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::もし衆生ありてかの国に生ぜんと願ずるものは、三種の心を発して[[即便往生]]す。なんらをか三つとする。一つには[[至誠心]]、二つには[[深心]]、三つには[[回向発願心]]なり。[[三心]]を具するものは、かならずかの国に生ず。
 
::もし衆生ありてかの国に生ぜんと願ずるものは、三種の心を発して[[即便往生]]す。なんらをか三つとする。一つには[[至誠心]]、二つには[[深心]]、三つには[[回向発願心]]なり。[[三心]]を具するものは、かならずかの国に生ず。
 
と説かれる三心の一つ。この文は「略観経」ともいわれ「具三心者 必生彼国 (三心を具するものは、かならずかの国に生ず)」の「必生」の語に古くから浄土門では深い関心を寄せられていた。<br />
 
と説かれる三心の一つ。この文は「略観経」ともいわれ「具三心者 必生彼国 (三心を具するものは、かならずかの国に生ず)」の「必生」の語に古くから浄土門では深い関心を寄せられていた。<br />
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善導大師は『観経疏』では、この至誠心を、
 
善導大師は『観経疏』では、この至誠心を、
:経云 一者至誠心 至者真 誠者実。
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;善導大師の読み
:欲明一切衆生 身口意業 所修解行 必須真実心中作。
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{{Inyou|
:不得外現賢善精進之相 内懐虚仮。
+
経云、一者至誠心。至者真、誠者実。
::『経』(観経)にのたまはく、〈一者至誠心〉。至とは真なり、誠とは実なり。一切衆生の[[身口意]]業所修の[[解行]]、かならずすべからく[[真実心]]のうちになすべきことを明かさんと欲す。外に[[賢善精進]]の相を現じ、内に[[虚仮]]を懐くことを得ざれ。
+
:『経』にのたまはく、「一には<kana>至誠心(しじょうしん)</kana>」と。「至」とは真なり、「誠」とは実なり。
と述べて[[至誠心]]を[[真実心]]と解釈している。三業所修の行は内外相応する真実でなければならないとしていた。<br />
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御開山は『観経』に[[隠顕]]を見て[[顕説]]では自力心、[[隠彰]]では阿弥陀仏の[[真実心]]とされた。そして『観経疏』の[[至誠心]]を以下のように阿弥陀仏の真実心として読まれた。
+
欲<k>レ</k>明<k>三</k>一切衆生身口意業所修解行、必<kana>須(すべからく)</kana><k>二</k>真実心中作<k>一</k>。
:経云 一者至誠心 至者真 誠者実。
+
:一切衆生の身口意業所修の[[chu:解行|解行]]、'''かならずすべからく真実心のうちになすべき'''ことを明かさんと欲す。<ref>善導大師の当面の意では、至誠心とは衆生の真実心のことをいう。</ref>
:欲明一切衆生 身口意業 所修解行 必須真実心中作。
+
 
