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「七箇条の御起請文」の版間の差分

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'''加之誹謗正法免除弥陀願。其報当堕那落。豈非痴闇之至哉'''<br />
 
'''加之誹謗正法免除弥陀願。其報当堕那落。豈非痴闇之至哉'''<br />
しかのみならず誹謗正法、弥陀(の)願に免除せられたり。この報(しらせ)まさに那落に堕すべし、あに痴闇のいたりに非ずや。
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しかのみならず誹謗正法、弥陀(の)願に免除せられたり。この報(むくい)まさに那落に堕すべし、あに痴闇のいたりに非ずや。
  
  
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'''右無智大天、此朝再誕、猥述邪義。既同九十五種異道。尤可悲之'''<br />
 
'''右無智大天、此朝再誕、猥述邪義。既同九十五種異道。尤可悲之'''<br />
右、無知の大天(魔)、この朝に再誕してみだりがわしく邪義を述ぶ。すでに九十五種の異道に同じ、もっともこれを悲しむべし。
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右、無知の大天、この朝に再誕してみだりがわしく邪義を述ぶ。すでに九十五種の異道に同じ、もっともこれを悲しむべし。
  
  

2012年3月12日 (月) 20:24時点における版

以下は『西方指南抄』から


一。普告于予門人念仏上人等
あまねく予(わが)門人念仏上人等に告げたまわく。

可停止 未窺一句文。奉破真言止観。謗余仏菩薩事
いまだ一句の文を窺わず、真言・止観を破し、余仏・菩薩を謗じたてまつることを停止(ちょうじ)すべき。

右至立破道者、学生之所経也、非愚人之境界。
右、破するに道を立するに至ては学生の経(ふ)るところなり。愚人の境界にあらず。

加之誹謗正法免除弥陀願。其報当堕那落。豈非痴闇之至哉
しかのみならず誹謗正法、弥陀(の)願に免除せられたり。この報(むくい)まさに那落に堕すべし、あに痴闇のいたりに非ずや。


一。可停止 以無智身対有智人 遇別行輩、好致諍論事
無智の身をもって有智の人に対(むか)い、別行の輩らに遇いて、好みて諍論をいたすこと停止すべき。

右論義者、是智者之有也、更非愚人之分。又諍論之処、諸煩悩起、智者遠離之百由句也、況於一向念仏行之人乎。
右の論義は、これ智者の有なり。さらに愚人の文には非ず。また、諍論のところには、もろもろの煩悩おこる、智者これを遠離すること百由句なり。いわんや一向念仏行の人においておや。


一。可停止 対別解別行人。以愚痴偏執心。傋当棄置本業強嫌喧之事
別解別行の人にむかいて、愚痴偏執の心をもって、まさに本業を棄置し、しいてこれを嫌喧すべしということを停止すべき。

右修道之習、只各勤敢不遮余行。西方要決云。別解別行者。総起敬心。若生軽慢。得罪無窮 云云 何背此制哉
右、修道の習、ただそれぞれ勤むるにあえて余行を遮せず。『西方要決』のいわく、別解別行者は、すべて敬心を起こせ、もし軽(驕)慢を生ぜば罪を得んこと窮まり無しと。何ぞこの制に背かんや。


一。可停止 於念仏門号無戒行、専勧婬酒食肉、適守律儀者名雑行。憑弥陀者本願者説勿恐造悪事
念仏門において戒行無しと号して、もっぱら婬・酒・食肉をすすめ、適に律儀を守るものを雑行と名づく。弥陀の本願を憑む者は、造悪を恐るることなかれということを停止すべし。

右戒、是仏法大地也。衆行雖区同専之、是以善導和尚挙目不見女人。此行状之趣過本律制、浄業之類。不順之者、総失如来之遺教。別背祖師之旧跡。旁無拠者歟
右、戒はこれ仏法の大地なり。衆行まちまちなりといえども同じくこれを専らす。これをもって善導和尚目をあげて女人を見ず。この行状のおもむき本律の制、浄業のたぐいに過ぎたり。これに順ぜずばすべて如来の遺教を忘れたり。別しては祖師の旧跡に背く。旁(かたがた)、よるところ無き者かと。


