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 七祖の聖典には、女性や障害者の差別に関わる言葉が多くみられる。
 
 七祖の聖典には、女性や障害者の差別に関わる言葉が多くみられる。
  
 『浄土論』には、「大乗善根の界は、等しくして譏嫌の名なし、女人および根欠、二乗の種生ぜず」と、浄土は平等なさとりの世界であるから、女人と根欠と二乗の三種が存在しないと説かれている。ここでいわれる譏嫌とは、成仏できないものとして嫌われることを意味していたが、『論註』(上 七三) では、「譏嫌名」に、世間的なそしりの意味も含めて釈している。
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 『浄土論』には、「大乗善根の界は、等しくして[[譏嫌]]の名なし、女人および根欠、二乗の種生ぜず」と、浄土は平等なさとりの世界であるから、女人と根欠と二乗の三種が存在しないと説かれている。ここでいわれる譏嫌とは、成仏できないものとして嫌われることを意味していたが、『論註』([[浄土論註 (七祖)#no25|上 七三]]) では、「譏嫌名」に、世間的なそしりの意味も含めて釈している。
  
 この聖典が成立した当時の社会では、女人や根欠 (障害者) を卑しく劣ったものとする考えが支配的であった。そうしたなかにあって、この教説は浄土の絶対平等性 (浄土には、差別の対象としての体もなく、またその名さえもない絶対平等の世界であること) をあらわすことによって、差別の社会通念を破り、女人や根欠に救いをもたらそうとしたものである。また、二乗とは声聞・縁覚という小乗の行者のことであって、仏になれないものとされていた。
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 この聖典が成立した当時の社会では、女人や根欠 (障害者) を卑しく劣ったものとする考えが支配的であった。そうしたなかにあって、この教説は浄土の絶対平等性 (浄土には、差別の対象としての体もなく、またその名さえもない絶対平等の世界であること) をあらわすことによって、差別の社会通念を破り、女人や根欠に救いをもたらそうとしたものである。また、二乗とは[[声聞]]・[[縁覚]]という小乗の行者のことであって、仏になれないものとされていた。
  
 
 浄土の絶対平等性は、女人や根欠の存在を否定するが、しかし、このことは、現代の一般社会に深く根ざす差別思想、すなわち女性は不浄な存在であり男性よりも罪深いものであるとか、障害者は劣ったものであるとする差別の現実をそのまま肯定することでは決してない。むしろ、浄土の平等性を通して、常に現実の差別を自己の問題として捉えていく営みが大切であることを教え示すものとして受けとめていかねばならないであろう。
 
 浄土の絶対平等性は、女人や根欠の存在を否定するが、しかし、このことは、現代の一般社会に深く根ざす差別思想、すなわち女性は不浄な存在であり男性よりも罪深いものであるとか、障害者は劣ったものであるとする差別の現実をそのまま肯定することでは決してない。むしろ、浄土の平等性を通して、常に現実の差別を自己の問題として捉えていく営みが大切であることを教え示すものとして受けとめていかねばならないであろう。
  
 ところで、七祖の聖典には、「女人・聾・盲」など、女性・障害に関わる言葉が譬喩としてよく使われているが、その多くは差別的な、悪い意味で用いられている。たとえば、『論註』(上 七六) に、浄土にはそしり、きらわれるような名さえもないということをあらわすのに、「人の諂曲なると、あるいはまた儜弱なるを、譏りて女人といふがごとし。また眼あきらかなりといへども事を識らざるを、譏りて盲人といふがごとし。また耳聴くといへども、義を聴きて解らざるを、譏りて聾人といふがごとし。(中略) かくのごとき等ありて、根具足せりといへども譏嫌の名あり」とか、無碍光如来の光明は一切に及ぶが、妨げは衆生の側にあることをあらわすのに、「たとへば日光は四天下にあまねけれども、盲者は見ざるがごとし。日光のあまねかざるにはあらず」などと、世間では、女性や障害者のすがたをそしりきらうことの譬喩として用いているといわれるものがそれである。「喩えは一分」といわれるように、その全体を表現するものではないが、内容を容易に理解せしめるものとして仏典にはこのような譬喩が多く用いられている。しかし、たとえ譬喩としてであれ、このように女性や身心に障害のある者をそしりの言葉として用いることは、女性や障害者に対する差別を肯定し助長していくことになる。このことが今もなお行われているということは、大きな誤りであるといわねばならない。
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 ところで、七祖の聖典には、「女人・聾・盲」など、女性・障害に関わる言葉が[[譬喩]]としてよく使われているが、その多くは差別的な、悪い意味で用いられている。たとえば、『論註』([[浄土論註 (七祖)#P--76|上 七六]]) に、浄土にはそしり、きらわれるような名さえもないということをあらわすのに、「人の[[諂曲]]なると、あるいはまた[[儜弱]]なるを、譏りて女人といふがごとし。また眼あきらかなりといへども事を識らざるを、譏りて盲人といふがごとし。また耳聴くといへども、義を聴きて解らざるを、譏りて聾人といふがごとし。(中略) かくのごとき等ありて、根具足せりといへども譏嫌の名あり」とか、無碍光如来の光明は一切に及ぶが、妨げは衆生の側にあることをあらわすのに、「たとへば日光は四天下にあまねけれども、盲者は見ざるがごとし。日光のあまねかざるにはあらず」などと、世間では、女性や障害者のすがたをそしりきらうことの譬喩として用いているといわれるものがそれである。「喩えは一分」といわれるように、その全体を表現するものではないが、内容を容易に理解せしめるものとして仏典にはこのような譬喩が多く用いられている。しかし、たとえ譬喩としてであれ、このように女性や身心に障害のある者をそしりの言葉として用いることは、女性や障害者に対する差別を肯定し助長していくことになる。このことが今もなお行われているということは、大きな誤りであるといわねばならない。
  
