「如来般涅槃の時代」の版間の差分
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− | :一つには法上師等『周異』の説によりていはく、〈仏、第五の主、穆王満五十三年壬申に当りて入滅したまふ〉と。もしこの説によらば、その壬申よりわが延暦二十年辛巳に至るまで、一千七百五十歳なり。([[化巻本#P--420|化巻 P. | + | :一つには法上師等『周異』の説によりていはく、〈仏、第五の主、穆王満五十三年壬申に当りて入滅したまふ〉と。もしこの説によらば、その壬申よりわが延暦二十年辛巳に至るまで、一千七百五十歳なり。([[化巻本#P--420|化巻 P.420で引文]]) |
+ | これは「[[Jds:嘉禄の法難|嘉禄の法難]]」(1227) の遠因となった貞応三年〔11月20日に改元して元仁〕(1224)に奏状された『延暦寺奏状』が、今はまだ末法ではないという主張に反駁される意であったといわれる。 | ||
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2018年5月10日 (木) 13:28時点における最新版
にょらいはつねはん
釈尊が入滅された年代。(化巻 P.417)
出典(教学伝道研究センター編『浄土真宗聖典(注釈版)第二版』本願寺出版社
『浄土真宗聖典(注釈版)七祖篇』本願寺出版社
区切り線以下の文章は各投稿者の意見であり本願寺派の見解ではありません。
『浄土真宗聖典(注釈版)七祖篇』本願寺出版社
区切り線以下の文章は各投稿者の意見であり本願寺派の見解ではありません。
御開山は正像末史の算定の基準である釈尊の入滅年代を、伝最澄といわれる『末法灯明記』の以下の説を採られている。
- 一つには法上師等『周異』の説によりていはく、〈仏、第五の主、穆王満五十三年壬申に当りて入滅したまふ〉と。もしこの説によらば、その壬申よりわが延暦二十年辛巳に至るまで、一千七百五十歳なり。(化巻 P.420で引文)
これは「嘉禄の法難」(1227) の遠因となった貞応三年〔11月20日に改元して元仁〕(1224)に奏状された『延暦寺奏状』が、今はまだ末法ではないという主張に反駁される意であったといわれる。
- →元仁元年