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 浄土で阿弥陀仏が説法するときの集会([[広大会]])に参列し聞法する大衆。親鸞聖人は念仏者は現生にありながら、浄土の<kana>眷属(けんぞく)</kana>たらしめられているというので、現生正定聚のことを大会衆といわれた。([[証巻#P--332|証巻 P.332]], [[二門#P--546|二門 P.546]],[[正信大意#P--1031|正信大意 P.1031]])
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 浄土で阿弥陀仏が説法するときの集会([[広大会]])に参列し聞法する大衆。親鸞聖人は[[念仏者]]は[[現生]]にありながら、浄土の<kana>眷属(けんぞく)</kana>たらしめられているというので、[[現生正定聚]]のことを[[大会衆]]といわれた。([[証巻#P--332|証巻 P.332]], [[二門#P--546|二門 P.546]],[[正信大意#P--1031|正信大意 P.1031]])
 
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::功徳大宝海に帰入すれば、かならず'''大会衆'''の数に入ることを獲。([[行巻#天親章|行巻 P.205]])
 
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と「大会衆」とされておられる。この大会衆は『浄土論』の[[五念門]]の第二門の〔なんまんだぶ〕と称える讃歎門釈に、
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と「大会衆」とされておられる。この大会衆は『浄土論』[[五念門]]の第二門の〔なんまんだぶ〕と称える讃歎門成就の「大会衆門釈」に、
 
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:入第二門とは、阿弥陀仏を讃歎し、名義に随順して如来の名を称し、如来の光明智相によりて修行するをもつてのゆゑに、大会衆の数に入ることを得。([[浄土論_(七祖)#P--41|浄土論 P.41]])
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:入第二門とは、阿弥陀仏を讃歎し、名義に随順して如来の名を称し、如来の光明智相によりて修行するをもつてのゆゑに、[[大会衆の数に入る]]ことを得。([[浄土論_(七祖)#P--41|浄土論 P.41]])
 
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の文によるのである。それを『論註』の「荘厳眷属功徳成就」の、
 
の文によるのである。それを『論註』の「荘厳眷属功徳成就」の、
 
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:荘厳眷属功徳成就とは、偈に「[[如来浄華衆…|如来浄華衆 正覚華化生]]」といへるがゆゑなり。
 
:これいかんが不思議なる。おほよそこれ雑生の世界には、もしは胎、もしは卵、もしは湿、もしは化、眷属そこばくなり。苦楽万品なり。雑業をもつてのゆゑなり。
 
:これいかんが不思議なる。おほよそこれ雑生の世界には、もしは胎、もしは卵、もしは湿、もしは化、眷属そこばくなり。苦楽万品なり。雑業をもつてのゆゑなり。
:かの安楽国土はこれ阿弥陀如来正覚浄華の化生するところにあらざるはなし。'''同一に念仏して別の道なきがゆゑなり'''。遠く通ずるにそれ'''四海のうちみな兄弟たり'''。 ([[浄土論註 (七祖)#P--120|論註 P.120]])
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:かの安楽国土はこれ阿弥陀如来正覚浄華の化生するところにあらざるはなし。'''同一に念仏して別の道なきがゆゑなり'''。遠く通ずるにそれ'''四海のうちみな兄弟たり'''。眷属無量なり。いづくんぞ思議すべきや。  ([[浄土論註 (七祖)#P--120|論註 P.120]])
  
 
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の文によって、大会衆とは同一念仏の衆であるとされたのである。
 
の文によって、大会衆とは同一念仏の衆であるとされたのである。
そして「同一念仏無別道故」の文を「行巻」「証巻」「真巻」で引文されておられるのだが、この意を窺えば、ただいまわたくしが一心に〔なんまんだぶ〕を称えて聞いていることは「遠く通ずるにそれ四海のうちみな兄弟たり」という眷属功徳成就の成就であり、わたくしの上に本願が成就して浄土の大会衆のともがら(聚)であることを指しているとされたのであろう。これは『選択本願念仏集』の結論である「三選の文」に、
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そして「同一念仏無別道故」の文を「行巻」「証巻」「真巻」で引文されておられるのだが、この意を窺えば、ただいまわたくしが一向に〔なんまんだぶ〕を称えて聞いていることは「遠く通ずるにそれ四海のうちみな兄弟たり」という眷属功徳の成就であり、わたくしの上に本願が成就して浄土の大会衆のともがら(聚)と等しい功徳を得ていることを指しているとされたのであろう。<br />
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これは『選択本願念仏集』の結論である「[[夫速欲離生死…|三選の文]]」に、
 