:不得外現賢善精進之相 内懐虚仮 貪瞋邪偽奸詐百端 悪性難侵 事同蛇蝎。
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不<k>レ</k>得<k>下</k>外現<k>二</k>賢善精進之相<k>一</k>、内懐<k>中</k>虚仮<k>上</k>。貪瞋・邪偽・奸詐百端、悪性難<k>レ</k>侵、事同<k>二</k>蛇蝎<k>一</k>、雖<k>レ</k>起<k>二</k>三業<k>一</k>名為<k>二</k>雑毒之善<k>一</k>、亦名<k>二</k>虚仮之行<k>一</k>。不<k>レ</k>名<k>二</k>真実業<k>一</k>也。
:雖起三業 名為雑毒之善 亦名虚仮之行 不名真実業也。
+
:'''外に賢善精進の相を現じ、内に虚仮を懐くことを得ざれ'''<ref>善導大師の意では、外相と内心が調って賢善精進であるべきという意。</ref>。[[chu:貪瞋邪偽奸詐百端|貪瞋・邪偽・奸詐百端]]にして、悪性<kana>侵(や)</kana>めがたく、事、[[chu:蛇蝎|蛇蝎]]に同じきは、[[chu:三業|三業]]を起すといへども名づけて雑毒の善<ref>雑毒の善。三毒の煩悩を雑(まじ)えている善のこと。『正像末和讃」(96)に「悪性さらにやめがたし こころは蛇蝎のごとくなり 修善も雑毒なるゆゑに 虚仮の行とぞなづけたる」とあり、凡夫の善根修行は真実ではないという。</ref>となし、また虚仮の行と名づく。真実の業と名づけず。
::『経』(観経)にのたまはく、〈一者至誠心〉。至とは真なり、誠とは実なり。一切衆生の身口意業の所修の[[解行]]、かならず[[真実心]]のうちになしたまへるを須(もち)ゐんことを明かさんと欲ふ。外に[[賢善精進]]の相を現ずることを得ざれ、内に[[虚仮]]を懐いて、[[貪瞋・邪偽・奸詐百端|貪瞋邪偽、奸詐百端]]にして悪性侵めがたし、事、蛇蝎に同じ。
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::三業を起すといへども、名づけて雑毒の善とす、また虚仮の行と名づく、真実の業と名づけざるなり。
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若作<k>二</k>如<k>レ</k>此安心・起行<k>一</k>者、縦使苦<k>二</k>励身心<k>一</k>、日夜十二時急走急作、如<k>レ</k>灸<k>二</k>頭燃<k>一</k>者、衆名<k>二</k>雑毒之善<k>一</k>。
の訓点で読まれた。《須(すべか)らく……べし》を、須(もち)いると読まれて、阿弥陀仏の「[[真実心]]のうちになしたまへるを須(もち)ゐん」と読まれた。そして内に[[虚仮]]を懐きながら「外に[[賢善精進]]の相を現ずることを得ざれ」と読まれて、『観経』で説かれる[[至誠心]]とは[[隠彰]]では[[阿弥陀仏]]の[[真実心]]であるとされた。
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:もしかくのごとき安心・起行をなすものは、たとひ身心を苦励して、日夜十二時急に走り急になすこと、[[chu:頭燃を救ふ|頭燃を<kana>救(はら)</kana>ふ]]がごとくするものも、すべて雑毒の善と名づく。
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欲<k>下</k>廻<k>二</k>此雑毒之行<k>一</k>、求<k>レ一</k>生<k>二</k>彼仏浄土<k>一</k>者、此必不可也。
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:この雑毒の行を回して、かの仏の浄土に生ずることを求めんと欲せば、これかならず不可なり。<ref>善導大師がここで往生不可とされるのは、五正行、中でも正定業である称名以外の行は、雑毒の行であるという意もあるのかもしれない。</ref>
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何以故、正由<k>下</k>彼阿弥陀仏因中行<k>二</k>菩薩行<k>一</k>時、乃至<k>二</k>一念一刹那<k>一</k>、三業所修皆是真実心中作、凡所<k>二</k>施為・趣求<k>一</k>、亦皆真実<k>上</k>。
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:なにをもつてのゆゑに。まさしくかの阿弥陀仏[[chu:因中|因中]]に菩薩の行を行じたまひし時、すなはち一念一刹那に至るまでも、三業の所修、'''みなこれ真実心のうちになしたまひ、おほよそ施為・趣求したまふところ、またみな真実なるによりてなり'''。<ref>善導大師の当面の文では、真実とは阿弥陀仏が法蔵菩薩のときに修した施為(利他)と趣求(自利)の大乗菩薩の二利行であるから、法蔵菩薩と同じような自利・利他の真実の三業でなければ浄土へ往生することはできないという。法然聖人が、『醍醐本法然上人伝記』(3)[[chu:醍醐本法然上人伝記#no3|(*)]]で「善導において二へんこれを見るに往生難しと思えり。 第三反度に、乱想の凡夫、称名の行に依って、往生すべしの道理を得たり。」 といわれた所以である。</ref>
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又真実有<k>二</k>二種<k>一</k>。一者自利真実 二者利他真実。
