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 三願とは阿弥陀仏の[[四十八願]]の中、 第十九・二十・十八の三願のことで、[[第十九願]] (自力諸行往生=[[要門]])・[[第二十願]] (自力念仏往生=[[真門]]) の[[方便]]の教えを経て、[[第十八願]] (他力念仏往生=[[弘願]]) の真実の教えへと導かれていった親鸞の求道の課程のこと。親鸞は「化身土巻」に
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 三願とは阿弥陀仏の[[四十八願]]の中、 第十九・二十・十八の三願のことで、[[第十九願]] (自力諸行往生=[[要門]])・[[第二十願]] (自力念仏往生=[[真門]]) の[[方便]]の教えを経て、[[第十八願]] (他力念仏往生=[[弘願]]) の真実の教えへと導かれていった親鸞の求道の課程のこと。親鸞は「化身土巻」に、
:「ここをもつて愚禿釈の鸞、[[論主・宗師|論主]]の解義を仰ぎ、[[宗師]]の[[勧化]]によりて、久しく[[万行諸善の仮門]]を出でて、永く[[双樹林下往生|双樹林下の往生]]を離る。[[善本徳本の真門]]に回入して、ひとへに[[難思往生]]の心を発しき。しかるに、いまことに方便の[[真門]]を出でて、[[選択の願海]]に[[転入]]せり。すみやかに[[難思往生]]の心を離れて、[[難思議往生]]を遂げんと欲す。[[果遂の誓]]([[第二十願]])、まことに由あるかな。」
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と述べ、ここでは特に[[第二十願]]を「果遂の誓」と呼んで、[[真実]]へと導かんとする阿弥陀仏の[[方便]]のはたらきを[[讃嘆]]している。これによって方便の教えを捨てて、弘願真実の教えに帰入すべきことが明らかにされる。(浄土真宗辞典)
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と述べ、ここでは特に[[第二十願]]を「[[果遂の誓]]」と呼んで、[[真実]]へと導かんとする阿弥陀仏の[[方便]]のはたらきを[[讃嘆]]している。これによって方便の教えを捨てて、弘願真実の教えに帰入すべきことが明らかにされる。(浄土真宗辞典)
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『教行証文類』の後序には、
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: しかるに愚禿釈の鸞、[[建仁辛酉の暦]]、雑行を棄てて本願に帰す。 ([[化巻末#聖人の入宗と稟教|化巻 P.472]])
 
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とあるように、御開山は29歳の時に法然門下に入られた時点で「雑行を棄(す)てて本願に帰」されておられた。[[雑行]]を棄(す)てて本願に帰す、であるから直接 [[第十八願]]に帰されたのである。法然聖人は「[[一願建立]]」といわれるように[[第十八願]]に拠って往生浄土宗を立教開宗されたのであり、その門弟になることは[[第十八願]]の念仏行者になることであった。<br />
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「化身土巻」は、<kana>簡非(けんぴ)</kana>(非をえらびて捨てる)と、<kana>権用(ごんゆう)</kana>([[従真垂仮]]:真実を直接理解できない未熟の機の為に真(実)より仮(善巧方便)を垂れること。<kana>暫用還廃(ぜんゆうげんぱい)</kana><ref>暫用還廃(ぜんゆう-げんぱい)。しばらく用いて還って廃する。未熟の機のためにしばらく用いるが、第十八願の意(こころ)に気づいたときは廃するといふこと。</ref>)の両義があるといわれる。御開山自らが「[[生因三願]]」を考察された「[[願海真仮論]]」から窺えば簡非(非をえらびて捨てる)の意で[[三願転入]]の文を「化身土巻」に記述されたのであろう。御開山は、この道は間違いですと示す為に「三願転入」の文を「化身土巻」で顕された意であった。<br />
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なお、四十八願中、衆生の往生の為に設けられた「[[生因三願]]」それぞれの三心の中間の信楽、発願、回向によって至心と欲生の意味が変わる。
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#[[第十八願]]の三心 至心、信楽、欲生
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#[[第十九願]]の三心 至心、発願、欲生
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#[[第二十願]]の三心 至心、回向、欲生
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[[第十九願]]や[[第二十願]]の至心や欲生は自らの力によって起こす至心と欲生であり、行者それぞれの能力による自力であるから報土往生は不確実である。<br />
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それに対して[[第十八願]]の[[至心]]は阿弥陀如来の[[至心]]であり、欲生は衆生を浄土へ往生させようといふ如来の[[招喚したまふの勅命]]であるから、まちがいなく当来の浄土往生の果があてになる[[決定要期]]であった。
  
