]]したまへ、これわが[[真証]]なり。願を発して、かしこにして所欲を[[力精]]せん。
 
:十方の世尊、智慧無碍にまします。つねにこの尊をして、わが[[心行]]を知らしめん。
 
:たとひ身をもろもろの苦毒のうちに止くとも、わが行、精進にして、忍びてつひに悔いじ〉」と。
 
 
====思惟摂取====
 
<span id="no6"></span>
 
[[現代語 無量寿経 (巻上)#A--6|【6】]]
 
 仏、阿難に告げたまはく、「法蔵比丘、この頌を説きをはりて、仏(世自在王仏)にまうしてまうさく、〈やや、しかなり。世尊、われ[[無上正覚の心]]を<span id="P--14"></span>発せり。願はくは仏、わがために広く経法を宣べたまへ。われまさに修行して仏国を[[摂取]]して、清浄に無量の妙土を荘厳すべし。われをして世においてすみやかに正覚を成りて、もろもろの生死勤苦の本を抜かしめたまへ〉」と。
 
 
仏、阿難に語りたまはく、「ときに[[世饒王仏]]、法蔵比丘に告げたまはく、〈修行せんところのごときの荘厳の仏土、なんぢみづからまさに知るべし〉と。
 
比丘、仏にまうさく、〈この義、弘深にしてわが[[境界]]にあらず。やや、願はくは世尊、広くために[[諸仏如来の浄土の行]]を[[敷演]]したまへ。われこれを聞きをはりて、まさに説のごとく修行して、所願を成満すべし〉と。
 
そのときに世自在王仏、その高明の志願の深広なるを知ろしめして、すなはち法蔵比丘のために、しかも経を説きてのたまはく、〈たとへば大海を一人[[升量]]せんに、劫数を経歴せば、なほ底を窮めてその妙宝を得べきがごとし。人、至心に精進して道を求めて止まざることあらば、みなまさに[[剋果]]すべし。いづれの願か得ざらん〉と。ここにおいて世自在王仏、すなはちために広く二百一十億の諸仏の刹土の天人の善悪、国土の粗妙を説きて、その心願に応じてことごとく現じてこれを与へたまふ。
 
 
ときにかの比丘、仏の所説を聞きて、[[厳浄]]の国土みなことごとく[[覩見]]し<span id="P--15"></span>て<span id="Inmon">{{TI|信巻(74)}}[[無上殊勝の願]]を超発せり</span>。その心寂静にして志、所着なし。一切の世間によく及ぶものなけん。五劫を具足し、思惟して荘厳仏国の清浄の行を摂取す」と。
 
阿難、仏にまうさく、「かの仏国土の〔世自在王仏の〕寿量いくばくぞや」と。
 
仏のたまはく、「その仏の寿命は四十二劫なりき。ときに法蔵比丘、二百一十億の諸仏の妙土の清浄の行を摂取しき。かくのごとく修しをはりて、かの仏の所に詣でて、稽首し足を礼して、仏を繞ること三匝して、合掌して住して、仏にまうしてまうさく、〈世尊、われすでに仏土を荘厳すべき清浄の行を摂取しつ〉と。仏、比丘に告げたまはく、〈なんぢ、いま説くべし。よろしく知るべし、[[これ時なり]]。一切の大衆を[[発起し悦可せしめよ]]。菩薩聞きをはりて、この法を修行し縁として、無量の大願を満足することを致さん〉と。
 
 
 比丘、仏にまうさく、〈やや[[聴察]]を垂れたまへ。わが所願のごとくまさにつぶさにこれを説くべし。
 
 
====四十八願の建立====
 
<span id="no7"></span>
 
[[現代語 無量寿経 (巻上)#A--7|【7】]]
 
 
[[第一願|(一)]] たとひわれ仏を得たらんに、国に地獄・餓鬼・畜生あらば、正覚を取らじ。
 
 
[[第二願|(二)]] たとひわれ仏を得たらんに、国中の人・天、寿終りてののちに、また三<span id="P--16"></span>悪道に更らば、正覚を取らじ。
 
 
[[第三願|(三)]] たとひわれ仏を得たらんに、国中の人・天、ことごとく真金色ならずは、正覚を取らじ。
 
 
[[第四願|(四)]] たとひわれ仏を得たらんに、国中の人・天、形色不同にして、好醜あらば、正覚を取らじ。
 
 
[[第五願|(五)]] たとひわれ仏を得たらんに、国中の人・天、[[宿命]]を識らずして、下、百千億那由他の諸劫の事を知らざるに至らば、正覚を取らじ。
 
 
[[第六願|(六)]] たとひわれ仏を得たらんに、国中の人・天、[[天眼]]を得ずして、下、百千億那由他の諸仏の国を見ざるに至らば、正覚を取らじ。
 
 
[[第七願|(七)]] たとひわれ仏を得たらんに、国中の人・天、[[天耳]]を得ずして、下、百千億那由他の諸仏の説くところを聞きて、ことごとく[[受持|受持]]せざるに至らば、正覚を取らじ。
 
 
[[第八願|(八)]] たとひわれ仏を得たらんに、国中の人・天、[[他心を見る智]]を得ずして、下、百千億那由他の諸仏国中の衆生の心念を知らざるに至らば、正覚を取らじ。<span id="P--17"></span>
 
 
[[第九願|(九)]] たとひわれ仏を得たらんに、国中の人・天、[[神足]]を得ずして、一念のあひだにおいて、下、百千億那由他の諸仏の国を超過することあたはざるに至らば、正覚を取らじ。
 
 
[[第十願|(十)]] たとひわれ仏を得たらんに、国中の人・天、もし想念を起して、身を[[貪計]]せば、正覚を取らじ。
 
<span id="11gan"></span>
 
=====必至滅度の願=====
 
<div  id="Inmon">{{TI|証巻(2)}}
 
[[第十一願|(十一)]] たとひわれ仏を得たらんに、国中の人・天、[[定聚|定聚]]に住し、かならず[[滅度|滅度]]に至らずは、正覚を取らじ。
 
</div>
 
<span id="12gan"></span>
 
=====光明無量の願=====
 
<div  id="Inmon">{{TI|真巻(2)}}
 
[[第十二願|(十二)]] たとひわれ仏を得たらんに、光明よく限量ありて、下、百千億那由他の諸仏の国を照らさざるに至らば、正覚を取らじ。
 
</div>
 
<span id="13gan"></span>
 
=====寿命無量の願=====
 
<div  id="Inmon">{{TI|真巻(3)}}
 
[[第十三願|(十三)]] たとひわれ仏を得たらんに、寿命よく限量ありて、下、百千億那由他劫に至らば、正覚を取らじ。
 
</div>
 
[[第十四願|(十四)]] たとひわれ仏を得たらんに、国中の声聞、よく計量ありて、[[下、三千]]大千世界の声聞・縁覚、百千劫において、ことごとくともに[[計校]]して、その数を知るに至らば、正覚を取らじ。
 
 
[[第十五願|(十五)]] たとひわれ仏を得たらんに、国中の人・天、寿命よく限量なからん。そ<span id="P--18"></span>の本願の[[修短]]自在ならんをば除く。もししからずは、正覚を取らじ。
 
 
[[第十六願|(十六)]] たとひわれ仏を得たらんに、国中の人・天、乃至[[不善の名]]ありと聞かば、正覚を取らじ。
 
<span id="17gan"></span>
 
=====諸仏称名の願=====
 
<div id="Inmon">
 
{{TI|行巻(2)}}
 
[[第十七願|(十七)]] たとひわれ仏を得たらんに、十方世界の無量の諸仏、ことごとく[[咨嗟]]して、わが名を[[称|称]]せずは、正覚を取らじ。
 
</div>
 
<span id="18gan"></span>
 
====至心信楽の願====
 
=====生仏一如の根本の誓願=====
 
<div id="Inmon">{{TI|信巻(2)}}
 
[[第十八願|(十八)]] たとひわれ仏を得たらんに、十方の衆生、[[至心信楽]]して、わが国に生ぜんと欲ひて、乃至十念せん。もし生ぜずは、正覚を取らじ。[[ただ|ただ]]五逆と[[誹謗正法]]とをば除く。
 
</div>
 
<span id="19gan"></span>
 
<div id="Inmon">{{TI|化巻(3)}}
 
[[第十九願|(十九)]] たとひわれ仏を得たらんに、十方の衆生、菩提心を発し、[[もろもろの功徳]]を修して、至心発願してわが国に生ぜんと欲せん。寿終るときに臨んで、たとひ大衆と[[囲繞]]してその人の前に現ぜずは、正覚を取らじ。
 
</div>
 
<span id="20gan"></span>
 
<div id="Inmon">{{TI|化巻(39)}}
 
[[第二十願|(二十)]] たとひわれ仏を得たらんに、十方の衆生、わが名号を聞きて、念をわが国に係け、[[もろもろの徳本を植ゑて]]、至心回向してわが国に生ぜんと欲せん。果遂せずは、正覚を取らじ。
 
</div>
 
[[第二十一願|(二十一)]] たとひわれ仏を得たらんに、国中の人・天、ことごとく[[三十二大人相]]を<span id="P--19"></span>成満せずは、正覚を取らじ。
 
<span id="22gan"></span>
 
=====還相回向の願=====
 
<div id="Inmon">{{TI|証巻(p.316)『論の註』を披くべし}}
 
[[第二十二願|(二十二)]] たとひわれ仏を得たらんに、他方仏土の諸菩薩衆、わが国に来生して、究竟してかならず一生補処に至らん。その本願の自在の所化、衆生のためのゆゑに、[[弘誓の鎧|弘誓の鎧]]を被て、徳本を積累し、一切を度脱し、諸仏の国に遊んで、菩薩の行を修し、十方の諸仏如来を供養し、恒沙無量の衆生を開化して[[無上正真の道]]真の道を立せしめんをば除く。[[常倫に]]超出し、[[諸地の行]]現前し、普賢の徳を修習せん。もししからずは、正覚を取らじ。
 
