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[にゃくぞんにゃくもう]
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にゃくぞん-にゃくもう
   【左訓】「あるときには往生してんずとおもひ、あるときには往生はえせじとおもふを若存若亡といふなり」(異本)([[高僧和讃#P--586|高僧 P.586]])
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 【左訓】「あるときには'''[[往生]]'''してんずとおもひ、あるときには'''[[往生]]'''はえせじとおもふを若存若亡といふなり」(異本)([[高僧和讃#no48|高僧 P.586]])
  
 
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にゃくぞん-にゃくもう 若存若亡
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 信心が不確かであること。『論註』([[浄土論註 (七祖)#P--103|論註 P.103]]) には
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:「信心<kana>淳(あつ)</kana>からず、 <kana>存(ぞん)</kana>せるがごとし、 <kana>亡(もう)</kana>ぜるがごときのゆゑに」 ([[信巻本#P--215|信巻引文 P.215]])
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とある。 また、『高僧和讃』には 「若存若亡するゆゑに」 とあり、 「国宝本」 [[左訓]]には 「あるときには[[往生]]してんずとおもひ、 あるときには[[往生]]はえせじとおもふを若存若亡といふなり」 とある。 →[[三不三信]]。(浄土真宗辞典)
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『論註』には展伝する、淳心・一心・相続心の三心の淳心(信心)を、
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:一者信心不淳 '''若存若亡'''故 (一には信心<kana>淳(あつ)</kana>からず、存ずるがごとく亡ずるがごときゆゑなり) ([[浄土論註 (七祖)#二不知三不信|論註 P.103]])
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と若存若亡とされていた。『論註』の当面では、なんまんだぶを称えながら、
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:名を称し[[憶念]]すれども、[[無明]]なほありて所願を満てざるものあり。なんとなれば、如実に修行せず、'''[[名義]]'''と相応せざるによるがゆゑなり。 ([[浄土論註 (七祖)#二不知三不信|論註 P.103]])
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と、信心の有無によって修行 (なんまんだぶの'''[[大行]]''') が如実であるか如実ではないかで判定されておられた。→[[如実修行相応]]<br />
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御開山は、この意を承けて、「若存若亡」を、ある時は往生すると思ひ、ある時は往生できないであろうと思ふことであるといわれたのである。浄土門の「[[信]]」とは、浄土に往生できるか往生できないかを「[[信疑決判]]」といふ。生死輪廻の家にとどまるのは本願を疑うからであり、さとりの城(みやこ)に入るのは本願を信ずるがゆえである、といふのである。 浄土真宗とは、正確には往生浄土の真宗の意であり、浄土において仏の証(さとり)を完成しようといふ仏法 (仏に成る法)である。<br />
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しかして、浄土教の坊主の「中には死後に浄土に生まれるなどといふ非科学的なことを今の若い人が信じますかと言って反論する住職までおられた。」(小谷信千代『真宗の往生論』序) とある。これは往生浄土を喪失して近代キリスト教風の信心を骨張するから、此岸としての娑婆と彼岸としての浄土が見失われて、近代キリスト教風の「天国」といふ概念でしか死後を語る方法を持たない現代日本に成り下がってしまったのだと思ふ。<br />
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その意味では、若存若亡とは、阿弥陀如来の大悲の願船に乗じて浄土へ往生するか否かの決断を迫る法語なのであった。<br />
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偉い教学者の坊さんは、形而上的な信を語るのだが、愚鈍な林遊の為の'''[[為凡]]'''の教が浄土真宗のご法義だといふことが判らんのかもであった。知らんけど。
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*若存若亡とは、猶予して決定しないこと。<kana>猶予不定(ゆうよふじょう)</kana>をいう。
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:→[[三不三信]]
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:→[[三心料簡および御法語の訓読#no20|若存若亡事]]
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:→[[信疑決判]]
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:→[[疑情]]
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:→[[疑蓋]]
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:→[[如実修行相応]]
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2020年9月29日 (火) 14:46時点における最新版

にゃくぞん-にゃくもう

 【左訓】「あるときには往生してんずとおもひ、あるときには往生はえせじとおもふを若存若亡といふなり」(異本)(高僧 P.586)

出典(教学伝道研究センター編『浄土真宗聖典(注釈版)第二版』本願寺出版社
『浄土真宗聖典(注釈版)七祖篇』本願寺出版社

区切り線以下の文章は各投稿者の意見であり本願寺派の見解ではありません。

にゃくぞん-にゃくもう 若存若亡

 信心が不確かであること。『論註』(論註 P.103) には

「信心(あつ)からず、 (ぞん)せるがごとし、 (もう)ぜるがごときのゆゑに」 (信巻引文 P.215)

とある。 また、『高僧和讃』には 「若存若亡するゆゑに」 とあり、 「国宝本」 左訓には 「あるときには往生してんずとおもひ、 あるときには往生はえせじとおもふを若存若亡といふなり」 とある。 →三不三信。(浄土真宗辞典)

『論註』には展伝する、淳心・一心・相続心の三心の淳心(信心)を、

一者信心不淳 若存若亡故 (一には信心(あつ)からず、存ずるがごとく亡ずるがごときゆゑなり) (論註 P.103)

と若存若亡とされていた。『論註』の当面では、なんまんだぶを称えながら、

名を称し憶念すれども、無明なほありて所願を満てざるものあり。なんとなれば、如実に修行せず、名義と相応せざるによるがゆゑなり。 (論註 P.103)

と、信心の有無によって修行 (なんまんだぶの大行) が如実であるか如実ではないかで判定されておられた。→如実修行相応
御開山は、この意を承けて、「若存若亡」を、ある時は往生すると思ひ、ある時は往生できないであろうと思ふことであるといわれたのである。浄土門の「」とは、浄土に往生できるか往生できないかを「信疑決判」といふ。生死輪廻の家にとどまるのは本願を疑うからであり、さとりの城(みやこ)に入るのは本願を信ずるがゆえである、といふのである。 浄土真宗とは、正確には往生浄土の真宗の意であり、浄土において仏の証(さとり)を完成しようといふ仏法 (仏に成る法)である。
しかして、浄土教の坊主の「中には死後に浄土に生まれるなどといふ非科学的なことを今の若い人が信じますかと言って反論する住職までおられた。」(小谷信千代『真宗の往生論』序) とある。これは往生浄土を喪失して近代キリスト教風の信心を骨張するから、此岸としての娑婆と彼岸としての浄土が見失われて、近代キリスト教風の「天国」といふ概念でしか死後を語る方法を持たない現代日本に成り下がってしまったのだと思ふ。
その意味では、若存若亡とは、阿弥陀如来の大悲の願船に乗じて浄土へ往生するか否かの決断を迫る法語なのであった。
偉い教学者の坊さんは、形而上的な信を語るのだが、愚鈍な林遊の為の為凡の教が浄土真宗のご法義だといふことが判らんのかもであった。知らんけど。

  • 若存若亡とは、猶予して決定しないこと。猶予不定(ゆうよふじょう)をいう。
三不三信
若存若亡事
信疑決判
疑情
疑蓋
如実修行相応