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そうじ 総持
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 梵語ダーラニー (dhāraṇī) の意訳。
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:Ⅰ →[[陀羅尼]]。
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:Ⅱ 万善万行を欠けることなく円(まどか)にそなえた名号のこと。
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:Ⅲ 智慧のこと。『銘文』には「総持といふは智慧なり、無礙光の智慧を総持と申すなり」([[尊号真像銘文#P--652|註 652]])とある。 (浄土真宗辞典)
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「信巻末」の真仏弟子釈で、第三十三願、第三十四願を連引して、
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:たとひわれ仏を得たらんに、十方無量不可思議の諸仏世界の衆生の類、わが名字を聞きて、菩薩の無生法忍、もろもろの[[深総持]]を得ずは、正覚を取らじ。([[信巻末#P--257|信巻 P.257]])
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と「聞名得忍の願」とある。<br />
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:往生の教のなかに[[念仏三昧]]はこれ[[総持]]のごとく、また[[醍醐]]のごとし。もし念仏三昧の醍醐の薬にあらずは、五逆深重の病ははなはだ治しがたしとなす、知るべし。([[選択本願念仏集 (七祖)#P--1260|選択集p.1260]])
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と、万徳の体である念仏三昧を[[総持]]とされておられたことから、上記3.の「万善万行を欠けることなく円まどかに供えた名号のこと。」と[[念仏]]は[[総持]]といふ意味を生じるのだが宗義による解釈であろう。
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『浄土論』には、
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:われ修多羅の真実功徳相によりて、[[願偈を説きて]][[総持]]し、仏教と相応せん。([[浄土論_(七祖)#P--29|浄土論 P.29]])
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とあり、これを釈した『浄土論註』には、
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:「説願偈総持 与仏教相応」とは、「持」は不散不失に名づく。「総」は少をもつて多を摂するに名づく。 ([[浄土論註 (七祖)#P--56|論註 P.56]])
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とある。御開山は『尊号真像銘文』で、
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:「説願偈総持」といふは、本願のこころをあらはすことばを「偈」といふなり、「総持」といふは智慧なり、無碍光の智慧を総持と申すなり。([[尊号真像銘文#P--652|尊号 P.652]])
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と、「説願偈総持」の総持は智慧であるとされておられた。
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2022年5月29日 (日) 23:29時点における最新版

そうじ

 梵語ダーラニー(dhāraņī)の漢訳。陀羅尼(だらに)と音写。仏の教えの精要をわずかな言語におさめた章句のこと。

1.広博な経の文意を総摂して短い偈のなかにおさめたもつこと。(浄文 P.479, 愚禿 P.513, 願生偈 P.1445)
2.よくすべてをおさめ保って忘れない力。ひとつのことがらを記憶することによって、あらゆることがらを連想して忘れない記憶術。
3.万善万行を欠けることなく(まど)かに供えた名号のこと。
4.智慧のこと。(大経 P.21)
出典(教学伝道研究センター編『浄土真宗聖典(注釈版)第二版』本願寺出版社
『浄土真宗聖典(注釈版)七祖篇』本願寺出版社

区切り線以下の文章は各投稿者の意見であり本願寺派の見解ではありません。

そうじ 総持

 梵語ダーラニー (dhāraṇī) の意訳。

Ⅰ →陀羅尼
Ⅱ 万善万行を欠けることなく円(まどか)にそなえた名号のこと。
Ⅲ 智慧のこと。『銘文』には「総持といふは智慧なり、無礙光の智慧を総持と申すなり」(註 652)とある。 (浄土真宗辞典)

「信巻末」の真仏弟子釈で、第三十三願、第三十四願を連引して、

たとひわれ仏を得たらんに、十方無量不可思議の諸仏世界の衆生の類、わが名字を聞きて、菩薩の無生法忍、もろもろの深総持を得ずは、正覚を取らじ。(信巻 P.257

と「聞名得忍の願」とある。
『選択本願念仏集』には、

往生の教のなかに念仏三昧はこれ総持のごとく、また醍醐のごとし。もし念仏三昧の醍醐の薬にあらずは、五逆深重の病ははなはだ治しがたしとなす、知るべし。(選択集p.1260)

と、万徳の体である念仏三昧を総持とされておられたことから、上記3.の「万善万行を欠けることなく円まどかに供えた名号のこと。」と念仏総持といふ意味を生じるのだが宗義による解釈であろう。 『浄土論』には、

われ修多羅の真実功徳相によりて、願偈を説きて総持し、仏教と相応せん。(浄土論 P.29)

とあり、これを釈した『浄土論註』には、

「説願偈総持 与仏教相応」とは、「持」は不散不失に名づく。「総」は少をもつて多を摂するに名づく。 (論註 P.56)

とある。御開山は『尊号真像銘文』で、

「説願偈総持」といふは、本願のこころをあらはすことばを「偈」といふなり、「総持」といふは智慧なり、無碍光の智慧を総持と申すなり。(尊号 P.652)

と、「説願偈総持」の総持は智慧であるとされておられた。

◆ 参照読み込み (transclusion) WDM:そうじ

総持

dhāraṇī (S)

 音写語としての「陀羅尼」は本来、保持する行為、さらに記憶の保持、精神集中などを意味するが、そのために誦する呪句としての陀羅尼の意味をとって訳したものである。

 本来インドでは、学習は筆記によらず記憶によった。そのために長大な教義を要約して暗誦し記憶の保持をはかった。暗誦の句がやがて真言の神秘力との連想によってそれ自体記憶を増し、知識を保持する神秘的な力を持つものとして尊重されるようになり、さらにその内容を誦持者自身にもたらすものとして、真言と同じ意味になった。

 ただし、現実には真言に比べて比較的に長大なものを陀羅尼と呼称する場合が多い。〔維摩経 T14-516c、無量寿経 T12-266b〕

 醍醐の通じて一切の病を治するが如く、(総)持の如薬はよく一切の重罪を消し    〔十住心論(1)〕
 「願偈総持」本願の心をあらわす偈をもって、種々の意義にまとめること。〔教行信証 行巻〕