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− | + | 本来は、同一の系譜に連なる仏教の[[僧侶]]を指したが、[[浄土真宗]]においては、阿弥陀仏の〔なんまんだぶ〕による[[生死]]([[輪廻]])からの[[済度]]を聞き慶(よろこ)ぶ[[聞信]]する者の意に用いられた。『教行証文類』後序には、 | |
− | + | :真宗興隆の大祖源空法師ならびに[[門徒]]数輩、罪科を考へず、猥(みだ)りがはしく死罪に坐(つみ)す。([[化巻末#no117|註 471]]) | |
− | と述べておられた。</ref> | + | とある。関東の御開山の門弟を[[高田門徒]]・鹿島門徒・横曽根門徒<ref>千葉乗隆師は「念仏者の団結」と題し<br /> |
+ | 親鸞聖人の教えに[[帰依]]した念仏者は、有力な直弟子を中心に団結した。そして 直弟子の居住する地名を集団の名称とした。下野国高田の[[真仏]]・[[顕智]]を中心とする集団は高田門徒と称した。また下総国横曽根の[[性信]]を中心とする集団は横曽根門徒と呼ばれた。このほか常陸の布川門徒(教念が指導者)や鹿島門徒(順信)・蕗田門徒(善性)、武蔵の 荒木門徒(光信)、下総の佐島門徒(常念)、陸奥の浅香門徒(覚円)や伊達門徒(性意)などが有力な門徒団であった。 親鸞聖人は念仏者はみな同朋(同じ仲間)であり、師弟上下の関係によって結ばれる教団を形成することは望まなかった。しかし、念仏者の中に教義を誤解したり、反社会的な行動をする者が出る と、正しい教えを保つために教団の形成を認めたのであった。 <br /> | ||
+ | と述べておられた。</ref>などと呼称したことや、本願寺中興の祖とされる[[蓮如]]さんが<kana>朋同行(とも-どうぎょう)</kana>を門徒といわれたことなどから門徒とはもっぱら真宗信者一般に対する呼称となった<ref>蓮如さんの行跡を記した『空善聞書』(浄土真宗聖教全書p.672)には、 | ||
:一 仰せに、おれは門徒にもたれたりと、ひとへに門徒にやしなはるゝなり。聖人の仰せには、弟子一人ももたずと、たゞともの同行なりと仰候きとなり。 | :一 仰せに、おれは門徒にもたれたりと、ひとへに門徒にやしなはるゝなり。聖人の仰せには、弟子一人ももたずと、たゞともの同行なりと仰候きとなり。 | ||
− | とある。</ref> | + | とある。</ref>([[御文一#no1|御文章 P.1083]])。 その意味で[[浄土真宗]]は「[[EXC:門徒宗|門徒宗]]」「[[一向宗]]」などとも呼ばれた。──[[浄土真宗]]、[[真宗]]と公称され認知されたのは明治に入ってからである。→[[宗名事件]]──<br /> |
現在でも浄土真宗の盛んな地域の門徒を、安芸門徒、越前門徒、加賀門徒などという。 | 現在でも浄土真宗の盛んな地域の門徒を、安芸門徒、越前門徒、加賀門徒などという。 | ||
阿弥陀仏一仏への純粋な信を強調し習俗を迷信として否定するので、江戸時代中期の儒学者であった[[JWP:太宰春台|太宰春台]](1680-1747)は『聖学問答』で、 | 阿弥陀仏一仏への純粋な信を強調し習俗を迷信として否定するので、江戸時代中期の儒学者であった[[JWP:太宰春台|太宰春台]](1680-1747)は『聖学問答』で、 | ||
− | :日本の仏者の中に、一向宗の門徒は、弥陀一仏を信ずること専(もっぱら) | + | :日本の仏者の中に、一向宗の門徒は、弥陀一仏を信ずること専(もっぱら)にして、他の仏神を信ぜず、如何なる事ありても、祈祷などすること無く、病苦ありても呪術・符水<ref>神の守りふだと、神に供えた水。民間信仰で病気をなおすときに用いる。</ref>を用いず、愚なる小民・婦女・奴婢の類まで、皆然なり、是親鸞氏の教の力なり。→[http://base1.nijl.ac.jp/iview/Frame.jsp?DB_ID=G0003917KTM&C_CODE=XMI2-00302&IMG_SIZE=&PROC_TYPE=null&SHOMEI=%E3%80%90%E8%81%96%E5%AD%A6%E5%95%8F%E7%AD%94%E3%80%91&REQUEST_MARK=null&OWNER=null&BID=null&IMG_NO=78 『聖学問答』] |
− | と、浄土真宗門徒の「[[仰信]]」の純一で専心専念の「[[行信]] | + | と、浄土真宗門徒の「[[仰信]]」の純一で専心専念の「[[行信]]」なることを「親鸞氏の教の力なり」とされていた。なお、この俗信としての祈祷、呪術、符水などを用いないことを世間からは「門徒もの知らず[[google:門徒もの知らず|(*)]] と揶揄されることもあった。もちろん門徒は正当な医療行為は受容する。<br /> |