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:→[[六三法門]]
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:→[[願海真仮論]]
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:→[[果遂の願]]
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:→[[果遂のちかひに帰してこそ]]
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:→[[念仏証拠門のなかに…]]
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:→[[トーク:三願転入]]
  
 
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2024年8月10日 (土) 04:04時点における最新版

さんがん-てんにゅう

さんがん-てんにゅう 三願転入

 三願とは阿弥陀仏の四十八願の中、 第十九・二十・十八の三願のことで、第十九願 (自力諸行往生=要門)・第二十願 (自力念仏往生=真門) の方便の教えを経て、第十八願 (他力念仏往生=弘願) の真実の教えへと導かれていった親鸞の求道の課程のこと。親鸞は「化身土巻」に、

「ここをもつて愚禿釈の鸞、論主の解義を仰ぎ、宗師勧化によりて、久しく万行諸善の仮門を出でて、永く双樹林下の往生を離る。善本徳本の真門回入して、ひとへに難思往生の心を発しき。しかるに、いまことに方便の真門を出でて、選択の願海転入せり。すみやかに難思往生の心を離れて、難思議往生を遂げんと欲す。果遂の誓第二十願)、まことに由あるかな。」

と述べ、ここでは特に第二十願を「果遂の誓」と呼んで、真実へと導かんとする阿弥陀仏の方便のはたらきを讃嘆している。これによって方便の教えを捨てて、弘願真実の教えに帰入すべきことが明らかにされる。(浄土真宗辞典)

回入
転入

回入とは同一次元の出来事(自力)であり、転入とは次元を異にする事象(他力)のことである。

是以 愚禿釈鸞 仰論主解義 依宗師勧化 久出万行諸善之仮門 永離双樹林下之往生。
ここをもつて愚禿釈の鸞、論主の解義を仰ぎ、宗師勧化によりて、久しく万行諸善の仮門を出でて、永く双樹林下の往生を離る。
回入善本徳本真門 偏発難思往生之心。
善本徳本の真門回入して、ひとへに難思往生の心を発しき。
然今 特出方便真門 転入選択願海。速離難思往生心 欲遂難思議往生。果遂之誓良有由哉。
しかるに、いまことに方便の真門を出でて、選択の願海転入せり。すみやかに難思往生の心を離れて、難思議往生を遂げんと欲す。果遂の誓第二十願)、まことに(ゆえ)あるかな。 (化巻 P.413)

『教行証文類』の後序には、

 しかるに愚禿釈の鸞、建仁辛酉の暦、雑行を棄てて本願に帰す。 (化巻 P.472)

とあるように、御開山は29歳の時に法然門下に入られた時点で「雑行を棄(す)てて本願に帰」されておられた。雑行を棄(す)てて本願に帰す、であるから直接 第十八願に帰されたのである。法然聖人は「一願建立」といわれるように第十八願に拠って往生浄土宗を立教開宗されたのであり、その門弟になることは第十八願の念仏行者になることであった。
「化身土巻」は、簡非(けんぴ)(非をえらびて捨てる)と、権用(ごんゆう)従真垂仮:真実を直接理解できない未熟の機の為に真(実)より仮(善巧方便)を垂れること。暫用還廃(ぜんゆうげんぱい)[1])の両義があるといわれる。御開山自らが「生因三願」を考察された「願海真仮論」から窺えば簡非(非をえらびて捨てる)の意で三願転入の文を「化身土巻」に記述されたのであろう。御開山は、この道は間違いですと示す為に「三願転入」の文を「化身土巻」で顕された意であった。
なお、四十八願中、衆生の往生の為に設けられた「生因三願」それぞれの三心の中間の信楽、発願、回向によって至心と欲生の意味が変わる。

  1. 第十八願の三心 至心、信楽、欲生
  2. 第十九願の三心 至心、発願、欲生
  3. 第二十願の三心 至心、回向、欲生

第十九願第二十願の至心や欲生は自らの力によって起こす至心と欲生であり、行者それぞれの能力による自力であるから報土往生は不確実である。
それに対して第十八願至心は阿弥陀如来の至心であり、欲生は衆生を浄土へ往生させようといふ如来の招喚したまふの勅命であるから、まちがいなく当来の浄土往生の果があてになる決定要期であった。

六三法門
願海真仮論
果遂の願
果遂のちかひに帰してこそ
果遂
念仏証拠門のなかに…
トーク:三願転入

  1. 暫用還廃(ぜんゆう-げんぱい)。しばらく用いて還って廃する。未熟の機のためにしばらく用いるが、第十八願の意(こころ)に気づいたときは廃するといふこと。