</div>
 
[[第二十三願|(二十三)]] たとひわれ仏を得たらんに、国中の菩薩、仏の[[神力]]を承けて、諸仏を供養し、[[一食のあひだ]]にあまねく無数無量那由他の諸仏の国に至ることあたはずは、正覚を取らじ。
 
 
[[第二十四願|(二十四)]] たとひわれ仏を得たらんに、国中の菩薩、諸仏の前にありて、その徳本を現じ、もろもろの欲求せんところの供養の具、もし意のごとくならずは、正覚を取らじ。
 
 
[[第二十五願|(二十五)]] たとひわれ仏を得たらんに、国中の菩薩、[[一切智]]を演説することあたはずは、正覚を取らじ。<span id="P--20"></span>
 
 
[[第二十六願|(二十六)]] たとひわれ仏を得たらんに、国中の菩薩、[[金剛那羅延の身]]を得ずは、正覚を取らじ。
 
 
[[第二十七願|(二十七)]] たとひわれ仏を得たらんに、国中の人・天、一切万物、厳浄光麗にして、形色、殊特にして窮微極妙なること、よく[[称量]]することなけん。そのもろもろの衆生、乃至天眼を[[逮得]]せん。よく明了にその名数を弁ふることあらば、正覚を取らじ。
 
 
[[第二十八願|(二十八)]] たとひわれ仏を得たらんに、国中の菩薩乃至少功徳のもの、その道場樹の無量の光色ありて、高さ四百万里なるを知見することあたはずは、正覚を取らじ。
 
 
[[第二十九願|(二十九)]] たとひわれ仏を得たらんに、国中の菩薩、もし経法を受読し諷誦持説して、[[弁才智慧|弁才智慧]]を得ずは、正覚を取らじ。
 
 
[[第三十願|(三十)]] たとひわれ仏を得たらんに、国中の菩薩、智慧弁才もし限量すべくは、正覚を取らじ。
 
 
[[第三十一願|(三十一)]] たとひわれ仏を得たらんに、国土清浄にして、みなことごとく十方一切の無量無数不可思議の諸仏世界を照見すること、なほ明鏡にその面像を覩<span id="P--21"></span>るがごとくならん。もししからずは、正覚を取らじ。
 
 
[[第三十二願|(三十二)]] たとひわれ仏を得たらんに、地より以上、虚空に至るまで、宮殿・[[楼観]]・池流・華樹・国中のあらゆる一切万物、みな無量の雑宝、百千種の香をもつてともに合成し、厳飾奇妙にしてもろもろの人・天に超えん。その香あまねく十方世界に熏じて、菩薩聞かんもの、みな仏行を修せん。もしかくのごとくならずは、正覚を取らじ。
 
======触光柔軟の願======
 
<span id="33gan"></span>
 
<div  id="Inmon">{{TI|信巻(85)}}
 
[[第三十三願|(三十三)]] たとひわれ仏を得たらんに、十方無量不可思議の諸仏世界の衆生の類、わが光明を蒙りてその身に触れんもの、[[身心柔軟]]にして人・天に超過せん。もししからずは、正覚を取らじ。
 
<span id="34gan"></span>
 
======聞名得忍の願======
 
[[第三十四願|(三十四)]] たとひわれ仏を得たらんに、十方無量不可思議の諸仏世界の衆生の類、わが名字を聞きて、菩薩の無生法忍、もろもろの[[深総持|深総持]]を得ずは、正覚を取らじ。
 
</div>
 
<span id="35gan"></span>
 
======女人往生の願(大経讃の意)======
 
[[第三十五願|(三十五)]] たとひわれ仏を得たらんに、十方無量不可思議の諸仏世界に、それ女人ありて、わが名字を聞きて、歓喜信楽し、菩提心を発して、女身を厭悪せん。寿終りてののちに、また女像とならば、正覚を取らじ。<span id="P--22"></span>
 
 
[[第三十六願|(三十六)]] たとひわれ仏を得たらんに、十方無量不可思議の諸仏世界の諸菩薩衆、わが名字を聞きて、寿終りてののちに、つねに[[梵行|梵行]]を修して仏道を成るに至らん。もししからずは、正覚を取らじ。
 
 
[[第三十七願|(三十七)]] たとひわれ仏を得たらんに、十方無量不可思議の諸仏世界の諸天・人民、わが名字を聞きて、五体を地に投げて、稽首作礼し、歓喜信楽して、菩薩の行を修せんに、諸天・世人、敬ひを致さずといふことなけん。もししからずは、正覚を取らじ。
 
 
[[第三十八願|(三十八)]] たとひわれ仏を得たらんに、国中の人・天、衣服を得んと欲はば、念に随ひてすなはち至らん。仏の所讃の[[応法の妙服|応法の妙服]]のごとく、自然に身にあらん。もし裁縫・[[擣染]]・[[浣濯]]することあらば、正覚を取らじ。
 
 
[[第三十九願|(三十九)]] たとひわれ仏を得たらんに、国中の人・天、受けんところの快楽、[[漏尽比丘]]比丘のごとくならずは、正覚を取らじ。
 
 
[[第四十願|(四十)]] たとひわれ仏を得たらんに、国中の菩薩、意に随ひて十方無量の厳浄の仏土を見んと欲はん。時に応じて願のごとく、宝樹のなかにして、みなことごとく照見せんこと、なほ明鏡にその面像を覩るがごとくならん。もししから<span id="P--23"></span>ずは、正覚を取らじ。
 
 
[[第四十一願|(四十一)]] たとひわれ仏を得たらんに、他方国土の諸菩薩衆、わが名字を聞きて、仏を得るに至るまで、[[諸根闕陋|諸根闕陋]]して具足せずは、正覚を取らじ。
 
 
[[第四十二願|(四十二)]] たとひわれ仏を得たらんに、他方国土の諸菩薩衆、わが名字を聞きて、みなことごとく[[清浄解脱三昧|清浄解脱三昧]]を逮得せん。この三昧に住して、ひとたび意を発さんあひだに、無量不可思議の諸仏世尊を供養したてまつりて[[定意|定意]]を失せじ。もししからずは、正覚を取らじ。
 
 
[[第四十三願|(四十三)]] たとひわれ仏を得たらんに、他方国土の諸菩薩衆、わが名字を聞きて、寿終りてののちに尊貴の家に生ぜん。もししからずは、正覚を取らじ。
 
 
[[第四十四願|(四十四)]] たとひわれ仏を得たらんに、他方国土の諸菩薩衆、わが名字を聞きて、歓喜踊躍して菩薩の行を修し徳本を具足せん。もししからずは、正覚を取らじ。
 
 
[[第四十五願|(四十五)]] たとひわれ仏を得たらんに、他方国土の諸菩薩衆、わが名字を聞きて、みなことごとく[[普等三昧|普等三昧]]を逮得せん。この三昧に住して成仏に至るまで、つねに無量不可思議の一切の諸仏を見たてまつらん。もししからずは、正覚を取らじ。<span id="P--24"></span>
 
 
[[第四十六願|(四十六)]] たとひわれ仏を得たらんに、国中の菩薩、その志願に随ひて、聞かんと欲はんところの法、自然に聞くことを得ん。もししからずは、正覚を取らじ。
 
 
[[第四十七願|(四十七)]] たとひわれ仏を得たらんに、他方国土の諸菩薩衆、わが名字を聞きて、すなはち不退転に至ることを得ずは、正覚を取らじ。
 
 
[[第四十八願|(四十八)]] たとひわれ仏を得たらんに、他方国土の諸菩薩衆、わが名字を聞きて、すなはち[[第一第二第三法忍|第一、第二、第三法忍]]に至ることを得ず、もろもろの仏法において、すなはち不退転を得ることあたはずは、正覚を取らじ〉」と。
 
 
<span id="no8"></span>
 
[[現代語 無量寿経 (巻上)#A--8|【8】]]
 
 仏、阿難に告げたまはく、「そのときに法蔵比丘、この願を説きをはりて、[[頌を説きていはく]]、
 
 
====重誓偈====
 
<div  id="Inmon">{{TI|信巻(75)↓}}
 
:〈われ超世の願を建つ、かならず無上道に至らん。</div>
 
:この願満足せずは、誓ひて正覚を成らじ。
 
:われ無量劫において、大施主となりて、あまねくもろもろの[[貧苦]]を済はずは、誓ひて正覚を成らじ。
 
======名声超十方======
 
<div  id="Inmon">{{TI|行巻(3)↓}}
 
:われ仏道を成るに至りて、{{TI|信巻(75)}}[[名声]]十方に超えん。
 
:究竟して[[聞ゆるところなくは]]、誓ひて正覚を成らじ。<span id="P--25"></span></div>
 
:離欲と[[深正念]]と、浄慧とをもつて梵行を修して、無上道を志求して、諸天人の師とならん。
 
:神力、大光を演べて、あまねく[[無際の土]]を照らし、三垢の冥を消除して、広くもろもろの厄難を済はん。
 
:かの智慧の眼を開きて、この[[昏盲の闇]]を滅し、もろもろの悪道を閉塞して、善趣の門を通達せん。
 
:功祚、成満足して、[[威曜]]十方に朗らかならん。
 
:日月、[[重暉]]を戢めて、天の光も隠れて現ぜじ。
 
<div  id="Inmon">{{TI|行巻(3)}}
 
:衆のために[[法蔵]]を開きて、広く[[功徳の宝]]を施せん。
 
:つねに大衆のなかにして、法を説きて[[獅子吼]]せん。</div>
 
:一切の仏を供養したてまつりて、もろもろの徳本を具足し、願と慧ことごとく成満して、三界の雄たることを得ん。
 
:仏(世自在王仏)の無碍智のごとく、通達して照らさざることなけん。
 
:願はくはわが功慧の力、この最勝尊(世自在王仏)に等しからん。
 
:この願もし剋果せば、大千まさに感動すべし。<span id="P--26"></span>
 
:虚空の諸天人、まさに珍妙の華を雨らすべし〉」と。
 
 
===法蔵修行===
 
<span id="no9"></span>
 
[[現代語 無量寿経 (巻上)#A--9|【9】]]
 
