「四依」の版間の差分
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+ | :④依了義経不依不了義経。真理を完全に説き明かした了義経をよりどころとして、不了義の経によらない。『大智度論』の説で、親鸞はこれを 「化身土巻」([[P:414|註 414]]) に引用している。 | ||
+ | Ⅱ 人四依。よりどころとすべき4種の人のこと。諸説あるが、智顗の『法華玄義』では、 | ||
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+ | 御開山の釈風は「義に依りて語に依らざる(依義不依語)」という、語によって語を超えていく大乗仏教の釈風である。いわば'''「[[信心の智慧]]」'''によって経典の文すら訓点を変えて訓(よ)まれておられるのであった。 | ||
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2024年11月11日 (月) 11:04時点における最新版
しえ
よりどころとなる四種類をいう。
Ⅰ 人四依。天台の『法華玄義(ほっけげんぎ)』には、
- ①五品(ごほん)、六根を初依(しょえ)、
- ②十住(じゅうじゅう)をを第二依、
- ③十行(じゅうぎょう)、十回向(じゅうえこう)を第三依、
- ④十地(じゅうじ)、等覚(とうがく)を第四依としている。
親鸞聖人は浄土真宗の祖師方を指して四依の大士といわれている。(弘経大士宗師等)→四依弘経の大士
Ⅱ 法四依。道を成ずるためには正法(しょうぼう)のみに依って、そうでないものに依ってはならないこと。これに四種ある。
- ①依法不依人(えほうふえにん)。教えを依りどころとし、説く人によらない。
- ②依義不依語(えぎふえご)。教えの内容を依りどころとして、言葉によらない。
- ③依智不依識(えちふえしき)。真実の智慧(さとり)を依りどころとして、人間の分別によらない。
- ④依了義経不依不了義経(えりょうぎきょうふえふりょうぎきょう)。真理を完全に説き明かした了義経を依りどころとして、不了義の経によらない。(化巻 P.414)
出典(教学伝道研究センター編『浄土真宗聖典(注釈版)第二版』本願寺出版社
『浄土真宗聖典(注釈版)七祖篇』本願寺出版社
区切り線以下の文章は各投稿者の意見であり本願寺派の見解ではありません。
『浄土真宗聖典(注釈版)七祖篇』本願寺出版社
区切り線以下の文章は各投稿者の意見であり本願寺派の見解ではありません。
しえ 四依
よりどころとなる4種類をいう。
Ⅰ 法四依。よりどころとすべき4種の法のこと。
- ①依法不依人。教えをよりどころとし、説く人によらない。
- ②依義不依語。教えの内容をよりどころとして、言葉によらない。
- ③依智不依識。真実の智慧 (さとり) をよりどころとして、人間の分別によらない。
- ④依了義経不依不了義経。真理を完全に説き明かした了義経をよりどころとして、不了義の経によらない。『大智度論』の説で、親鸞はこれを 「化身土巻」(註 414) に引用している。
Ⅱ 人四依。よりどころとすべき4種の人のこと。諸説あるが、智顗の『法華玄義』では、
- ①五品・六根を初依、
- ②十住を第二依、
- ③十行・十回向を第三依、
- ④十地・等覚を第四依とする。
親鸞は浄土真宗の祖師を指して 「四依弘経の大士」(註 398) と述べている。(浄土真宗辞典)
御開山の釈風は「義に依りて語に依らざる(依義不依語)」という、語によって語を超えていく大乗仏教の釈風である。いわば「信心の智慧」によって経典の文すら訓点を変えて訓(よ)まれておられるのであった。