「同一念仏…」の版間の差分
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とある。</ref>{{DotUL|のゆへ、かなふべからずとおぼしめして、名号を本願と立たまへり}}。この名号はいかなる乱想の中にも称すべし。称すれば、法蔵菩薩の昔の願に、心をかけむとせざれとも、自然にこれこそ本願よとおぼゆべきは、この名号なり。しかれば、別に因位の本願を縁ぜむと、おもふべきにあらず。([[hwiki:西方指南抄/中末#P--178|『西方指南抄』四箇条問答p.178|]]) {{BT|mark}} | とある。</ref>{{DotUL|のゆへ、かなふべからずとおぼしめして、名号を本願と立たまへり}}。この名号はいかなる乱想の中にも称すべし。称すれば、法蔵菩薩の昔の願に、心をかけむとせざれとも、自然にこれこそ本願よとおぼゆべきは、この名号なり。しかれば、別に因位の本願を縁ぜむと、おもふべきにあらず。([[hwiki:西方指南抄/中末#P--178|『西方指南抄』四箇条問答p.178|]]) {{BT|mark}} | ||
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2020年1月12日 (日) 10:22時点における版
同一念仏 無別道故 どういつねんぶつ-むべつどうこ
「同一に念仏して別の道なきがゆゑに」(行巻訓) (行巻 P.186,証巻 P.310,真巻 P.372,二門 P.546 ,一代記 P.1320)
出典(教学伝道研究センター編『浄土真宗聖典(注釈版)第二版』本願寺出版社
『浄土真宗聖典(注釈版)七祖篇』本願寺出版社
区切り線以下の文章は各投稿者の意見であり本願寺派の見解ではありません。
『浄土真宗聖典(注釈版)七祖篇』本願寺出版社
区切り線以下の文章は各投稿者の意見であり本願寺派の見解ではありません。
『論註』では『浄土論』の「如来浄華衆 正覚華化生」(浄土論 P.30) の偈文を釈して、
と「同一念仏 無別道故」とされていた。浄土へ生まれるとは、生死輪廻による四生 (胎・卵・湿・化)という生まれ方ではなく、浄土の阿弥陀仏の正覚の蓮華に化生[1]するのであった。
法然聖人は「往生と言うは、
御開山は「行巻」で、その意を、
- ここをもつて『論の註』にいはく、「かの安楽国土は、阿弥陀如来の正覚浄華の化生するところにあらざることなし。同一に念仏して別の道なきがゆゑに」とのたまへり。(行巻 P.186)
と、『論註』の文を念仏を称えて「念仏成仏」する文証として引文されておられた。
なお、御開山が晩年に述された法然聖人の法語集である『西方指南抄』では、一声や一念の信に固執して称名(なんまんだぶ)をおろそかにして相続(次々に続くこと)しないことを、
- 問。法蔵菩薩の本願の約束は、十声・一声なり。一称ののちは、法蔵菩薩の因位の本誓に心をかけて、名号おば称すべからざるにや。
新井俊一著『西方指南抄』現代語より。
- 問。法蔵菩薩の本願のお約束は、十声でも一声でも称える者を往生させるというものです。一度名号を称えた後は、法蔵菩薩の因位の本誓に心をかけることが大切で、さらに名号を称えるべきではないのではありませんか。
- 答。教えを深く理解していない人は、このように思って、因位の願を心に懸けないで申す念仏は往生のためには効果がないと思って、念仏に善い念仏と悪い念仏があるかのように言っています。これは教えを十分に理解していないからです。法蔵菩薩はその五劫の思惟の中で、衆生が心の中で仏を念ずることを基本とすると、意識が落ち着かず心があちこちに飛ぶので往生を遂げられない、と思われて、名号を本願として立てられたのです。
- この名号はいかに心が乱れていても、称えることができます。名号を称えると、法蔵菩薩の昔の願に心を懸けようとしなくても、自然に、これこそ本願であったと、と気づかされるのがこの名号です。
- 従って、念仏する時はことさらに、法蔵菩薩の本願を心に懸けなければならない、と思う必要はありません。 「隠/顕」
と、なんまんだぶに自らの計らいをするべきではないされておられた。
なお『浄土論』の
と和讃され、『論註』の
と和讃されておられる。
- ↑ 化生。ここでは、自然に生滅を超えた無生の生を受けることを化生といふ。
- ↑ 願を縁ぜざる時の念仏。心にしっかり本願を思い浮かべないで称える念仏の意。縁ずるとは、対象を認識するという意味。
- ↑ 念仏に善悪をあらす。念仏に善悪があると思って。(生(あ)らす、生ずるの意か)。
- ↑ 無按内。物事の意味や事情などを心得ないこと。
- ↑ 意念を本。意念とは観像や観想の念仏を指すのであろう。
- ↑ 識揚神飛。識揚がり神飛ぶ。心のはたらきがうわつき、精神がつねに動揺すること。『礼讃』には「すなはち衆生障重くして、境は細に心は粗なるによりて、識颺り神飛びて、観成就しがたし。ここをもつて大聖(釈尊)悲憐して、ただ勧めてもつぱら名字を称せしむ。まさしく称名は易きによるがゆゑに、相続してすなはち生ず」(往生礼讃 P.658) とある。