 仏、阿難に告げたまはく、「法蔵比丘、この頌を説きをはるに、時に応じてあまねく地、六種に震動す。天より妙華を雨らして、もつてその上に散ず。
 
自然の音楽、空中に讃めていはく、〈決定してかならず無上正覚を成るべし〉と。ここに法蔵比丘、かくのごときの大願を具足し修満して、[[誠諦]]にして虚しからず。世間に超出して深く寂滅を楽ふ。阿難、ときにかの比丘、その仏の所、諸天・魔・梵・竜神八部・大衆のなかにして、この弘誓を発す。この願を建てをはりて、一向に専志して妙土を荘厳す。所修の仏国、[[恢廓広大]]にして超勝独妙なり。
 
建立〔せられし仏国は〕常然にして、衰なく変なし。不可思議の兆載永劫において、菩薩の無量の徳行を積植して、<div id="Inmon">{{TI|信巻(22)}}
 
[[欲覚・瞋覚・害覚]]を生ぜず。[[欲想・瞋想・害想]]を起さず。[[色声香味触法]]に着せず。忍力成就して衆苦を計らず。少欲知足にして[[染・恚・痴]]なし。三昧常寂にして智慧無碍なり。[[虚偽・諂曲の心]]あることなし。[[和顔愛語]]にして、[[意を先にして承問す]]。
 
 
勇猛精進にして志願倦むことなし。もつぱら[[清白の法]]を求めて、もつて群生を恵利す。三宝を恭敬し、師長に奉事す。[[大荘厳]]をもつて衆行を具足し、<span id="P--27"></span><u>もろもろの衆生をして功徳を成就せしむ。</u></div>
 
 
[[空・無相・無願]]の法に住して[[作なく起なく]]、[[法は化のごとし]]と観じて、粗言の自害と害彼と、彼此ともに害するを遠離し、善語の自利と利人と、人我兼ねて利するを修習す。国を棄て王を捐てて財色を絶ち去け、みづから六波羅蜜を行じ、人を教へて行ぜしむ。無央数劫に功を積み徳を累ぬるに、その[[生処]]に随ひて意の所欲にあり。無量の宝蔵、自然に発応し、無数の衆生を教化し安立して、無上正真の道に住せしむ。
 
 
あるいは長者・[[居士]]・[[豪姓]]・尊貴となり、あるいは[[刹利]]国君・[[転輪聖帝]]となり、あるいは[[六欲天主]]、乃至[[梵王]]となりて、つねに四事をもつて一切の諸仏を供養し恭敬したてまつる。かくのごときの功徳、[[称説]]すべからず。口気は香潔にして、[[優鉢羅華]]のごとし。身のもろもろの毛孔より[[栴檀香]]を出す。その香は、あまねく無量の世界に熏ず。容色端正にして相好殊妙なり。その手よりつねに無尽の宝・衣服・飲食・珍妙の華香・[[繒蓋]]・[[幢幡]]、荘厳の具を出す。かくのごときらの事もろもろの天人に超えたり。一切の法において自在を得たりき」と。
 
 
====弥陀果徳====
 
=====十劫成道=====
 
<span id="no10"></span>
 
[[現代語 無量寿経 (巻上)#A--10|【10】]]
 
 阿難、仏にまうさく、「法蔵菩薩、すでに成仏して滅度を取りたまへりとやせん、いまだ成仏したまはずとやせん、いま現にましますとやせん」と。<span id="P--28"></span>
 
 
仏、阿難に告げたまはく、「法蔵菩薩、いますでに成仏して、現に西方にまします。[[ここ]]を去ること十万億刹なり。その仏の世界をば名づけて安楽といふ」と。
 
阿難、また問ひたてまつる、「その仏、成道したまひしよりこのかた、いくばくの時を経たまへりとやせん」と。
 
仏のたまはく、「成仏よりこのかた、おほよそ十劫を歴たまへり。その仏国土は、自然の七宝、金・銀・瑠璃・珊瑚・琥珀・硨磲・碼碯合成して地とせり。[[恢廓曠蕩]]にして限極すべからず。ことごとくあひ[[雑廁]]し、うたたあひ[[入間]]せり。[[光赫焜耀]]にして微妙奇麗なり。清浄に荘厳して十方一切の世界に超踰せり。衆宝のなかの精なり。その宝、なほ[[第六天]]の宝のごとし。
 
またその国土には、須弥山および[[金剛鉄囲]]、一切の諸山なし。また大海・小海・[[谿渠・井谷]]なし。仏神力のゆゑに、見んと欲へばすなはち現ず。また地獄・餓鬼・畜生、[[諸難]]の趣なし。また四時の春・秋・冬・夏なし。寒からず、熱からず。つねに和らかにして[[調適]]なり」と。
 
そのときに阿難、仏にまうしてまうさく、「世尊、もしかの国土に須弥山なくは、その四天王および忉利天、なにによりてか住する」と。
 
仏、阿難に語りたまはく、「[[第三の焔天]]、乃至、色究竟天、みななにによりてか住する」と。阿難、仏に<span id="P--29"></span>まうさく、「行業の果報、不可思議なればなり」と。
 
 
仏、阿難に語りたまはく、「行業の果報不可思議ならば、諸仏世界もまた不可思議なり。その[[もろもろの衆生]]、功徳善力をもつて行業の地に住す。ゆゑによくしかるのみ」と。阿難、仏にまうさく、「われこの法を疑はず。ただ将来の衆生のためにその疑惑を除かんと欲するがゆゑに、この義を問ひたてまつる」と。
 
 
=====光明無量=====
 
<div id="Inmon">{{TI|真巻(4)}}
 
<span id="no11"></span>
 
[[現代語 無量寿経 (巻上)#A--11|【11】]]
 
 仏、阿難に告げたまはく、「無量寿仏の威神光明は、最尊第一なり。諸仏の光明、及ぶことあたはざるところなり。</div>あるいは仏光ありて、百仏世界あるいは千仏世界を照らす。要を取りてこれをいはば、すなはち東方恒沙の仏刹を照らす。南西北方・[[四維]]・上下もまたまたかくのごとし。あるいは仏光ありて七尺を照らし、あるいは一由旬・二・三・四・五由旬を照らす。かくのごとく[[うたた倍して]]、乃至、一仏刹土を照らす。
 
======十二光======
 
<div id="Inmon">{{TI|真巻(4-1)}}
 
このゆゑに無量寿仏をば、[[無量光仏]]・無辺光仏・無碍光仏・無対光仏・焔王光仏・清浄光仏・歓喜光仏・智慧光仏・不断光仏・難思光仏・無称光仏・超日月光仏と号す。
 
 
それ衆生ありて、この光に遇ふものは、三垢消滅し、身意[[柔軟]]なり。歓喜踊躍して善心生ず。もし三塗の勤苦の処にありて、この光明を見たてまつれば、みな休息を得てまた<span id="P--30"></span>苦悩なし。寿終りてののちに、みな解脱を蒙る。
 
無量寿仏の光明は[[顕赫]]にして、十方諸仏の国土を[[照耀]]したまふに、[[聞え]]ざることなし。
 
ただ、われのみいまその光明を称するにあらず。一切の諸仏・声聞・縁覚・もろもろの菩薩衆、ことごとくともに歎誉すること、またまたかくのごとし。もし衆生ありて、その光明の威神功徳を聞きて、日夜に称説して至心不断なれば、意の所願に随ひて、その国に生ずることを得て、もろもろの菩薩・声聞・大衆のために、ともに歎誉してその功徳を称せられん。それしかうしてのち、仏道を得るときに至りて、あまねく十方の諸仏・菩薩のために、その光明を歎められんこと、またいまのごとくならん」と。
 
仏のたまはく、「われ、無量寿仏の光明の威神、[[巍々殊妙]]なるを説かんに、昼夜一劫すとも、なほいまだ尽すことあたはじ」と。
 
 
=====寿命無量=====
 
<span id="no12"></span>
 
[[現代語 無量寿経 (巻上)#A--12|【12】]]
 
 仏、阿難に語りたまはく、「無量寿仏は寿命長久にして[[称計]]すべからず。なんぢむしろ知れりや。たとひ十方世界の無量の衆生、みな人身を得て、ことごとく声聞・縁覚を成就せしめて、すべてともに集会し、[[禅思一心に]]その智力を竭して、百千万劫においてことごとくともに推算してその寿命の長遠の数を計らんに、窮尽してその限極を知ることあたはじ。
 
</div>
 
声聞・菩薩・天・人の<span id="P--31"></span>衆の寿命の長短も、またまたかくのごとし。算数譬喩のよく知るところにあらざるなり。
 
 
また声聞・菩薩、その数量りがたし。称説すべからず。[[神智洞達]]して、威力自在なり。よく掌のうちにおいて、一切世界を持せり」と。
 
 
=====聖衆無量=====
 
<span id="no13"></span>
 
[[現代語 無量寿経 (巻上)#A--13|【13】]]
 
 仏、阿難に語りたまはく、「かの仏の[[初会]]の声聞衆の数、称計すべからず。菩薩もまたしかなり。いまの大目犍連のごとき、百千万億無量無数にして、阿僧祇那由他劫において、乃至滅度までことごとくともに計校すとも、多少の数を究了することあたはじ。
 
