「えこうほつがんしん」の版間の差分
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御開山は、『観経疏』の第一釈の回向発願心は自力の意として「化巻」で引文され「信巻」では第二釈から引文されておられる。なお『観経疏』の回向発願心釈では有名な[[二河の譬喩|二河白道]]の譬喩が説かれ、火の河と水の河を人の貪欲と怒りに譬え、本願を信受した者には白道は極楽に通じる往生願生の道であり、[[貪瞋煩悩]]はあっても往生には障げにならない「[[本願力回向]]」の「[[清浄願往生の心]]」に喩えられた。 | 御開山は、『観経疏』の第一釈の回向発願心は自力の意として「化巻」で引文され「信巻」では第二釈から引文されておられる。なお『観経疏』の回向発願心釈では有名な[[二河の譬喩|二河白道]]の譬喩が説かれ、火の河と水の河を人の貪欲と怒りに譬え、本願を信受した者には白道は極楽に通じる往生願生の道であり、[[貪瞋煩悩]]はあっても往生には障げにならない「[[本願力回向]]」の「[[清浄願往生の心]]」に喩えられた。 | ||
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2024年4月2日 (火) 17:28時点における版
回向発願心
『観経』に説く三心の一。
Ⅰ.阿弥陀仏より回向された功徳をいただき、必ず往生できることをよろこぶ心。→三心。
出典(教学伝道研究センター編『浄土真宗聖典(注釈版)第二版』本願寺出版社
『浄土真宗聖典(注釈版)七祖篇』本願寺出版社
区切り線以下の文章は各投稿者の意見であり本願寺派の見解ではありません。
『浄土真宗聖典(注釈版)七祖篇』本願寺出版社
区切り線以下の文章は各投稿者の意見であり本願寺派の見解ではありません。
回向発願心とは『観経』に説かれる三心の一つ。
御開山は、『観経疏』の第一釈の回向発願心は自力の意として「化巻」で引文され「信巻」では第二釈から引文されておられる。なお『観経疏』の回向発願心釈では有名な二河白道の譬喩が説かれ、火の河と水の河を人の貪欲と怒りに譬え、本願を信受した者には白道は極楽に通じる往生願生の道であり、貪瞋煩悩はあっても往生には障げにならない「本願力回向」の「清浄願往生の心」に喩えられた。
えこう-ほつがんしん 回向発願心
『観経』に説く三心の一。自己の善根をふりむけて浄土へ往生しようと願う心。「散善義」に
- 「過去および今生の身口意業所修の世・出世の善根と、および他の一切凡聖の身口意業所修の世・出世の善根を随喜せると、この自他の所修の善根をもつて、ことごとくみな真実の深信の心中に回向して、かの国に生ぜんと願ず」(七祖 467)
とある。なお、親鸞は『観経』に隠顕を見て、
- 「また回向発願して生ずるものは、かならず決定して真実心のうちに回向したまへる願を
須 ゐて得生の想をなせ」(註 221)
とある。→七祖-補註7。(浄土真宗辞典)