一。可停止 未弁是非痴人、離聖教非師説。恐述私義妄企諍論。被咲智者迷乱愚人事
いまだ是非をわきまえず痴人、聖教をはなれ師説にあらず、恐くは私義を述べみだりに諍論をくわだて知者に笑わる、愚人を迷乱することを停止すべし。

右無智大天、此朝再誕、猥述邪義。既同九十五種異道。尤可悲之
右、無知の大天、この朝に再誕してみだりがわしく邪義を述ぶ。すでに九十五種の異道に同じ、もっともこれを悲しむべし。


一。可停止 以痴鈍身殊好唱導。不知正法説種種邪法、教化無智道俗事
痴鈍の身をもって、ことに唱導を好み、正法を知らずして種種の邪法を説き、無知の道俗を教化することを停止すべき。

右無解作師、是梵網之制戒也。黒闇之類欲顕己才、以浄土教爲芸能、貪名利望檀越。恐成自由之妄説狂惑世間人、誑法之過殊重、是輩非国賊乎
右、解(さとり)なくして師となるは、これ『梵網』の制戒なり。黒闇のたぐい己の才をあらわさんと欲うて、浄土教をもって芸能となし、名利を貪し檀越を望む。恐らくは自由の妄説をなして世間の人を狂惑せむ。誑法のとが、ことのほか重し、この輩は国賊に非ずや。


一。可停止 自説非仏教邪法爲正法、偽号師範説事
自ら仏教にあらざる邪法を説きて正法となし、偽りて師範の説と号すことを停止すべき。

右各雖一人、説所積爲予一身。衆悪汚弥陀教文、揚師匠之悪名。不善之甚無過之者也
右、それぞれ一人なりといえども、つめるところ予(わが)一身の為なりと説く。衆悪をして弥陀の教文をけがし、師匠の悪名を揚ぐ。不善のはなはだしきこと、これにすぎたること無きものなり。


以前七箇条甄録如斯。一分学教文弟子等者、頗知旨趣、年来之間雖修念仏、随順聖教、敢不逆人心、無驚世聴。因茲于今三十箇年。無爲
もって前の七箇条甄録かくのごとし。一分の教文を学ばん弟子らは、すこぶる旨趣を知りて年来の間、念仏を修すといえども聖教に随順してあえて人心にたがわず、世にきこえを驚かすことなかれ。これによって今に三十箇年、無爲なり。

渉日月、而至近王、此十箇年以後、無智不善輩、時時到来。非啻失弥陀浄業、又汚穢釈迦遺法、何不加[火+向]誡乎。
日月をわたり、近き王に至るまでこの十箇年より以後、無智不善の輩、時時到来す。 ただ弥陀の浄業を失するのみにあらず、また釈迦の遺法を汚穢する、何ぞ[火+向](あきらかに)誡を加えざらんや。

此七箇条之内、不当之間、巨細事等多。具難註述。総如此等之無方、慎不可犯。
この七箇条のうち、不当の間、巨細の事ら多し。つぶさに註述しがたし。すべてこのごときらの無方、慎んで犯すべからず。

此上猶背制法輩者、是非予門人、魔眷属也。更不可来草菴。自今以後、各随聞及、必可被触之。
このうえなお制法に背く輩は、これ予が門人に非ず、魔の眷属なり。さらに草菴に来るべからず。 自今以後、おのおの聞きおよばむに随って、必ずこれを触れをかぶるべし。

余人勿相伴。若不然者、是同意人也。
余人あい伴うことなかれ。もししからばこれ同意の人なり。

彼過如作者、不能瞋同法恨師匠、自業自得之理、只在己心(身)而已。是故今日催四方行人、集一室告命。
かの過をなす者のごときは、同法を瞋り師匠を恨むことあたわず、自業自得のことわり、ただ己が身にあるならくのみと。このゆえに今日、四方の行人をもよおして、一室に集めて告命す。