たとへば大海の深広にして無量なるを、たとひ人ありて、その一毛を析きてもつて百分となして、一分の毛をもつて[[一渧]]を[[沾取]]せんがごとし。意においていかん、その渧るところのものは、かの大海においていづれをか多しとする」と。阿難、仏にまうさく、「かの渧るところの水を大海に比するに、多少の量、[[巧暦]]・算数・言辞・譬類のよく知るところにあらざるなり」と。
 
仏、阿難に語りたまはく、「目連等のごとき、百千万億那由他劫において、かの初会の声聞・菩薩を計へて、知らんところの数はなほ一渧のごとし。その知らざるところは大海の水のごとし。
 
 
=====宝樹荘厳=====
 
<span id="no14"></span>
 
[[現代語 無量寿経 (巻上)#A--14|【14】]]
 
 また、その国土に七宝のもろもろの樹、世界に周満せり。金樹・銀樹・<span id="P--32"></span>瑠璃樹・玻瓈樹・珊瑚樹・碼碯樹・硨磲樹なり。あるいは二宝・三宝、乃至、七宝、うたたともに合成せるあり。あるいは金樹に銀の葉・華・果なるあり。あるいは銀樹に金の葉・華・果なるあり。あるいは瑠璃樹に玻瓈を葉とす、華・果またしかなり。あるいは[[水精樹]]に瑠璃を葉とす、華・果またしかなり。あるいは珊瑚樹に碼碯を葉とす、華・果またしかなり。あるいは碼碯樹に瑠璃を葉とす、華・果またしかなり。あるいは硨磲樹に衆宝を葉とす、華・果またしかなり。
 
 
あるいは宝樹あり、[[紫金]]を[[本]]とし、白銀を[[茎]]とし、瑠璃を枝とし、水精を条とし、珊瑚を葉とし、碼碯を華とし、硨磲を実とす。あるいは宝樹あり、白銀を本とし、瑠璃を茎とし、水精を枝とし、珊瑚を条とし、碼碯を葉とし、硨磲を華とし、紫金を実とす。あるいは宝樹あり、瑠璃を本とし、水精を茎とし、珊瑚を枝とし、碼碯を条とし、硨磲を葉とし、紫金を華とし、白銀を実とす。あるいは宝樹あり、水精を本とし、珊瑚を茎とし、碼碯を枝とし、硨磲を条とし、紫金を葉とし、白銀を華とし、瑠璃を実とす。あるいは宝樹あり、珊瑚を本とし、碼碯を茎とし、硨磲を枝とし、紫金を条とし、白銀を葉とし、瑠璃を華とし、水精を実とす。あるいは宝樹あり、碼碯を本とし、硨磲を茎と<span id="P--33"></span>し、紫金を枝とし、白銀を条とし、瑠璃を葉とし、水精を華とし、珊瑚を実とす。
 
 
あるいは宝樹あり、硨磲を本とし、紫金を茎とし、白銀を枝とし、瑠璃を条とし、水精を葉とし、珊瑚を華とし、碼碯を実とす。このもろもろの宝樹、[[行々]]あひ値ひ、茎々あひ望み、枝々あひ準ひ、葉々あひ向かひ、華々あひ順ひ、実々あひ当れり。栄色の光耀たること、[[勝げて視るべからず]]。清風、ときに発りて[[五つの音声]]を出す。微妙にして宮・商、自然にあひ和す。
 
 
=====道場楽音荘厳=====
 
<span id="no15"></span>
 
<div id="Inmon">{{TI|化巻(6)↓}}
 
[[現代語 無量寿経 (巻上)#A--15|【15】]]
 
 また、無量寿仏のその道場樹は、高さ四百万里、その本の周囲五十由旬なり。枝葉四に布けること二十万里なり。一切の衆宝自然に合成せり。[[月光摩尼]]尼・[[持海輪宝]]の衆宝の王たるをもつて、これを荘厳せり。
 
</div>
 
条のあひだに[[周匝]]して、宝の瓔珞を垂れたり。百千万色にして種々に異変す。無量の光焔、照耀極まりなし。珍妙の宝網、その上に[[羅覆]]せり。一切の荘厳、応に随ひて現ず。
 
 
微風[[やうやく]]動きてもろもろの枝葉を吹くに、無量の妙法の音声を演出す。その声流布して諸仏の国に遍ず。その音を聞くものは、[[深法忍]]を得て不退転に住す。仏道を成るに至るまで、耳根清徹にして苦患に遭はず。目にその色を覩、耳にその音を聞き、鼻にその香を知り、舌にその味はひを嘗め、身にその光を<span id="P--34"></span>触れ、心に法をもつて[[縁ずる]]に、一切みな甚深の法忍を得て不退転に住す。
 
仏道を成るに至るまで、六根は清徹にしてもろもろの悩患なし。
 
<div id="Inmon">{{TI|化巻(6)↓}}
 
阿難、もしかの国の人・天、この樹を見るものは三法忍を得。一つには音響忍、二つには柔順忍、三つには無生法忍なり。これみな無量寿仏の威神力のゆゑに、本願力のゆゑに、満足願のゆゑに、明了願のゆゑに、堅固願のゆゑに、究竟願のゆゑなり」と。
 
</div>
 
仏、阿難に告げたまはく、「世間の帝王に百千の音楽あり。転輪聖王より、乃至、第六天上の[[伎楽]]の音声、[[展転して]]あひ勝れたること、千億万倍なり。第六天上の万種の楽音、無量寿国のもろもろの七宝樹の一種の音声にしかざること、千億倍なり。また自然の万種の伎楽あり。またその楽の声、法音にあらざることなし。[[清揚哀亮]]にして微妙和雅なり。十方世界の音声のなかに、もつとも第一とす。
 
 
=====講堂宝池荘厳=====
 
<span id="no16"></span>
 
<div id="Inmon">{{TI|化巻(6)}}
 
[[現代語 無量寿経 (巻上)#A--16|【16】]]
 
 また[[講堂]]・[[精舎]]・宮殿・楼観、みな七宝荘厳して自然に化成す。また真珠・[[明月摩尼]]の衆宝をもつて、もつて[[交露]]としてその上に覆蓋せり。内外左右にもろもろの浴池あり。〔大きさ〕あるいは十由旬、あるいは二十・三十、乃至、百千由旬なり。[[縦広・深浅]]、おのおのみな[[一等]]なり。八功徳水、[[湛然として盈満せり]]。<span id="P--35"></span>清浄香潔にして、味はひ甘露のごとし。
 
</div>
 
黄金の池には、底に白銀の沙あり。白銀の池には、底に黄金の沙あり。水精の池には、底に瑠璃の沙あり。瑠璃の池には、底に水精の沙あり。珊瑚の池には、底に琥珀の沙あり。琥珀の池には、底に珊瑚の沙あり。硨磲の池には、底に碼碯の沙あり。碼碯の池には、底に硨磲の沙あり。白玉の池には、底に紫金の沙あり。紫金の池には、底に白玉の沙あり。あるいは二宝・三宝・乃至七宝、うたたともに合成せり。
 
 
その池の岸の上に栴檀樹あり。華葉垂れ布きて、香気あまねく熏ず。天の優鉢羅華・[[鉢曇摩華]]・[[拘物頭華]]・分陀利華、[[雑色光茂]]にして、弥く水の上に覆へり。かの諸菩薩および声聞衆、もし宝池に入りて、意に水をして足を没さしめんと欲へば、水すなはち足を没す。膝に至らしめんと欲へば、すなはち膝に至る。腰に至らしめんと欲へば、水すなはち腰に至る。頸に至らしめんと欲へば、水すなはち頸に至る。身に灌がしめんと欲へば、自然に身に灌ぐ。還復せしめんと欲へば、水すなはち還復す。冷煖を調和するに、自然に意に随ふ。
 
 
〔水浴せば〕神を開き、体を悦ばしめて、[[心垢]]を蕩除す。〔水は〕清明澄潔にして、浄きこと形なきがごとし。〔池底の〕宝沙、[[映徹]]して、深きをも照らさざ<span id="P--36"></span>ることなし。[[微瀾]]回流してうたたあひ[[灌注す]]。[[安詳]]としてやうやく逝きて、遅からず、疾からず。波揚がりて無量なり。
 
 
自然の妙声、その[[所応]]に随ひて聞えざるものなし。あるいは仏声を聞き、あるいは法声を聞き、あるいは僧声を聞く。あるいは[[寂静]]の声、空・無我の声、大慈悲の声、波羅蜜の声、あるいは十力・[[無畏]]・[[不共法]]の声、もろもろの[[通慧]]の声、[[無所作]]の声、[[不起滅]]の声、無生忍の声、乃至、[[甘露灌頂]]、もろもろの妙法の声、かくのごときらの声、その聞くところに称ひて、歓喜すること無量なり。〔聞くひとは〕清浄・離欲・寂滅・真実の義に随順し、三宝・〔十〕力・無所畏・不共の法に随順し、通慧・菩薩と声聞の所行の道に随順す。三塗苦難の名あることなく、ただ自然快楽の音のみあり。このゆゑに、その国を名づけて安楽といふ。
 
 
=====眷属荘厳=====
 
<span id="no17"></span>
 
[[現代語 無量寿経 (巻上)#A--17|【17】]]
 