 
 なお、この性や障害が前生の業と結びつけて考えられ、差別を温存し助長してきたということにも、十分に留意しなければならない。
 
 なお、この性や障害が前生の業と結びつけて考えられ、差別を温存し助長してきたということにも、十分に留意しなければならない。

2018年2月15日 (木) 16:44時点における最新版

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七祖聖教 補 注

七祖-補註1 阿弥陀仏
七祖-補註2 往生・浄土
七祖-補註3 機・衆生
七祖-補註4 教
七祖-補註5 行
七祖-補註6 業・宿業
七祖-補註7 信
七祖-補註8 旃陀羅
七祖-補註9 他力
七祖-補註10 女人・根欠…
七祖-補註11 菩薩
七祖-補註12 本願
→注釈版 補注へ

10 女人・根欠・二乗種不生

 七祖の聖典には、女性や障害者の差別に関わる言葉が多くみられる。

 『浄土論』には、「大乗善根の界は、等しくして譏嫌の名なし、女人および根欠、二乗の種生ぜず」と、浄土は平等なさとりの世界であるから、女人と根欠と二乗の三種が存在しないと説かれている。ここでいわれる譏嫌とは、成仏できないものとして嫌われることを意味していたが、『論註』(上 七三) では、「譏嫌名」に、世間的なそしりの意味も含めて釈している。

 この聖典が成立した当時の社会では、女人や根欠 (障害者) を卑しく劣ったものとする考えが支配的であった。そうしたなかにあって、この教説は浄土の絶対平等性 (浄土には、差別の対象としての体もなく、またその名さえもない絶対平等の世界であること) をあらわすことによって、差別の社会通念を破り、女人や根欠に救いをもたらそうとしたものである。また、二乗とは声聞縁覚という小乗の行者のことであって、仏になれないものとされていた。

 浄土の絶対平等性は、女人や根欠の存在を否定するが、しかし、このことは、現代の一般社会に深く根ざす差別思想、すなわち女性は不浄な存在であり男性よりも罪深いものであるとか、障害者は劣ったものであるとする差別の現実をそのまま肯定することでは決してない。むしろ、浄土の平等性を通して、常に現実の差別を自己の問題として捉えていく営みが大切であることを教え示すものとして受けとめていかねばならないであろう。

 ところで、七祖の聖典には、「女人・聾・盲」など、女性・障害に関わる言葉が譬喩としてよく使われているが、その多くは差別的な、悪い意味で用いられている。たとえば、『論註』(上 七六) に、浄土にはそしり、きらわれるような名さえもないということをあらわすのに、「人の諂曲なると、あるいはまた儜弱なるを、譏りて女人といふがごとし。また眼あきらかなりといへども事を識らざるを、譏りて盲人といふがごとし。また耳聴くといへども、義を聴きて解らざるを、譏りて聾人といふがごとし。(中略) かくのごとき等ありて、根具足せりといへども譏嫌の名あり」とか、無碍光如来の光明は一切に及ぶが、妨げは衆生の側にあることをあらわすのに、「たとへば日光は四天下にあまねけれども、盲者は見ざるがごとし。日光のあまねかざるにはあらず」などと、世間では、女性や障害者のすがたをそしりきらうことの譬喩として用いているといわれるものがそれである。「喩えは一分」といわれるように、その全体を表現するものではないが、内容を容易に理解せしめるものとして仏典にはこのような譬喩が多く用いられている。しかし、たとえ譬喩としてであれ、このように女性や身心に障害のある者をそしりの言葉として用いることは、女性や障害者に対する差別を肯定し助長していくことになる。このことが今もなお行われているということは、大きな誤りであるといわねばならない。

 なお、この性や障害が前生の業と結びつけて考えられ、差別を温存し助長してきたということにも、十分に留意しなければならない。