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覚如上人の『口伝鈔』にあるように、「まづ凡夫は、ことにおいてつたなく愚かなり」([[口伝鈔#no17|口伝鈔 P.904]])である。<br />
 
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そもそも、御開山の師である法然聖人が開宗された「[[浄土宗]]」とは「往生浄土宗」の意である。往生の語を略して浄土宗というのであった。御開山はこの法然聖人の開示された浄土宗の真実の義を展開して「[[浄土真宗]]」とよばれたのであった。法然聖人の説かれた浄土宗の真実の意味を洞察して、阿弥陀如来の本願力回向の宗旨を御開山は浄土真宗と名づけられたのである<ref>御開山は、浄土真宗を開かれたのは法然聖人であるともされておられた。
 
:智慧光のちからより
 
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: 選択本願のべたまふ ([[高僧和讃#no99|高僧 P.595]])
 
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凡夫の想い、「凡情を遮せず」とは、このような凡夫のおもいを遮すのではなく、「遮せず」というご法義である。仏陀のさとりの世界には凡夫は居ないのであるが、往生を願う者には、想うように思わせておけということである。これを古来から「凡情を遮せず」というのであった。<br />
 
凡夫の想い、「凡情を遮せず」とは、このような凡夫のおもいを遮すのではなく、「遮せず」というご法義である。仏陀のさとりの世界には凡夫は居ないのであるが、往生を願う者には、想うように思わせておけということである。これを古来から「凡情を遮せず」というのであった。<br />
ただ、浄土はさとりの界(さかい)であるから、[[kotoba:凡情|凡情]]の凡夫だらけの界ではない。その意を、先人は、真実のさとりの浄土へ往生すれば「凡情に応ぜず」という世界であると示して下さった。'''「凡情を遮せず、凡情に応ぜず」'''である。浄土は凡夫の情に応じた世界ではない、阿弥陀仏のさとりの[[無生の生]]の世界だからである。<br />
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ただ、浄土はさとりの界(さかい)であるから、[[凡情]]の凡夫だらけの界ではない。その意を、先人は、真実のさとりの浄土へ往生すれば「凡情に応ぜず」という世界であると示して下さった。'''「凡情を遮せず、凡情に応ぜず」'''である。浄土は凡夫の情に応じた世界ではない、阿弥陀仏のさとりの[[無生の生]]の世界だからである。<br />
 
曇鸞大師はこの意を巧みな譬喩(<kana>氷上燃火(ひょうじょう-ねんか)</kana>)で示して下さった。
 
曇鸞大師はこの意を巧みな譬喩(<kana>氷上燃火(ひょうじょう-ねんか)</kana>)で示して下さった。
 
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見生の火とは浄土を実体とみる[[凡情]]であるが、「ただ仏名(なんまんだぶ)を称する力をもつて往生の意」をなす者は、氷の上で火を燃やせば氷がとけて火が消えるように、凡夫の抱く見生の火は浄土に往生すれば自然に滅するのである。浄土真宗のご法義は、[[本願]]に選択された、なんまんだぶを称えて浄土に往生して生死を超える仏法なのである。<br />
 
あなたの信心も、あなたの安心も真実ではないから、阿弥陀仏の選択された名号(なんまんだぶ)を称えて、我が国に生まれんと欲(おも)えというのが、御開山がお示しくださったご法義である。
 
あなたの信心も、あなたの安心も真実ではないから、阿弥陀仏の選択された名号(なんまんだぶ)を称えて、我が国に生まれんと欲(おも)えというのが、御開山がお示しくださったご法義である。
  
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本願力回向の他力とは、私が選んだ私の行(行為)ではなく、あらゆる生きとし生ける者を、我が国に生まれさせんと立ち上がった阿弥陀さまの[[願心]]に立脚する法義であったからこそ、私の側の[[凡情]]には意味を持たせないから「'''凡情を遮せず、凡情に応ぜず'''」なのであった。
  
 
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:→[[凡情]]
 
:→[[浄土宗の人は愚者になりて往生す]]
 
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:→[[指方立相]]
 
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2024年9月7日 (土) 00:22時点における最新版

ぼんじょう-を-しゃ-せず

 凡夫浄土に対する情(こころ、おもひ)をあながちに遮蔽しないこと。この世の凡夫においては、浄土に対しての凡夫の情念情感をむやみにさえぎる(遮)ことはしないという意。想いたいように思っていればよいということ。