 阿難、かの仏国土にもろもろの往生するものは、かくのごときの清浄の色身、もろもろの妙音声、神通功徳を具足す。処するところの宮殿・衣服・飲食・衆妙華香・荘厳の具は、なほ第六天の自然の物のごとし。もし食せんと欲ふときは、七宝の[[鉢器]]、自然に前にあり。金・銀・瑠璃・硨磲・碼碯・珊瑚・琥珀・明月真珠、かくのごときの諸鉢、意に随ひて至る。[[百味の飲食]]、自<span id="P--37"></span>然に盈満す。この食ありといへども、実に食するものなし。ただ色を見、香を聞ぐに、意に食をなすと以へり。自然に[[飽足]]して身心柔軟なり。[[味着]]するところなし。事已れば化して去り、時至ればまた現ず。
 
<div id="Inmon">{{TI|証巻(5)}}
 
かの仏国土は、清浄安穏にして微妙快楽なり。無為泥洹の道に次し。そのもろもろの声聞・菩薩・天・人は、智慧高明にして神通洞達せり。ことごとく同じく一類にして、形に異状なし。[[ただ余方に…|ただ余方に]]因順するがゆゑに、天人の名あり。
 
顔貌端正にして超世希有なり。容色微妙にして、天にあらず、人にあらず。みな[[自然虚無の身無極の体|自然虚無の身、無極の体]]を受けたり」と。
 
</div>
 
<span id="no18"></span>
 
[[現代語 無量寿経 (巻上)#A--18|【18】]]
 
 仏、阿難に告げたまはく、「[[たとへば]]世間の貧窮・乞人、帝王の辺にあらんがごとし。形貌・容状、むしろ類すべけんや」と。阿難、仏にまうさく、「たとひこの人、帝王の辺にあらんに、[[羸陋醜悪]]にして、もつて喩へとすることなきこと、百千万億[[不可計倍]]なり。しかるゆゑは、貧窮・乞人は、[[底極廝下]]にして、衣形を蔽さず。食趣かに命を支ふ。飢寒困苦して[[人理ほとほと]]尽きなんとす。みな前世に徳本を植ゑず、財を積みて施さず、富有にしてますます慳しみ、ただいたづらに得んと欲ひて、貪求して厭ふことなく、[[あへて善を修せず]]<span id="P--38"></span>ず、
 
悪を犯すこと山のごとくに積もるによりてなり。かくのごとくして、寿終りて、財宝消散す。身を苦しめ、[[聚積]]してこれがために憂悩すれども、おのれにおいて益なし。いたづらに[[他の有]]となる。善として怙むべきなし、徳として恃むべきなし。このゆゑに、死して悪趣に堕してこの長苦を受く。罪畢り出づることを得て、生れて下賤となり、[[愚鄙廝極]]にして[[人類に示同す]]。世間の帝王、人中に独尊なるゆゑは、みな[[宿世]]に徳を積めるによりて致すところなり。
 
 
慈恵博く施し、仁愛兼ねて済ふ。信を履み善を修して、[[違諍]]するところなし。ここをもつて、寿終れば、福応じて善道に昇ることを得、天上に上生してこの福楽を享く。[[積善の余慶]]に、いま人となることを得て、たまたま王家に生れて、自然に尊貴なり。[[儀容]]端正にして衆の敬事するところなり。妙衣・珍饍、心に随ひて[[服御]]す。[[宿福]]の追ふところなるがゆゑに、よくこれを致す」と。
 
 
<span id="no19"></span>
 
[[現代語 無量寿経 (巻上)#A--19|【19】]]
 
 仏、阿難に告げたまはく、「なんぢが言是なり。たとひ帝王のごとき、人中の尊貴にして形色端正なりといへども、これを転輪聖王に比ぶるに、はなはだ[[鄙陋]]なりとす。なほかの乞人の帝王の辺にあらんがごときなり。転輪聖王は、威相殊妙にして天下第一なれども、これを[[忉利天王]]に比ぶるに、また醜<span id="P--39"></span>悪にしてあひ喩ふるを得ざること万億倍なり。
 
たとひ天帝を[[第六天王]]に比ぶるに、百千億倍あひ類せざるなり。たとひ第六天王を無量寿仏国の菩薩・声聞に比ぶるに、光顔・容色あひおよばざること百千万億不可計倍なり」と。
 
======浄土の国土荘厳======
 
<span id="no20"></span>
 
[[現代語 無量寿経 (巻上)#A--20|【20】]]
 
 仏、阿難に告げたまはく、「無量寿国の、そのもろもろの天人の衣服・飲食・華香・瓔珞・繒蓋・幢幡、微妙の音声、所居の舎宅・宮殿・楼閣は、その[[形色]]に称ひて高下大小あり。あるいは一宝・二宝、乃至、無量の衆宝、意の所欲に随ひて、念に応じてすなはち至る。また衆宝の妙衣をもつてあまねくその地に布けり。一切の天人これを践みて行く。無量の宝網、仏土に弥覆せり。みな[[金縷]]・真珠の百千の雑宝の奇妙珍異なるをもつて荘厳[[校飾]]せり。四面に周匝して、垂るるに宝鈴をもつてす。光色晃耀にして、ことごとく厳麗を極
 
む。自然の徳風やうやく起りて微動す。その風、調和にして寒からず、暑からず。温涼柔軟にして、遅からず、疾からず。もろもろの[[羅網]]およびもろもろの宝樹を吹くに、無量微妙の法音を演発し、万種温雅の徳香を流布す。
 
 
それ聞ぐことあるものは、[[塵労垢習]]、自然に起らず。風、その身に触るるに、みな快楽を得。たとへば比丘の[[滅尽三昧]]を得るがごとし。<span id="P--40"></span>
 
 
=====華光出仏=====
 
<span id="no21"></span>
 
[[現代語 無量寿経 (巻上)#A--21|【21】]]
 
 また風吹きて、華を散らして、仏土に遍満す。色の次第に随ひて雑乱せず。柔軟光沢にして[[馨香芬烈]]なり。足その上を履むに、陥み下ること四寸、足を挙げをはるに随ひて、還復することもとのごとし。華、用ゐることすでに訖れば、地すなはち開き裂け、次いでをもつて化没す。清浄にして遺りなし。その時節に随ひて、風吹いて、華を散らす。かくのごとく[[六返]]す。また衆宝の蓮華、世界に周満せり。
 
 
一々の宝華に百千億の葉あり。その華の光明に無量種の色あり。青色に青光、白色に白光あり、玄・黄・朱・紫の光色もまたしかなり。[[暐曄煥爛]]として日月よりも明曜なり。一々の華のなかより三十六百千億の光を出す。一々の光のなかより[[三十六百千億]]の仏を出す。身色紫金にして相好殊特なり。一々の諸仏、また百千の光明を放ちて、あまねく十方のために微妙の法を説きたまふ。かくのごときの諸仏、各々に無量の衆生を仏の正道に安立せしめたまふ」と。
 
 
;仏説無量寿経 巻上
 
</div>
 
 
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{{本願寺}}
 

2018年7月14日 (土) 18:38時点における版

存覚法語

高祖聖人の御選述『教行証文類』の序にいはく、「難思の弘誓は難度海を度する大船、无碍の光明ば无明の闇を破する慧日なり」と。已上

 弥陀不共の利生この一文にあらはれ、凡夫出離の用心この一句にたれりとす。いはゆる難思の弘誓といふは如来別意の弘誓、果分不可説の法門なるがゆへに、佛意の建立するところ因位の測量のをよぶべきにあらず。いはんや凡慮は分をへだてたることをあらはすことばなり。こゝをもて『大経』(巻下)には、「如来の智慧海は深広にして涯底なし、二乗はかるところにあらず、たゞ佛のみひとり明了なり」といひ、『小経』には、「六方の諸佛舌相をのべて証誠したまふに、不可思議の功徳を称讃す」とときたまへり。たゞ智願の広海の不可思議なるのみにあらず、国土の荘厳も不可思議なり。
これによりて論主(浄土論)は二十九句の荘厳をあかして依正の功徳をほむるとき、「かの佛国土の荘厳は不可思議力を成就せり」といひ、宗師(般舟讃)は念佛の行者初生の相をいふとして、「佛生人をひきゐて観看せしめたまふ、いたるところはたゞこれ不思議なり」といへり。されば若不生者の ちかひむなしからずして成じたまへる正覚なるがゆへに、正報の功徳の佛果、无漏の万徳を円満したまへるも、しかしながら我等が往生の決定することをあらはし、依報の荘厳の第一義諦妙境界の相を成就したまへるも、ひとへに無縁の大悲にむくはずといふことなし。