僅雖有風聞、慥不知誰人失。拠于沙汰愁歎。遂年序、非可黙止。
わずかに風聞ありといえども、たしかに誰の人のとがと知らず、沙汰によって愁歎す。 年序をおくるも、もだすべきに非ず。

先随力及所迴禁遏之計也。仍録其趣示門葉等之状如件
先に力の及ぶに随うて禁遏のはかりごとをめぐらすところなり。よって趣を録して門葉等に示す状、くだんのごとし。

  元久元年十一月七日 沙門源空

信空 感聖 尊西 証空 源智 行西 聖蓮 見仏 道豆 導西 寂西 宗慶 西縁 親蓮 幸西 住蓮 西意 仏心 源蓮 蓮生 善信 行空 已上

  已上二百余人連署了



「七箇条制誠

すべての、私の門人と自ら名乗り、念仏をとなえ人びとに勧めている上人たちに申しあげる。

一、いまだ一句として、真言宗や天台宗の師について、その教えを学び修することもせずに、その教えは誤っているとしてうち破り、阿弥陀仏以外の仏や菩薩をそしるのはやめるべき事。

 このことについていえば、自らの立場を主張し批判するのは、長年にわたり学問にたずさわってきた人のなすことで、愚かな人の考えでなすべきことではない。そればかりか、『無量寿経』の第十八念仏往生願にも「仏の教法をそしるような悪罪を犯した者はこの限りではない」と記し、往生の対象から除かれている。そしった人は、その報いとして、地獄におちてしまうであろう。どうして、それを承知で愚かなことをするのであろうか。そのようなことをしてはならない。

一、知識のない人が、知識を十分具えている人に対し、しかも念仏以外のつとめをしている人に会い、その優劣につき争い論ずるようなことはやめるべき事。

 このことについていえば、仏教の内容について議論することは、知識を十分に具えている人のすることで、愚かな者のすべきことではない。他人の過失についてとやかく論ずるにあたっては、悪い心がはたらくものであるから、知識を十分具えている人は、できるだけ遠ざけたいと考えている。ましてや、ひたすら念仏のみを修している愚かな人は、そのようなことをすべきではない。

一、見解を別にし、行法を異にしている聖道門の人に対し、物事をわきまえず、かたよった考えをもち、聖道門のような教えはやめてしまえなどと、むやみやたらに嫌ったり、あざけり笑うようなことはやめるべき事。

 このことについていえば、仏道を修するにあたっては、自分の修行のための行ないのみを、それぞれつとめ、しいて他の人たちのつとめている修行について、異議を申したてるようなことがあってはならない。窺基は『西方要決釈疑通規』に「見解を異にし、行法を異にしている者には、できる限り敬う心をおこすようにせよ。もし、あなどるようなことかあれば、それによって得た罪は長く消えることはないであろう」と、申されている。どうして、この戒めに背くことかできようか、できはしない。そればかりか、善導和尚もそのようなことがあってはならない、と戒めている。祖師たちの戒めていることをないがしろにするようなことは、愚かで、ものの道理にくらい人といわざるを得ない。

一、念仏門では、戒めを守り修行する必要はないなどといい、みだらなことをしたり、酒を飲み、肉を食べることを勧め、かえって戒律を厳しく守っている人がいると、さまざまなつとめをしている人であると決めつけ、阿弥陀仏のご本願をたのみ浄土に往生したいと思うものは、悪をつくることを恐れてはならないと説いているが、そのように説くことはやめるべき事。

 このことについていえば、戒律は仏の教えをはぐくみ育てた基盤であり、たとえ多くの修行法があり、その方法はまちまちであるとしても、誰でもが守らなければならないのは戒律である。それ故に、戒律をたもった善導和尚は、目をあげて女性を見たことはなかったという。和尚の身のふるまいは、戒律に記されていることを守ったからであるが、浄土に往生したいと願っている人は、和尚のようにしなければ、釈尊の教えに違い、また祖師のたどってきたみ跡にそむいてしまう。いずれにしても、戒めを守り修行する必要がないというのは、何も証拠があるわけではない。

