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「剋念して…入る」の版間の差分

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『一念多念証文』でもこの漢文を以下のように、
 
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:[[剋念して生れんと願ふひとと、またすでに往生を得たるひとも、すなはち正定聚に入る]]なり。([[一多#no5|一多 P.681]])
 
:[[剋念して生れんと願ふひとと、またすでに往生を得たるひとも、すなはち正定聚に入る]]なり。([[一多#no5|一多 P.681]])
と、よまれている。
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と、よまれている。「行巻」で以下の阿弥陀仏の名義を示す『往生礼讃』の文を引文され、
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:「ただ念仏の衆生を観そなはして、摂取して捨てざるがゆゑに、阿弥陀と名づく」と。([[行巻#no25|行巻 P.165]])
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この意を『浄土和讃』の「弥陀経讃」には、
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:十方[[微塵世界]]の
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: 念仏の衆生をみそなはし
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: [[摂取してすてざれば]]
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: 阿弥陀となづけたてまつる ([[浄土和讃#P--571|浄土 P.571]])
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とされておられる。この和讃の国宝本の「摂取してすてざれば」の左訓には、
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:摂(おさ)めとる。ひとたびとりて永く捨てぬなり。摂はものの逃ぐるを追はへ取るなり。摂はをさめとる、取は迎へとる。(原文は全てカナ)
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とあり、『御消息』などでも、
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:真実信心の行人は、摂取不捨のゆゑに正定聚の位に住す。([[消息上#no1|御消息 P.735]])
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とあり、現生での正定聚説は、阿弥陀仏の摂取不捨のゆえであるとされたのであろう。それは、龍樹菩薩の『十住毘婆沙論』の、
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:もし人疾く不退転地に至らんと欲せば、[[恭敬心]]をもつて、[[執持]]して名号を称すべしと。([[十住毘婆沙論 (七祖)#P--6|十住毘婆沙論 P.6]])
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の示唆をうけられたものでもある。<br />
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念仏とか名号とか南无阿弥陀仏は文字であり、なんまんだぶは可聞可称の声である。御開山が「行巻」と「信巻」で重ねて『往生礼讃』に替えて、聞の字のある『礼懺儀』を引いて、
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:いま弥陀の本弘誓願は、名号を称すること下至'''十声聞'''等に及ぶまで、さだめて往生を得しむと信知して、一念に至るに及ぶまで疑心あることなし。ゆゑに深心と名づく」と。([[行巻#P--188|行巻 P.188]])、([[信巻本#P--228|信巻 P.228]])
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とされたのも口に称えられるなんまんだぶを示そうとされたのであろう。なんまんだぶと称えれば、なんまんだぶと声となって聞える。これを御開山は本願招喚の勅命といわれ摂取不捨とされ、教義では正定聚不退転とされたのである。
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2017年7月24日 (月) 22:11時点における版

こくねんして…いる

Ⅰ 一心に。専心に。(三経 P.628) 

Ⅱ『論註』の当分では「剋念して生ぜんと願ずれば、また往生を得てすなはち正定聚に入る」と読む。剋念願生する者が浄土に往生して正定聚に入る義であるが、親鸞聖人は原文を読みかえて、剋念願生する者(此土)と浄土に往生した者(彼土)との二類の正定聚があることを示された。

剋念は心を専注して一心になること。ここは信心の異名。(証巻 P.309, 一多 P.681,三経 P.628)

出典(教学伝道研究センター編『浄土真宗聖典(注釈版)第二版』本願寺出版社
『浄土真宗聖典(注釈版)七祖篇』本願寺出版社

区切り線以下の文章は各投稿者の意見であり本願寺派の見解ではありません。

『論註』の当分:

剋念願生 亦得往生則入正定聚
剋念して生ぜんと願ずれば、また往生を得てすなはち正定聚に入る。

御開山の訓点:

剋念願生 亦 得往生 則入正定聚
剋念して生ぜんと願ぜんものと、また往生を得るものとは、すなはち正定聚に入る。

亦という字で、此土での正定聚と、彼土での正定聚が説かれているとみられた。
『一念多念証文』でもこの漢文を以下のように、

剋念して生れんと願ふひとと、またすでに往生を得たるひとも、すなはち正定聚に入るなり。(一多 P.681)

と、よまれている。「行巻」で以下の阿弥陀仏の名義を示す『往生礼讃』の文を引文され、

「ただ念仏の衆生を観そなはして、摂取して捨てざるがゆゑに、阿弥陀と名づく」と。(行巻 P.165)

この意を『浄土和讃』の「弥陀経讃」には、

十方微塵世界
 念仏の衆生をみそなはし
 摂取してすてざれば
 阿弥陀となづけたてまつる (浄土 P.571)

とされておられる。この和讃の国宝本の「摂取してすてざれば」の左訓には、

摂(おさ)めとる。ひとたびとりて永く捨てぬなり。摂はものの逃ぐるを追はへ取るなり。摂はをさめとる、取は迎へとる。(原文は全てカナ)

とあり、『御消息』などでも、

真実信心の行人は、摂取不捨のゆゑに正定聚の位に住す。(御消息 P.735)

とあり、現生での正定聚説は、阿弥陀仏の摂取不捨のゆえであるとされたのであろう。それは、龍樹菩薩の『十住毘婆沙論』の、

もし人疾く不退転地に至らんと欲せば、恭敬心をもつて、執持して名号を称すべしと。(十住毘婆沙論 P.6)

の示唆をうけられたものでもある。
念仏とか名号とか南无阿弥陀仏は文字であり、なんまんだぶは可聞可称の声である。御開山が「行巻」と「信巻」で重ねて『往生礼讃』に替えて、聞の字のある『礼懺儀』を引いて、

いま弥陀の本弘誓願は、名号を称すること下至十声聞等に及ぶまで、さだめて往生を得しむと信知して、一念に至るに及ぶまで疑心あることなし。ゆゑに深心と名づく」と。(行巻 P.188)、(信巻 P.228)

とされたのも口に称えられるなんまんだぶを示そうとされたのであろう。なんまんだぶと称えれば、なんまんだぶと声となって聞える。これを御開山は本願招喚の勅命といわれ摂取不捨とされ、教義では正定聚不退転とされたのである。

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