しかるあひだ、おこしたまふところの誓願も諸佛に超絶して鄣重根鈍の衆生をたすけ、まうけたまふところの浄土も三界に勝過して湛然寂静の妙相を感成せり。安居院の大和尚(唯信鈔意)の「この極楽世界は二百一十億の諸佛の浄土のなかに、悪をすてゝ善をとり麁をすてゝ妙をとりて、さまざまにすぐりいだせることを嘆ずるには、たとへばやなぎのえだにさくらのはなをさかせ、ふたみのうらにきよみがせきをならべたらんがごとし」といへり。をろかなるこゝろになをあくところなくあらまほしきは、かのたおやかなるえだにさきたらんはなの、春秋をわかず、ちることなくてひさしくにほひ、その名たかき浦々の月のかげをならべたらんが、よる・ひるのさかひなくて、いつもてらさんをみばやとおぼゆるは、この景色によせてかの厳飾をおもひやらんとなり。
難度海といふは生死の大海なり。凡地と聖道とのなかに、この大海をへだてゝわたることたやすからず。これにつきて三乗の法舟あり、声聞は四諦を観じてこれをわたり、縁覚は十二因縁を観じてこれをわ たり、菩薩は六波羅蜜を行じてこれをわたる。慳貪・破戒・瞋恚・懈怠・散乱・愚癡の六弊は所度の海なり、布施・持戒・忍辱・精進・禅定・智慧の六度は能度の船なり。なをくはしくこれを論ぜば、教により宗にしたがひてその修行まちまちなるべし。生滅・无生・无量・无作の四諦を観じ、五重唯識・八不中道の観門等、みなこれ流転生死の愛海をしのがんとする方便の船なり。
しかるにこれらの行をたづぬるに、もしは根性利者のなすところ、もしは大根志幹の修するところなるがゆへに、三乗の修行いづれもたてが
たきによりて、たまたまその門におもむくひとも、退縁にあひぬれば不退のくらゐにいたりがたし。いかにいはんや、とき末代にをよび人下機になりぬ、いづれの行をつとめ、いかなるふねをもとめてか、このうみをわたりてかのきしにいたるべき。
生死をはなれんこと、たとひそのこゝろざしありとも、そののぞみ達しがたし。こゝに弥陀の本願は、かの諦・縁・度の法をもこゝろにかけず、戒・定・慧の三学をも身に行ぜざるともがら、法財をば煩悩の賊にうばゝれ、佛性をば癡惑のやみにおほはれたれば、たゞ六道にめぐりて、さらに出離の方法をしらざるに、如来かゝるたぐひをたすけんがために、おこしたまへる大慈大悲の弘誓、无上殊勝の本願なれば、ひとたび帰命の誠心をいたし、わづかに六字の名号を称するに、たちどころに横超断四流の益を えて、ひそかに三界沈没の暴流をたち、つゐに速証无生身のくらゐにのぼりて、すみやかに法性常楽のさとりをひらかんこと、まことにこれ難度の海をわたる大船、難思の弘誓のきはまりなり。またく行人の功にあらず、ひとへに佛願のちからによれり。
无碍の光明といふは、すなはち『大経』にとくところの十二光佛のそのひとつなり。二六の尊号のなかに、その功能ことにすぐれたり。『阿弥陀経』には「かの佛の光明无量にして十方の国をてらすに障碍するところなし」といひ、『観経』には「念佛の衆生を摂取してすてたまはず」とときたまへるを、和尚(礼讃)この両経のこゝろによりて、かの佛の名義を釈したまふに、无所障碍の文と、摂取不捨の文とを、ひきまじへてのち、「かるがゆへに阿弥陀となづく」と結したまへり。かの光明の障碍するところなきは摂取のためなり。摂取のゆへに阿弥陀の号をえたまへば、衆生の往益はひとすぢにこの嘉号によるときこへたり。このゆへに天親菩薩も一心帰命のこゝろざしをのべたまふに、あまたの徳号のなかに、えらびて尽十方無碍光如来と礼したまへり。
おほよそ弥陀如来の利生に、无能碍者の徳あるも、この名号の功用なり。そのゆへは、衆生もろもろの邪業繋につながれて三界の牢獄にとらはれ、よろづの果縛にかゝはりて生死を解脱することあたはず、業愛癡の縄ひとをしばりてをくれば、われら いかでか獄卒の呵責をまぬかれん。業風のふくにしたがひて苦のなかにおつれば、罪人なんぞ泥梨の苦にもれん。あるひは悪口・両舌・貪・瞋・慢、八万の地獄にみな周遍すともいひ、あるひは佗人三宝のとがを論説すれば死して抜舌泥梨のなかにいるともいへり。しかるにこれらの三業の罪●は多生のあひだにもことごとくこれををかし、かくのごときの一切の惑障は今世にもみなこれを具せり。染浄の因にこたへて善悪の果をうるならば、垢障覆深の凡夫なにゝよりてか輸廻の果報をまぬかるべき。曠劫の流転もこれによれり、未来の沈淪もまたおなじかるべし。

しかりといへども佗力に帰し佛願をたのみて信心を発得し名号を称念すれば、ながく生死の苦域をはなれて无為の浄土にいたることは、しかしながら无碍光佛の利益によりて无能碍者の威力をほどこしたまふゆへなり。无明の闇の破する慧日といふは、世間の闇冥を破することは日輸にこえたるはなく、愚癡の昏迷をのぞくことは智慧にすぎたるはなし。かるがゆへにならべて法・喩をあぐることばなり。その本説をたづぬれば『大経』にいでたり。佗方の菩薩の安養に往詣して教主を供養したてまつることば(巻下)に「慧日世間をてらして生死の雲を消除す」といへる、これなり。憬興師この文を釈して(述文賛巻下)いはく、「慧日といふはたとへにしたがへたる名なり、惑と業と苦 との三は、よく真空をよび智の日月をおほふこと、すなはち雲の虚空と日月とをおほふにおなじ、かるがゆへに生死雲といふ。佛智真に達して、よく自佗の惑・業・苦のさはりをのぞく、かるがゆへに慧日といふ」と。[已上]

また宗師『観経』にとくところの佛日を解する文(序分義)には、「たとへば日いでゝ衆闇ことごとくのぞこるがごとし、佛智ひかりをかゞやかせば、无明の夜、日ほがらかなり」とのたまへり。弥陀・釈迦二尊の利益ことなるに似たれども、慧日・佛日・智光の功用准じてしりぬべし。
されば聖道門のこゝろならば、みづから智慧のひかりをかゞやかして生死のやみをのぞくべし、もし智慧のひかりなからんたぐひは、その明闇なにゝよりてかはるゝことをえん。しかるに如来利佗の慧日、衆生黒業のやみをてらしたまふゆへに、をのれがちからにて生死の罪業をのぞくことあるまじけれども、弥陀无碍の光明、一切の悪業にさへられず衆生を摂取したまふにより、愚惑の凡身をあらためずして、かならず清浄の智土に生ずるなり。略してかの序のはじめのことばを解することかくのごとし。

そもそも弥陀如来の、深重の本願をおこし殊妙の国土をまうけたまへるは、衆生をして三輪をはなれしめんがためなり。その三輪といふは、一には无常輪、二には不浄輪、三には苦輪なり、この義慈恩大師の『阿弥陀経の通賛』にみえたり。

また慧心の『往 生要集』(巻上本)に十門をたつるなかの、第一に厭離穢土の相を判ずとして、人間のいとふべきことをあかすにもこの三をあげたり。かの『集』には不浄・苦・无常とつらねたり。
一に无常輪といふは、この世のなかのさだめなくはかなきありさまなり。『大経』にこのことはりをときて、あるひは(巻下)「愛欲栄華つねにたもつべからず、みなまさに別離すべし」といひ、あるひは(巻上)「処年寿命よくいくばくもなし」といへり。
つらつらおもんみれば、輪王高貴のくらゐ七宝つゐに身にしたがふことなく、釈天宝象のあそび四苑ながくまなこにへだつる期あり。あふいで六欲・四禅をおもふに三界のうちにうらやましかるべきところなし、ふして三悪・四趣をうかゞふに六道のあひださながらみなかなしみをまぬかるべきところにあらず。人間南浮のわづかなるいのち、粟散辺国のいやしき果報、なんぞ著楽をなすべきや。不死のくすりをもとめし秦皇・漢武もむなしくさりぬ、たゞ悲風の釃山・杜陵のふもとにむせぷあり。

武勇のはかりごとに長ぜし樊噲張良も名をのみのこせり、いま遷変有為のあだをふせぐ弓箭あることをきかず。綺羅の三千もそらにおひたり、漢李・唐楊のたほやかなりしすがたも一聚のちりとなりぬ。付法蔵の賢聖もことごとくかくれぬ、有智高行の聖人もかたざらぬは无常の殺鬼なり。老少不定のさかひなれば、さかりなるひとも おほくゆく。生者必滅のことはりなれば、おひぬるひとはましてとゞまらず。鳥部山のけぶり、みねにものぼりふもとにもたつ、われもいつかそのかずにいらん。あだし野の露、あしたにもきえ、ゆふべにもおつ、たれとてもよそにやはおもふべき。
後鳥羽の禅定上皇の遠島の行宮にして宸襟をいたましめ浮生を観じましましける御くちずさみにつくらせたまひける『无常講の式』こそ、さしあたりたることはり耳ぢかにてよにあはれにきこえ侍るめれ。

その勅藻をみれば、「あるひはきのふすでにうづんで、なみだをつかのもとにのごふもの、あるひはこよひをくらんとして、わかれを棺のまへになく人あり。
おほよそはかなきものはひとの始・中・終、まぼろしのごとくなるは一期のすぐるほどなり。三界无常なり、いにしへよりいまだ万歳の人身あることをきかず、一生すぎやすし。いまにありてたれか百年の形体をたもつべきや、われやさき人やさき、けふともしらずあすともしらず、をくれさきだつひとは、もとのしづくすゑのつゆよりもしげし」といへり。
またちかごろ、智行名たかくきこゆる笠置の解脱上人のかゝれたることばも、よにやさしく肝にそみておぼゆ。そのことば(愚迷発心集)には「風葉の身たもちがたく草露のいのちきえやすし。[乃至]南隣にも哭し北里にも哭す、人ををくるなみだいまだつきず。山下にもそひ原上にもそふ、ほねをうづむ つちかはくことなし。いたましきかな、まのあたりことばをまじへし芝蘭のとも、いきとゞまりぬればとをくをくり、あはれなるかな、まさしくちぎりをむすびし断金のむつび、たましゐさりぬれば、ひとりかなしむ」といへり。かやうのことはりは目のまへにみゆれば人ごとにしりがほなれども、欲塵に著し境界にほださるゝならひなれば、凡夫としておどろかざる、まことにはかなかるべし。

しかれば『座禅三昧経』(巻上意)には、「今日この事をいとなみ明日かの事をなさん、楽著して苦を観ぜざれば死賊のいたることをさとらず、忿々として衆務をいとなめば日夜のさることをさとらず」といひ、『大般涅槃経』(北本巻二南本巻二)には、「一切のもろもろの世間に、生あるものはみな死に帰す、寿命无量なりといへどもかならずをはりつくることあり、それさかんなるものはかならずおとろふることあり、あひあふものは別離することあり」とときたまへり。
かゝる无常のかなしみは浄土にあらずばのがれがたく。この有待のすが
たは生死をはなれずばいかでかあらためん。三乗の修行みなこの无常の果報をまぬかれてかの常住の極位にいたらんとすれども、修因成ぜざれば証果むなしきに似たり。