この意を、法然聖人は『浄土宗略抄』で、 | この意を、法然聖人は『浄土宗略抄』で、 | ||
− | :又宿業かぎりありて、うくべからんやまひは、いかなるもろもろのほとけかみにいのるとも、それによるまじき事也。いのるによりてやまひもやみ、いのちものぶる事あらば、たれかは一人としてやみしぬる人あらん。([[ | + | :又宿業かぎりありて、うくべからんやまひは、いかなるもろもろのほとけかみにいのるとも、それによるまじき事也。いのるによりてやまひもやみ、いのちものぶる事あらば、たれかは一人としてやみしぬる人あらん。([[和語灯録#P--491|『浄土宗略抄』]]) |
− | + | と、神仏に祈ることで病気が治ったり延命ということはあり得えない、と言われていた。「[[名体不二]]」の、なんまんだぶを称え西方への「[[往生]]」する浄土を持つ我ら門徒には、死は空しい滅びではなく、衆生済度を楽しめる新しい浄土の菩薩としての生のはじまりであった。 | |
:本願力にあひぬれば | :本願力にあひぬれば | ||
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2024年7月2日 (火) 12:02時点における最新版
もんと
本来は、同一の系譜に連なる仏教の僧侶を指したが、浄土真宗においては、阿弥陀仏の〔なんまんだぶ〕による生死(輪廻)からの済度を聞き慶(よろこ)ぶ聞信する者の意に用いられた。『教行証文類』後序には、
- 真宗興隆の大祖源空法師ならびに門徒数輩、罪科を考へず、猥(みだ)りがはしく死罪に坐(つみ)す。(註 471)
とある。関東の御開山の門弟を高田門徒・鹿島門徒・横曽根門徒[1]などと呼称したことや、本願寺中興の祖とされる蓮如さんが
現在でも浄土真宗の盛んな地域の門徒を、安芸門徒、越前門徒、加賀門徒などという。
阿弥陀仏一仏への純粋な信を強調し習俗を迷信として否定するので、江戸時代中期の儒学者であった太宰春台(1680-1747)は『聖学問答』で、
- 日本の仏者の中に、一向宗の門徒は、弥陀一仏を信ずること専(もっぱら)にして、他の仏神を信ぜず、如何なる事ありても、祈祷などすること無く、病苦ありても呪術・符水[3]を用いず、愚なる小民・婦女・奴婢の類まで、皆然なり、是親鸞氏の教の力なり。→『聖学問答』
と、浄土真宗門徒の「仰信」の純一で専心専念の「行信」なることを「親鸞氏の教の力なり」とされていた。なお、この俗信としての祈祷、呪術、符水などを用いないことを世間からは「門徒もの知らず(*) と揶揄されることもあった。もちろん門徒は正当な医療行為は受容する。
この意を、法然聖人は『浄土宗略抄』で、
- 又宿業かぎりありて、うくべからんやまひは、いかなるもろもろのほとけかみにいのるとも、それによるまじき事也。いのるによりてやまひもやみ、いのちものぶる事あらば、たれかは一人としてやみしぬる人あらん。(『浄土宗略抄』)
と、神仏に祈ることで病気が治ったり延命ということはあり得えない、と言われていた。「名体不二」の、なんまんだぶを称え西方への「往生」する浄土を持つ我ら門徒には、死は空しい滅びではなく、衆生済度を楽しめる新しい浄土の菩薩としての生のはじまりであった。
- 本願力にあひぬれば
- むなしくすぐるひとぞなき
- 功徳の宝海みちみちて
- 煩悩の濁水へだてなし (高僧 P.580)
- 念仏往生の願により
- 等正覚にいたるひと
- すなはち弥勒におなじくて
- 大般涅槃をさとるべし (正像 P.605)
- →願生心
- →トーク:門徒
- →同行
- →同朋
- →道場
- →後世者
- →牛盗人・牛を盗みたる人
- →おとりこし
- →慈悲に聖道・浄土のかはりめあり
- ↑ 千葉乗隆師は「念仏者の団結」と題し
親鸞聖人の教えに帰依した念仏者は、有力な直弟子を中心に団結した。そして 直弟子の居住する地名を集団の名称とした。下野国高田の真仏・顕智を中心とする集団は高田門徒と称した。また下総国横曽根の性信を中心とする集団は横曽根門徒と呼ばれた。このほか常陸の布川門徒(教念が指導者)や鹿島門徒(順信)・蕗田門徒(善性)、武蔵の 荒木門徒(光信)、下総の佐島門徒(常念)、陸奥の浅香門徒(覚円)や伊達門徒(性意)などが有力な門徒団であった。 親鸞聖人は念仏者はみな同朋(同じ仲間)であり、師弟上下の関係によって結ばれる教団を形成することは望まなかった。しかし、念仏者の中に教義を誤解したり、反社会的な行動をする者が出る と、正しい教えを保つために教団の形成を認めたのであった。
と述べておられた。 - ↑ 蓮如さんの行跡を記した『空善聞書』(浄土真宗聖教全書p.672)には、
- 一 仰せに、おれは門徒にもたれたりと、ひとへに門徒にやしなはるゝなり。聖人の仰せには、弟子一人ももたずと、たゞともの同行なりと仰候きとなり。
- ↑ 神の守りふだと、神に供えた水。民間信仰で病気をなおすときに用いる。