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:正定の業とは、すなはちこれ仏名を称するなり。
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:名を称すれば、かならず生ずることを得。仏の本願によるがゆゑなり(称名必得生 依仏本願故) ([[選択本願念仏集 (七祖)#三選の文|選択集 P.1285]]) ([[行巻#P--186|行巻 P.186 で引文]])
 
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という言(ことば)を、曇鸞大師の『論註』の指示によって再確認されたのであった。
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という「称名必得生 依仏本願故」の言(ことば)を、曇鸞大師の『論註』の指示によって「同一に念仏して別の道なきがゆゑなり」の意を再確認されたのであった。
  
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御開山は『[[入出二門偈]]』(84歳著述)では、
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時々、作願門(śamatha シャマタ)と観察門(vipaśyanā ヴィパシュヤナー)の止・観行を往生後の修行ととる人もいるのだが、御開山の[[難思議往生]]の意は[[往生即成仏]]であるから往生後の修行はなく[[還相]]の[[園林遊戯地門]]の[[利他教化地]]の益があるのであった。
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:→[[大会衆の数に…]]
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2024年7月10日 (水) 17:10時点における最新版

だいえ-しゅ

 浄土で阿弥陀仏が説法するときの集会(広大会)に参列し聞法する大衆。親鸞聖人は念仏者現生にありながら、浄土の眷属(けんぞく)たらしめられているというので、現生正定聚のことを大会衆といわれた。(証巻 P.332, 二門 P.546,正信大意 P.1031)

出典(教学伝道研究センター編『浄土真宗聖典(注釈版)第二版』本願寺出版社
『浄土真宗聖典(注釈版)七祖篇』本願寺出版社

区切り線以下の文章は各投稿者の意見であり本願寺派の見解ではありません。

御開山は「正信念仏偈」の天親章に、

広由本願力回向 為度群生彰一心
広く本願力の回向によりて、群生を度せんがために一心を彰す。
帰入功徳大宝海 必獲入大会衆数
功徳大宝海に帰入すれば、かならず大会衆の数に入ることを獲。(行巻 P.205)

と「大会衆」とされておられる。この大会衆は『浄土論』五念門の第二門の〔なんまんだぶ〕と称える讃歎門成就の「大会衆門釈」に、

入第二門とは、阿弥陀仏を讃歎し、名義に随順して如来の名を称し、如来の光明智相によりて修行するをもつてのゆゑに、大会衆の数に入ることを得。(浄土論 P.41)

の文によるのである。それを『論註』の「荘厳眷属功徳成就」の、

荘厳眷属功徳成就とは、偈に「如来浄華衆 正覚華化生」といへるがゆゑなり。
これいかんが不思議なる。おほよそこれ雑生の世界には、もしは胎、もしは卵、もしは湿、もしは化、眷属そこばくなり。苦楽万品なり。雑業をもつてのゆゑなり。
かの安楽国土はこれ阿弥陀如来正覚浄華の化生するところにあらざるはなし。同一に念仏して別の道なきがゆゑなり。遠く通ずるにそれ四海のうちみな兄弟たり。眷属無量なり。いづくんぞ思議すべきや。  (論註 P.120)

の文によって、大会衆とは同一念仏の衆であるとされたのである。 そして「同一念仏無別道故」の文を「行巻」「証巻」「真巻」で引文されておられるのだが、この意を窺えば、ただいまわたくしが一向に〔なんまんだぶ〕を称えて聞いていることは「遠く通ずるにそれ四海のうちみな兄弟たり」という眷属功徳の成就であり、わたくしの上に本願が成就して浄土の大会衆のともがら(聚)と等しい功徳を得ていることを指しているとされたのであろう。
これは『選択本願念仏集』の結論である「三選の文」に、

正定の業とは、すなはちこれ仏名を称するなり。
名を称すれば、かならず生ずることを得。仏の本願によるがゆゑなり(称名必得生 依仏本願故) (選択集 P.1285) (行巻 P.186 で引文)

という「称名必得生 依仏本願故」の言(ことば)を、曇鸞大師の『論註』の指示によって「同一に念仏して別の道なきがゆゑなり」の意を再確認されたのであった。

御開山は『入出二門偈』(84歳著述)では、

願力成就を五念と名づく、仏をしていはばよろしく利他といふべし。衆生をしていはば他利といふべし。まさに知るべし、いままさに仏力を談ぜんとす。 (二門偈 P.548)

と、元来は往生人の所修する五念門を、願力成就として法蔵菩薩所修の因行として成就した五念門と解釈しておられた。
時々、作願門(śamatha シャマタ)と観察門(vipaśyanā ヴィパシュヤナー)の止・観行を往生後の修行ととる人もいるのだが、御開山の難思議往生の意は往生即成仏であるから往生後の修行はなく還相園林遊戯地門利他教化地の益があるのであった。

大会衆の数に…
凡数の摂
正定聚
正覚