しかるを弥陀の願力にすがりて安養の往生をとげぬれば、かの土は无為涅槃のさかひ、无衰湛然のところなるがゆへに、みづからの功行をからず、佛力の加被 によりて、ながく生死の无常輪をのがれ、真常の宝所にいたるなり。

二に不浄輪といふは、この身の汚穢にして浄潔ならざることをいふなり。これにつきて三種あり、種子不浄、自体不浄、究竟不浄なり。種子不浄といふは、この身は栴檀のたねよりも生ぜず蓮華のくきよりもいでず、中有のかたちをすて業識を胎内にやどすはじめより、その種子またくこれ不浄なり。
自体不浄といふは、三百六十のほねあつまりて身形を成じ、三万六千のちすぢながれて気命をたもつ、五臓・六府みなこれ不浄なり、涕唾・便痢ひとつとしてきよからず。たとひ海水をかたぶけてこれをあらふとも自体の不浄をばきよむべからず、たとひ沈・檀をたきてこれに薫ずとも本性の臭穢をばあらたむべからず。やなぎのまゆみどりなりといへどもその実体を観ずるに耽著すべきにあらず、はなのかほばせこまやかなりといへどもただこれ画せるかめに糞穢をいれたるがごとし。智行兼備のやんごとなき聖人達もかりのいろにめでゝ行業をむなしくすること、三国にそのためしおほし。肉身の不浄をば現量にも識知し、聖教の明文にむかふときは、一旦その道理を甘心することなきにあらざれども、无明のまよひによりてみづからの心を調伏せざること、欲界繋の煩悩の所為ちからなきことなり。五欲を貪求すること、相続してこれつねなり。
「たとひ清心をおこせども、なをし水にゑがくがごとし」(序分義)といへる。濁世の凡心は、覧愚ともに、おそらくはいたくかはらずもや侍べるらん。

 究竟不浄といふは、ふたつのまなこたちまちにとぢ、ひとつのいきながくたえぬれば、日かずをふるまゝにそのいろを変じ、次第にあひかはるに九相あり。しかれども、すなはち野外にをくりてよはのけぶりとなしはてぬるには、九相の転移をみず、たゞ白骨の相をのみみれば、たしかにそのありさまをみぬによりて、をろかなるこゝろにおどろかぬなるベし。たまたま郊原・塚間をすぐるに、おのづからその相をみるときは、一念なれども、しのびがたきものなり。紅顔そらに変じて桃李のよそほひをうしなひぬれば、たちまちに胮脹爛壊のすがたとなり、玄鬢身をはなれて荊棘のなかにまつはれぬれば、烏犬噉食のこゑのみあり。あるひは爪髪分散してこゝかしこにみてるところもあり。
あるひは手足腐敗して東西にちれるところもあり。まことにこれ不浄の究竟するところ、そもそもまた有待のしからしむるきはまりなり。もし浄刹にいたらずば、いかでかこの不浄の性をあらたむることあらんや。
三に苦輪といふは、三界・六道みなこれ苦なれども四苦・八苦はことに人間にあり、貴賤ことなりといへどもことごとくこれをそなへ、貧富おなじからざれどもこれに なやまされずといふことなし。四苦といふは生・老・病・死なり、八苦といふはこれに愛別離苦・求不得苦・怨憎会苦。五陰盛苦をくはふ。もし壮年にして世をはやくすぐる人は老苦をうけざるあり、もし富有にしてたからをもとむることなからんひとは貧苦をまぬかるゝあり、そのほかのともがらはこれらの苦をのがるべからず。これによりて光明寺の大師(序分義)は、「この五濁・五苦・八苦等は六道に通じてうく、いまだなきものあらず、つねにこれに逼悩せらる。もしこの苦をうけざるものは、すなはち凡数の摂にあらず」とのたまへり。

『倶舎論』(巻二二)のなかに凡夫の苦をうけながらみづからしらざる相を判じていへることあり、「ひとつのまつげをもてたなごゝろにをけばひとさとらず、もし眼睛のうへにをけば損をなしをよびやすからず、愚夫は手掌のごとし行苦のまつげをしらず、智者は眼睛のごとし縁じてきはめて厭怖を生ず」といへり。たゞし人天の両趣にはすこしきの楽なきにあらず、すべて地居・空居の勝報いづれもとどりなれども、ことに三十三天の快楽などはたぐひすくなくこそきこゆれ。
しかれども、たゞたのしみにのみまつはれてさらに佛道を修せず、曠劫流転よりこのかた六道経歴のあひだ、われらもさだめてかれらの生をうくる世もありけん。しかるに殊勝池ののみづ閼伽にむすばずしてむなしくすぎ、歓喜苑のはなぶ さ佛界に供することなくしていたづらにちりにしかば、かへりて下界におちていまだ輪廻をまぬかれぬこそ、うたてくはづかしけれ。人間の果報にも金輪・銀輪、飛行の至尊はまふすにおよばず、異朝・本朝、理世の聖主もまふすにあたはず、さならぬひとも、豪姓の位にむまれて身を玉楼金闕のうちにやすくし、富貴のいへにありてくらに珠玉・錦繍のたからをみてたる人、先世の福因もゆかしく当時の栄耀もうらやましかるべけれども、それもたゞ今生の豊楽にほこりて後世の資糧をこゝろにか
けずば、松樹千年のよはひもつゐにかぎりあらんとき、火車八獄のむかへ、たちまちにきたらんをばいかゞふせぐべき。こゝろをたのしましむとも、いくばくかあらん、須臾にすなはちすつるがゆへなり。楽とおもふも妄想なり、実によれば苦受なるがゆへなり。

「おほよそ三界やすきことなし、なをし火宅のごとし、衆苦充満してはなはだ怖畏すべし」(法華経巻二)と佛ときたまへば、いづれのさかひか煩悩の火宅にあらざらん、たれのともがらか生死の衆苦をうけざるべき。苦をうけながらまよひて楽とおもひ、さとらずいとはざるは愚夫のならひなれども、一分も因果のことはりをわきまへ、まして後世をねがはんたぐひ、この苦因の制しがたきことをしり、その苦果のまぬかるまじきことをおもひて、自力にてははなるまじき生死の根源をたゝんこ とは、ひとヘに佗力をもてたすけたまふ如来の恩徳なりとあふぐべきなり。

无常輪をはなるゝことは、无量寿の佛徳によりて、衆生もおなじく常住の寿命をうればなり。『阿弥陀経』に、「かの佛の寿命をよびその人民も无量无辺阿僧祇劫なり、かるがゆへに阿弥陀となづく」といへる、その義ことに甚深なり。佛の正覚は衆生の往生によりて成じ、衆生の往生は佛の正覚によりて成ずるがゆへに、機法一体にして能所不二なるいはれあれば、佛の寿命も衆生の寿命もあひおなじくして、无常をのがれ常住をうることもかはることなきなり。
このゆへに『法事讃』(巻下)には、「一念に空に乗じて佛会にいりぬれば、身色寿命ことごとくみなひとし」とほめ、『般舟讃』には、「身を常住のところに安ぜんとおもはゞ、まづ要行をもとめて真門にいれ」とをしへ、『往生礼讃』には、あるひは「无生の果をえんとおもはゞ、かの土にかならずすべからくよるべし」といひ、あるひは「浄国は衰変なし、ひとたび立して古今しかなり」といへり。

 不浄輪をさることは、阿弥陀佛をば無量清浄佛となづけたてまつり、極楽をば一乗清浄无量寿世界と号するゆへに、身土清浄にして、依報も正報も有漏の垢穢をはなれ、能化も所化もみな無漏の浄体なり。こゝをもて『大経』の説をみるに、諸佛の衆会の菩薩につげて安養の往覲をすゝめたまふことば(大経巻下)には、「法をきゝてこのんで 受行して清浄のところをえよ」とをしへ、四十八願のなかをみるにも、あるひは「一切万物厳浄光麗ならん」(大経巻上)といひ、あるひは「国土清浄にして諸佛の世界を照見せん」(大経巻上)とちかひたまへり。
このゆへに往生をうるひとは、貪瞋の惑をはなれて自然虚无の身をうけ、清白の法をきゝて離蓋清浄の報をうく。これすなはち雑生の世界には四生まちまちなりといへども、をのをの惑業の感ずるところ不浄の生元なり。かの安楽国土は雑業の所生にあらずして、同一にに念佛し、ながく胞胎をたちて如来正覚の華より化生するがゆへに、生ずるものはことごとく清浄の体をうるなり。

 苦輪をいづることは、ことに大悲の本意、これ済度の極致なり。すでに国を極楽となづけ、また安楽と号す。苦果をはなるゝこと、そらにしんぬべし。こゝをもて『大経』(巻上)には、「三途苦難の名あることなし、たゞ自然快楽のこゑのみあり」といひ、『小経』には、「もろもろのくるしみあることなし、たゞもろもろのたのしみをのみうく」とときたまへり。しかのみならず、『論』(浄土論)には荘厳无諸難功徳成就をあかして、「ながく身心の悩をはなれて楽をうくることつねに无間なり」といひ、『註』(論註巻上)にこれを釈するには、「身悩といふは飢渇・寒熱・殺害等なり、心悩といふは是非・得失・三毒等なり」といへり。

