「七地沈空の難」の版間の差分
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その難を避けるために次下に、 | その難を避けるために次下に、 | ||
− | :その時に、もし十方諸仏の神力の[[加勧]]を得ずは、すなはち[[滅度]]して[[二乗]]と異なることなからん。菩薩もし{{DotUL|安楽に往生して阿弥陀仏を見たてまつれば、すなはちこの難なし。}} | + | :その時に、もし十方諸仏の神力の[[加勧]]を得ずは、すなはち[[滅度]]して[[二乗]]と異なることなからん。菩薩もし{{DotUL|安楽に往生して阿弥陀仏を見たてまつれば、すなはちこの難なし。}}([[浄土論註 (七祖)#P--133|論註 P.133]])、([[証巻#P--315|証巻引文 P.315]]) |
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2024年1月28日 (日) 02:53時点における最新版
しちじ-ちんくうの-なん
しちじ-ちんくうの-なん
菩薩の階位である第七地に至ると、空の理に沈んで修行する意欲を失うおそれがあること。『論註』には、
- 菩薩、七地のなかにして大寂滅を得れば、上に諸仏の求むべきを見ず、下に衆生の度すべきを見ず。仏道を捨てて実際を証せんと欲す。(論註 P.133)、(証巻引文 P.315)
とある。 (浄土真宗辞典)
と、大乗の菩薩道の難として菩薩の階位47位(十地の七地)で空理の陥穽(ニヒリズム)に陥り、上求菩提・下化衆生を忘れることを七地沈空の難といふ。
七地の菩薩は煩悩障を断滅して我執が完全に排除される。それは小乗の阿羅漢の悟りに相当する空滅の境地である。それは、空の境地を得る故にすでに自身の解脱は成し遂げたので、上に求めるべき菩提も下に救うべき衆生もないと思って修行を中断する。
その難を避けるために次下に、
- その時に、もし十方諸仏の神力の加勧を得ずは、すなはち滅度して二乗と異なることなからん。菩薩もし安楽に往生して阿弥陀仏を見たてまつれば、すなはちこの難なし。(論註 P.133)、(証巻引文 P.315)
と、阿弥陀仏にまみえるために浄土に往生するのであった。
空理に入ったが、かえってその空にとらわれて大乗菩薩の総願である四弘誓願の「衆生無辺誓願度」に背き下化衆生を放棄すること。いわゆる自利に安住して利他の精神を忘れ大乗菩薩道を失する難をいう。また身心ともに完全に無に帰する小乗の無余涅槃(灰身滅智)の難でもある。
現代人の、死ねばすべて無に帰するという発想も、御開山の示された往相・還相の躍動する浄土をもたない、沈空(空理に沈む現代人のニヒリズム)の難だともいえるであろう。
御開山は浄土の菩提心を、
- 浄土の大菩提心は
- 願作仏心をすすめしむ
- すなはち願作仏心を
- 度衆生心となづけたり (正像 P.603)