「一法句」の版間の差分
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+ | :「[[一法句]]といふはいはく、清浄句なり。清浄句といふはいはく、真実智慧無為法身なり」([[浄土論_(七祖)#no17|浄土論 P.38]]) | ||
+ | とあるので、浄土教では[[一法句]]といえばこの句を指す。これについて[[曇鸞]]の浄土論註には、浄土の国土・仏・菩薩([[三種の荘厳|三厳]])のすぐれたありさまを説いた浄土論の二九句を「広」とし、[[入一法句]]を「略」とし、<kana>[[広略相入]](こうりゃく-そうにゅう)</kana>する(浄土のくわしいありさまと清浄即ち真実智慧無為法身とは別な意味を持ちながら離すことのできないものである)と説いている。「仏教学辞典より」 | ||
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+ | [[一法句]]とは清浄句である。清浄句とは真実の智慧、[[無為法身]]であり、そこから如来が顕現し浄土が興起するのであった。真実の智慧、[[無為法身]]から衆生の[[救済]]が成立するから、その救済が真実であるということになるのである。 | ||
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− | :上の国土の荘厳十七句と、如来の荘厳八句と、菩薩の荘厳四句とを広となす。 | + | :上の国土の荘厳十七句と、如来の荘厳八句と、菩薩の荘厳四句とを広となす。 [[一法句]]に入るを略となす。なんがゆゑぞ[[広略相入]]を示現するとなれば、諸仏・菩薩に二種の法身まします。一には[[法性法身]]、二には[[方便法身]]なり。法性法身によりて方便法身を生ず。方便法身によりて法性法身を出す。この二の法身は異にして分つべからず。一にして同ずべからず。このゆゑに[[広略相入]]して、統(す)ぶるに法の名をもつてす。菩薩もし広略相入を知らざれば、すなはち自利利他することあたはざればなり。 ([[浄土論註 (七祖)#no98|論註 P.139]]) |
− | とあり、浄土の広 ([[三種の荘厳]]) と略 ([[法性]])について述べ、法身の広略について[[方便法身]]と[[法性法身]] | + | とあり、浄土の広 ([[三種の荘厳]]) と略 ([[一法句]]、[[法性]])について述べ、法身の広略について[[方便法身]]と[[法性法身]]について論じられていた。『唯信鈔文意』には「しかれば阿弥陀仏は光明なり、光明は智慧のかたちなりとしるべし」 ([[唯文#P--710|唯文 P.710]])とある。御開山の[[広略相入]]する仏身観はこの[[二種法身]]説に拠られていたのであろう。 |
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− | * | + | *[[一法句]]の「句」を「依事、処」として、言葉や語句の意味ではない、とする見解もあるが、唯一なる法をあらわす<kana>言詮(げんせん)</kana>としての[[一法句]]の解釈が近しいと思ふ。 |
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2024年7月9日 (火) 13:29時点における最新版
いちほっく いっぽっく
真如法性のこと。 →
出典(教学伝道研究センター編『浄土真宗聖典(注釈版)第二版』本願寺出版社
『浄土真宗聖典(注釈版)七祖篇』本願寺出版社
区切り線以下の文章は各投稿者の意見であり本願寺派の見解ではありません。
『浄土真宗聖典(注釈版)七祖篇』本願寺出版社
区切り線以下の文章は各投稿者の意見であり本願寺派の見解ではありません。
いっぽっく 一法句
法を説いた一つの句。 特に世親の浄土論に
- 「一法句といふはいはく、清浄句なり。清浄句といふはいはく、真実智慧無為法身なり」(浄土論 P.38)
とあるので、浄土教では一法句といえばこの句を指す。これについて曇鸞の浄土論註には、浄土の国土・仏・菩薩(三厳)のすぐれたありさまを説いた浄土論の二九句を「広」とし、入一法句を「略」とし、
一法句とは清浄句である。清浄句とは真実の智慧、無為法身であり、そこから如来が顕現し浄土が興起するのであった。真実の智慧、無為法身から衆生の救済が成立するから、その救済が真実であるということになるのである。
『浄土論註』には、
- 上の国土の荘厳十七句と、如来の荘厳八句と、菩薩の荘厳四句とを広となす。 一法句に入るを略となす。なんがゆゑぞ広略相入を示現するとなれば、諸仏・菩薩に二種の法身まします。一には法性法身、二には方便法身なり。法性法身によりて方便法身を生ず。方便法身によりて法性法身を出す。この二の法身は異にして分つべからず。一にして同ずべからず。このゆゑに広略相入して、統(す)ぶるに法の名をもつてす。菩薩もし広略相入を知らざれば、すなはち自利利他することあたはざればなり。 (論註 P.139)
とあり、浄土の広 (三種の荘厳) と略 (一法句、法性)について述べ、法身の広略について方便法身と法性法身について論じられていた。『唯信鈔文意』には「しかれば阿弥陀仏は光明なり、光明は智慧のかたちなりとしるべし」 (唯文 P.710)とある。御開山の広略相入する仏身観はこの二種法身説に拠られていたのであろう。
- 一法句の「句」を「依事、処」として、言葉や語句の意味ではない、とする見解もあるが、唯一なる法をあらわす
言詮 としての一法句の解釈が近しいと思ふ。