また大師処々の解釈にも、おほく受楽の義をあかして、衆生をして欣慕せしめた まへり。いはゆる『観経義』(定善義)には宝地の讃をつくりて、「西方寂无為の楽は、畢竟逍遙して有无をはなれたり」といひ、『般舟讃』には「かくのごときの逍遙快楽のところに、さらになんのことを貪してか生ずることをもとめざらん」とすゝめ、『礼讃』には、「生ぜんと願ずること、なんのこゝろにか切なる、まさしく楽の无窮なるがためなり」といへる解釈等これなり。われら愚癡の身、罪悪生死の機、苦因を断ぜざれば苦果をのがるべからず、楽因をたくはへざれば楽果をうべからず。しかるに弥陀如来、凡夫のためにかまへたまへる西方の浄土は、よこさまに五悪趣をきるがゆへに、本願の強縁によりて極楽の往生をとげぬれば、をのづから不遭苦患の利をえて、たゞ凞怡快楽の益にあづかるなり。
『往生要集』(巻上末)に十楽をたつるなかの第五に、快楽不
退楽をあかして離苦得楽の相をのべたり。その文にいはく、「かの西方世界は楽をうることきはまりなし、人天交接して、ふたつながらあひみることをう。慈悲心に薫じて、たがひに一子のごとし。ともに瑠璃の地のうへに経行し、おなじく栴檀のはやしのあひだに遊戯す。宮殿より宮殿にいたり、林池より林池にいたるに、もししづかならんとおもふときは風浪・絃管をのづからみゝのもとにへだゝり、もしみんとおもふときは山川・渓谷なをまなこのまへに現ず。香・味・触・法、念にしたがひてまたしか なり。あるひは飛梯をわたりて伎楽をなし、あるひは虚空にあがりて神通を現ず。あるひは佗方の大士にしたがひて迎送し、あるひは天人聖衆にともなひて遊覧す。
あるひは宝池のもとにいたりて新生のひとを慰問す、なんぢしるやいなや、このところをば極楽世界となづく、この界の主をば弥陀佛と号したてまつる、いままさに帰依すべし。あるひはおなじく宝池のうちにあり、をのをの蓮台のうへに坐して、たがひに宿命の事をとく[乃至]あるひはともに十方の諸佛利生の方便をかたり、あるひはともに三有の衆生抜苦の因縁を議す、議しをはりて縁ををひてあひさり、かたりをはりてねがひにしたがひてともにゆく。あるひはまた七宝のやまにのぼり、八功の池に浴して寂然宴黙し、讀誦解説す。かくのごとく遊楽すること相続してひまなし。ところはこれ不退なればながく三途八難のをそれをまぬかれ、いのちはまた无量なればつゐに生・老・病・死の苦なし。心事相應すれば愛別離の苦なく、慈眼ひとしくみれば怨憎会の苦なし。白業の報なれば求不得の苦なし、金剛の身なれば五盛陰の苦なし。ひとたび七宝のうてなに託しぬればながく三界苦輸の海をわたる」と。[已上]

いまかすかに聖教の所説をきゝてもなを渇仰のこゝろをもよほす、たゞちにみづから无為の法楽をうけん、むしろ歓喜のおもひにたへんや。

総じて三輪をはなるゝことは、如来の荘厳清浄功徳成就のゆへなり。その功徳といふは、『論』(浄土論)に「かの世界の相を観ずるに三界の道に勝過せり」といへる、これなり。
『註』(論註巻上)にこの文を解するには、「この清浄はこれ総相なり、佛もとこの荘厳功徳をおこしたまふゆへは、三界をみるに、これ虚偽の相、これ輪転の相、これ无窮の相なり。これ蚇蠖の循環するがごとく、蠶蠒のみづから縛するがごとし。あはれなるかな、衆生この三界にむすぼゝれて不浄に転倒せること。衆生を不虚偽のところ、不輪転のところ、不无窮のところにをきて、畢竟安楽大清浄処をえしめんとおぼす。
このゆへにこの清浄荘厳功徳をおこしたまへり。成就といふは、いふこゝろは、これ清浄にして破壊すべからず、汙染すべからず。三界はこれ汙染の相、これ破壊の相なるがごとくにはあらざるなり」といへり。このなかに虚偽といふは転倒の義なり、すなはち无常を常とおもひ、不浄を浄と執し、苦を楽と計するこゝろなり。これに无我を我とおもへるこゝろをくはへて四倒といふなり。輪転といふは、涅槃の常住をえざれば六道に経歴するなり。无窮といふは、その輪転の一世にあらず二世にあらず、はじめもなくはてもなきことをあらはすなり。
『摩訶止観』(巻一上)に「善悪輪環す」といへるを、『弘決』(止観輔行巻一之三)にこれを釈すとして、「善は非想に通じ悪は无間にきはまる、のぼりてまたし づむ、かるがゆへになづけて輪とす。はじめもなくきはもなし、これをたとふるに環のごとし」といへる、これそのこゝろなり。三輪ことなれども、すべてこれをいふに大苦にあらずといふことなし。この大苦を対治して畢竟安楽大清浄処をえせしめたまふなり。世すでに末世なり、これを利益するはことに弥陀の本願なり、機また下機なり、これを引入するは浄土の一門なり。時をはかりて行じ、分をかへりみて修すベし。

なかんづくに女人の出離はことにこの教の肝心なり、もし无漏の智水をほどこさずばいかでか五障の垢塵をすゝぐことあらん。もし名号の梵風をあふがずばなんぞ三悪の猛火をけすべきや。第十八の願に「十方衆生」といへる、ひろく男女にわたるといヘども、別して女人往生の願をおこしたまへるは、ことに諸佛の済度にもれたる重障をあはれみ、十方の浄土にきらはれたる極悪をたすけんとなり。これによて『観経』の発起をたづぬるに、韋提の厭苦よりいでゝ定散随佗の二善をとくといヘども、つゐに弘願随自の一門をあらはしゝかば、夫人たちまちに大悟无生の益をえ、侍女おなじく阿耨菩提の心をおこしゝよりこのかた、三従を具せりといへども三明を証せんことかたからず、女身をうけたりといへども佛身をえんことをしる。も ともそのあとををひてねがふべし、たれかその益をきゝてもとめざらんや。
ほのかにきく、日本正治二年庚申四月十二日、大内羅城門のあとにして、農夫田のなかよりおほきなる石をほりいだすことありけり。たかさ六尺、ひろさ四尺、うへに文字あり。
奇異のことなるによりて東寺より奏聞しければ、勅使をたてられ、文士をえらばれてこれをみせらるゝに、その字古文なるが、つちのそこにありてそこばくの年序をへぬれば、点画たしかならざるによりて、たやすくよむひとなし。そのとき月輪の禅定殿下の教命として黒谷の聖人かのところにむかひ、その字を御覧ぜられてこれをよみたまひけり。その文字には、「前代所伝者、聖道上人之教、我朝未弘者、此宗旨也。
大同二年仲春十九日執筆嵯峨帝国母」といふ三十六字なり。聖人のたまひけるは、大同のころほひ浄教いまだきたらず、さきよりつたはれる聖道の教に対してこの宗旨といへるは浄土の法門なり。国母といへるは在世の韋提の再誕なりと料簡したまひければ、叡感ことにはなはだしくて、すなはち聖人のうつされたる本を平等院の宝蔵におさめられけるとなん。聖人の出世にあたりて権化の未来記をえたる、時機の純熟、宗旨の恢弘、もともたふとむべし。平城天皇の御宇大同二年丁亥より、土御
門院の御宇正治二年庚申にいたるまで三百九十四年ををくり、その翌年建仁元歳 辛酉より、いま今上聖暦永和五年己未にいたるまで百七十九年をへたり。大同のむかしよりいまゝでは、あはせて五百七十三年にあたる。年紀渺焉のすゑにあたりて利物偏増のときにあへり、宿縁のをふところ慶喜もともふかし。さてもかの聖人の禅房に、ことのやうけだかくしかるべき貴女とおぼしき人ののぞみたまひけるが、乗御のよそほひもみえず来入の儀もさだかならで、のどかに対面をとげねんごろに法門の沙汰ありければ、勢観上人あやしくおもはれけるに、かへりたまふときは乗車なりければ、ひそかにあとををいてみらるゝに、賀茂の河原のほとりにてにはかにみうしなひたてまつられければ、いとゞ奇特のおもひをなし、いぶかしさのあまりに、事の子細を聖人に啓せられけるに、それこそ韋提希夫人よ、賀茂の大明神にてましますなりとこたへたまひけり。かの大明神の御本地をば、ひとたやすくしらず、たとひしれる人も左右なくまふさぬことにてはんべるとかや。いま聖人ののたまふところも、いづれの佛・菩薩とはおほせられねば、当社の故実をばわすれたまふにはあらで、しかも韋提の垂迹としり、あまさへまのあたり神体を拝したまひけるは、大権のいたりいよいよ信敬するにたれり。しかれば夫人のあとをまもりて住生をねがはんひと、和光の冥助にもあづかり、聖人のをしへをあふぎて安養をも とめんともがら、出離の直道にむかひて女人も悪人もともに救済をかうぶり、自証も利佗もすみやかに円満せん。これしかしながら弥陀招喚の願力、釈尊発遣の大慈、かねてはまた歴代明師の遺恩、列祖聖人の余徳なり。あふぐべし、信ずべし。

:右就浄教大綱、書与法語一句哉之由、依得契縁禅尼之請書之。本来无智之上、近曾廃学之間、屡雖令固辞、偏難避懇望之故也。不及深思、不能再案、只任浮心即記
 苟以遂志為詮、叵謂肝要之文言。亦耻臂折之書役。堅可禁外見、旁為顧後謗而 已。

 文和五歳[丙申]三月四日
              釈 存 覚[六十七歳]
 永和五歳[己未]二月廿二日書写之
              執筆桑門善如判