覚如上人の『口伝鈔』にあるように、「まづ凡夫は、ことにおいてつたなく愚かなり」(口伝鈔 P.904)である。

そもそも、御開山の師である法然聖人が開宗された「浄土宗」とは「往生浄土宗」の意である。往生の語を略して浄土宗というのであった。御開山はこの法然聖人の開示された浄土宗の真実の義を展開して「浄土真宗」とよばれたのであった。法然聖人の説かれた浄土宗の真実の意味を洞察して、阿弥陀如来の本願力回向の宗旨を御開山は浄土真宗と名づけられたのである[1]
 浄土の真実をとするとは、自らの内に全く真実が存在しないということである。その真実の欠片すら持ち合わせていない者が、阿弥陀如来のさとりの顕現である浄土が解るはずがないから凡情なのである。

さて、あらゆる諸仏が阿弥陀仏の本願讃嘆する『阿弥陀経』(*)によれば、浄土(極楽)は太陽の沈む西方十万億仏土を超えた処(ところ)にある阿弥陀如来の仏国である。そして覚りの世界であるにも関わらず、七宝の池があり楼閣あり、車輪のごとき蓮華が咲き誇る国だと説かれてある。もちろんさとりの象徴表現ではあるのだが、実に凡夫向けの世界が説かれてある。
『阿弥陀経』では「倶会一処(くえ-いっしょ)(ともに一処に会する)」と、先立った懐かしい人々と、また会える世界が用意してあるのですよと告げる。本来なら浄土は「無生の生」といわれる世界なのであるが、凡夫にも理解出来るような説き方がされているのは大悲の極みであろう。如来の智慧が、智慧そのままで大悲の顕現として説かれているのが、浄土教の浄土である。
 太陽の沈む西方に、阿弥陀さまのお覚りの世界があるのですよ。なんまんだぶを称える者は、やがてこの命、終わった時にその世界へ往生して、今度という今度は、自分のことばかりで悩み苦しむのではなく、あらゆる衆生(生きとし生ける者)に寄り添って、お念仏しましょうとのお勧めが出来る者になるのですよというのが浄土真宗のご法義である。

凡夫の想い、「凡情を遮せず」とは、このような凡夫のおもいを遮すのではなく、「遮せず」というご法義である。仏陀のさとりの世界には凡夫は居ないのであるが、往生を願う者には、想うように思わせておけということである。これを古来から「凡情を遮せず」というのであった。
ただ、浄土はさとりの界(さかい)であるから、凡情の凡夫だらけの界ではない。その意を、先人は、真実のさとりの浄土へ往生すれば「凡情に応ぜず」という世界であると示して下さった。「凡情を遮せず、凡情に応ぜず」である。浄土は凡夫の情に応じた世界ではない、阿弥陀仏のさとりの無生の生の世界だからである。
曇鸞大師はこの意を巧みな譬喩(氷上燃火(ひょうじょう-ねんか))で示して下さった。

かの清浄仏土に阿弥陀如来無上の宝珠まします。無量の荘厳功徳成就の帛(きぬ)をもつて裹(つつ)みて、これを往生するところのひとの心水に投ぐれば、あに生見を転じて無生の智となすことあたはざらんや。
 また氷の上に火を燃(た)くに、火猛(たけ)ければすなはち氷解く。氷解くればすなはち火滅するがごとし。かの下品の人、法性無生を知らずといへども、ただ仏名を称する力をもつて往生の意(こころ)をなして、かの土に生ぜんと願ずるに、かの土はこれ無生の界なれば、見生の火、自然に滅するなり。(論註P.126)

見生の火とは浄土を実体とみる凡情であるが、「ただ仏名(なんまんだぶ)を称する力をもつて往生の意」をなす者は、氷の上で火を燃やせば氷がとけて火が消えるように、凡夫の抱く見生の火は浄土に往生すれば自然に滅するのである。浄土真宗のご法義は、本願に選択された、なんまんだぶを称えて浄土に往生して生死を超える仏法なのである。
あなたの信心も、あなたの安心も真実ではないから、阿弥陀仏の選択された名号(なんまんだぶ)を称えて、我が国に生まれんと欲(おも)えというのが、御開山がお示しくださったご法義である。

本願力回向の他力とは、私が選んだ私の行(行為)ではなく、あらゆる生きとし生ける者を、我が国に生まれさせんと立ち上がった阿弥陀さまの願心に立脚する法義であったからこそ、私の側の凡情には意味を持たせないから「凡情を遮せず、凡情に応ぜず」なのであった。

なんまんだぶ なんまんだぶ なんまんだぶ

凡情
浄土宗の人は愚者になりて往生す
指方立相
往生
必然の義
不改の義
仏願の生起本末
聴聞
聞即信

  1. 御開山は、浄土真宗を開かれたのは法然聖人であるともされておられた。
    智慧光のちからより
     本師源空あらはれて
     浄土真宗をひらきつつ
     選択本願のべたまふ (高僧 P.595)