一、まだ十分にもののよしあしを承知していない愚かな人は、仏の説かれた教典をないがしろにし、師の教えを正しく受けとらず、自分の思う通りにふるまい、自分が意見を述べることもあれば、分をこえて仏教の内容について議論をしたいと考えている。そのため智慧ある人からは笑いものになっている。そればかりか愚かな人たちを迷わせ、その心を乱してしまうことになるので、やめるべき事。

 このことについていえば、それはちょうど智慧のないインドの大天が、日本に生まれ変わりむやみやたらに誤った見解を述べているようなものである。誤ったことを説くのはインドの九十五種の異なった考えと少しもかわらない。本当に悲しいことである。

一、考えのにぶく愚かな者が、ことさら教えを説くことを好んでいるものの、その実体は正しい仏の教えを知らないで、さまざまなよこしまな教えを説いている。このような人があえて智慧のない人たちを教え導くというがごときことを、やめるべき事。

 このことについていえば、悟りを得ることなしに、人の師となることは『梵網経』で禁じられている。正しい行ないをしていない人が、自分の才能を人に示そうとして、浄土に往生する教えを芸能に托し、名誉や利益をむさぼったり、檀越になろうとして、自分の思い通りにふるまい、自由に誤った考えを述べ、世の中の人をたぶらかしまどわしている。.人をたぶらかす教えを考え、それを説く罪は極めて重く、国の秩序を乱す人にもあたいするといえよう。

一、釈尊の説いた教えとは、まったく違ったよこしまな教えを説き、これこそ正しい教えであり、師の説であると、いつわって説くことはやめるべき事。

  このことについていえば、これらそれぞれの説をとなえる人は、たとえ一人であるといっても、つもりつもれば私が多くの罪を犯したことになる。ひいては阿弥陀仏の教えを書いた文章を汚し、師匠の悪名を世の入にさらすことになる。善くないといっても、これ以上のことはないであろう。

 世に問題となっているところについて、順序をたてて述べると、前に述べたように七か条になる。少しでも仏の教えを学んだ弟子たちは、私の心中の思いを知ってほしい。私は長いあいだ、念仏を修してきたけれど、それは釈尊の説かれた教えに従ったまでのことで、人びとの心にさからったことを申したことはない。したがって、世の人たちの耳を驚かしたこともない。このようにして教えを説いてから、今に至るまで三十年、何事もなく月日をすごしてきた。

 しかるに、近ごろになり、それも十年この方、知識のない善くない人たちが、時々現れてくるようになった。阿弥陀仏の説かれた浄土への往生について批判するばかりか、釈尊の教えをきずつけ汚したりしている。どうして、こうしたことを知りながら、明らかに戒めを加えないはずがあろうか、戒めを加えなければならない。

 この七箇条について、道理にはずれた大小となくなされたくわしいことの内容の一々は多く述べることができない。ただこのような法にはずれたことは、つつしんで犯さないようにしてもらいたい。今後、このような法にそむく人がいたとすれば、その人は私の門人ではなく、魔王のとりまきの者であろう。また、私の草庵に来てはならない。これからのち、各人が違法の人のことを聞いたならば、必ず知らせてほしい。また、このような人と付きあわないように、心がけてほしい。もし、そうでないとすると、同意の人と見なされても致し方ないであろう。

この人たちの過ちが、現になされているようなものであるとすれば、同法をいかったり、師匠をうらんだりしてはいけない。すべて自らつくった善悪の業によって、自分の身にその報いを受けるという道理の通りであり、根本の原因はおのれの心にあるのだ。

 この故に、今日は各地に居住しておられる専修念仏者を一室に集め、私の考えを告げることにする。制法に背く人については、これまでは僅かに風のたよりにある程度で、たしかにそれは誰がいったものか知らないし、うわさぐらいに考え、うれい嘆きながらも年月をおくってきた。だが、これ以上黙ってものをいわないのはよくないので、まずは力のおよぶかぎり、禁止の企てをめぐらすことにした。どのような理由で禁止するのかということを書き記し、門弟たちに示したのが、この書状である。

元久元年十一月七日

沙門源空(花押)」

(大橋俊雄全訳『法然全集』第三巻二八三~二八九頁)