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しんぶつでし
 
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 →[[補註6]]   ([[愚禿下#P--523|愚禿下 P.523]])
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真仏弟子
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真実信心の'''[[念仏者は…|念仏者]]'''のこと。阿弥陀仏の本願に随順し、釈尊の教説に随順し、諸仏の教意に随順するものであるから、このように呼ばれる。また[[分陀利華]]に譬えてほめたたえられている。「信巻」には、
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:真の仏弟子といふは、真の言は偽に対し仮に対するなり。弟子とは釈迦諸仏の弟子なり、金剛心の行人なり。この信行によりてかならず大涅槃を超証すべきがゆゑに、真の仏弟子といふ。([[信巻末#の84|信巻 P.256]])<br />
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とある。→[[如来とひとし]], →[[便同弥勒]] (浄土真宗辞典)
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伝統的には、仏弟子とは釈尊の弟子をいうのであるが、御開山は「弟子とは釈迦諸仏の弟子なり、金剛心の行人なり」と、釈迦・諸仏の弟子とされているところに特徴がある。釈尊は阿弥陀仏の[[第十七願]]に応じて顕現した[[諸仏]]とみられているのであろう。また、金剛心の行人として「この[[信行]]によりてかならず大涅槃を超証すべきがゆゑに、真の仏弟子といふ」とされ、真実信心(金剛心)を具して他力念仏(なんまんだぶ)を行じ、必ず大涅槃を証する者が「真仏弟子」であるとされておられるのであった。なお、阿弥陀仏は釈迦・諸仏が説いてくださった救主であって教主ではないから「弟子とは釈迦諸仏の弟子なり」として、阿弥陀仏の弟子とはいわない、為念。<br />
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 御開山は「散善義」の深心釈を七深信に分けて考察された。『愚禿鈔』では、第五深信の「唯信仏語」に「利他信心」と註記されておられ「真仏弟子」について述べられている。 ([[愚禿下#no54|愚禿下 P.522]])<br />
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2020年1月24日 (金) 17:11時点における最新版

しんぶつでし

 →補註6(正定聚)  (愚禿下 P.523)

出典(教学伝道研究センター編『浄土真宗聖典(注釈版)第二版』本願寺出版社
『浄土真宗聖典(注釈版)七祖篇』本願寺出版社

区切り線以下の文章は各投稿者の意見であり本願寺派の見解ではありません。

真仏弟子

真実信心の念仏者のこと。阿弥陀仏の本願に随順し、釈尊の教説に随順し、諸仏の教意に随順するものであるから、このように呼ばれる。また分陀利華に譬えてほめたたえられている。「信巻」には、

真の仏弟子といふは、真の言は偽に対し仮に対するなり。弟子とは釈迦諸仏の弟子なり、金剛心の行人なり。この信行によりてかならず大涅槃を超証すべきがゆゑに、真の仏弟子といふ。(信巻 P.256)

とある。→如来とひとし, →便同弥勒 (浄土真宗辞典)

伝統的には、仏弟子とは釈尊の弟子をいうのであるが、御開山は「弟子とは釈迦諸仏の弟子なり、金剛心の行人なり」と、釈迦・諸仏の弟子とされているところに特徴がある。釈尊は阿弥陀仏の第十七願に応じて顕現した諸仏とみられているのであろう。また、金剛心の行人として「この信行によりてかならず大涅槃を超証すべきがゆゑに、真の仏弟子といふ」とされ、真実信心(金剛心)を具して他力念仏(なんまんだぶ)を行じ、必ず大涅槃を証する者が「真仏弟子」であるとされておられるのであった。なお、阿弥陀仏は釈迦・諸仏が説いてくださった救主であって教主ではないから「弟子とは釈迦諸仏の弟子なり」として、阿弥陀仏の弟子とはいわない、為念。
 御開山は「散善義」の深心釈を七深信に分けて考察された。『愚禿鈔』では、第五深信の「唯信仏語」に「利他信心」と註記されておられ「真仏弟子」について述べられている。 (愚禿下 P.522)

インクルード ノート:第五

「唯信仏語」についての、三遣・三随順 (愚禿下 P.522)

また深信とは、仰ぎ願はくは、一切の行者等、一心にただ仏語を信じて身命を顧みず、決定して依行し、

仏の捨て遣(し)めたまふをばすなはち捨て、
(雑行雑修を捨てて)
仏の行ぜ遣(し)めたまふをばすなはち行じ、
(正行(念仏)を行じ)
仏の去ら遣(し)めたまふ処をばすなはち去る。
(異学異解雑縁乱動のところを去れ)
これを仏教に随順し、
(釈尊の教え[仏教]に随順し)
仏意に随順すと名づけ、
(諸仏の意[仏意]に随順と名づけ)
これを仏願に随順すと名づく。
(阿弥陀仏の願[本願]に随順すると名づける。)
これを真の仏弟子と名づく。
(このような者を真の仏弟子と名づけるのである)