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:また真実に二種あり。一つには自利真実、二つには利他真実なり。
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;親鸞聖人の読み
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{{Inyou|
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経云、一者至誠心。至者真、誠者実。
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:『経』にのたまはく、〈一者至誠心〉。〈至〉とは真なり、〈誠〉とは実なり。
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欲<k>下下</k>明<k>下</k>一切衆生身口意業所修解行、必<kana>須(もちゐんこと)</kana><k>中</k>真実心中作<k>上</k>。
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:一切衆生の身口意業の所修の解行、'''かならず真実心のうちになしたまへるを須ゐんこと'''を明かさんと欲ふ。<ref>御開山の意では、阿弥陀如来の真実心においてなされた心をもちいる(須)ことが真実(至誠心)であるとする。須(すべから)く~べし、の須をもちいると読まれておられる。なお「信巻」で、『観経』の至誠心と対応する『大経』の至心釈では「この至心はすなはちこれ至徳の尊号をその体とせるなり。」p.232と、至心の体は名号であるとされる。 </ref>
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不<k>四</k>得<k>三</k>外現<k>二</k>賢善精進之相<k>一</k>、内懐<k>二</k>虚仮、貪瞋・邪偽・奸詐百端、悪性難<k>二</k>侵<k>一</k>、事同<k>二</k>蛇蝎<k>一</k>。雖<k>三</k>起<k>二</k>三業<k>一</k>名為<k>二</k>雑毒之善<k>一</k>、亦名<k>二</k>虚仮之行<k>一</k>、不<k>三</k>名<k>二</k>真実業<k>一</k>也。
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:'''外に賢善精進の相を現ずることを得ざれ、内に虚仮を懐いて'''<ref>内が虚仮であるのに、外へ賢善精進の相をあらわしてはならないとする。</ref>、貪瞋・邪偽・奸詐百端にして悪性侵めがたし、事、蛇蝎に同じ。三業を起すといへども、名づけて雑毒の善とす、また虚仮の行と名づく、真実の業と名づけざるなり。
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若作<k>下</k>如<k>二</k>此<k>一</k>安心・起行<k>上</k>者、縦使苦<k>二</k>励身心<k>一</k>、日夜十二時急走急作、如<k>三</k>灸<k>二</k>頭燃<k>一</k>者、衆名<k>二</k>雑毒之善<k>一</k>。
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:もしかくのごとき安心・起行をなすは、たとひ身心を苦励して日夜十二時に急に<kana>走(もと)</kana>め急になして頭燃を<kana>灸(はら)</kana>ふがごとくするものは、すべて雑毒の善と名づく。<ref>御開山のおこころでは大行である、なんまんだぶ以外のこのような安心・起行は雑毒の行である雑行であるとされる。凡夫がどれだけ真剣になって諸善万行を修しても、それは阿弥陀如来の「諸仏称名の願」に誓われた、浄土真実の行、選択本願の行(行文類の標挙)ではないからである。</ref>
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欲<k>下</k>廻<k>二</k>此雑毒之行<k>一</k>、求<k>中</k>生彼仏浄土<k>上</k>者、此必不可也。
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:この雑毒の行を回してかの仏の浄土に求生せんと欲するは、これかならず不可なり。<ref>御開山の意では、「一心専念弥陀名号 行住座臥 不問時節久近 念々不捨者 是名正定之業 順彼仏願故(一心に弥陀の名号を専念して、行住座臥、時節の久近を問はず、念々に捨てざるをば、これを正定の業と名づく、かの仏願に順ずるがゆゑに)」の、なんまんだぶ以外の行は、すべて雑毒の行であるから往生不可である。『論註』「真実功徳釈」には「一には有漏の心より生じて法性に順ぜず。いはゆる凡夫人天の諸善、人天の果報、もしは因もしは果、みなこれ顛倒、みなこれ虚偽なり。このゆゑに不実の功徳と名づく。 」p.56とあり、凡夫の行業はすべて顛倒であり虚仮であるという。</ref>
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何以故、正由<k>下</k>[由字]{以周反 経也行也従也用也}彼阿弥陀仏、因中行<k>二</k>菩薩行<k>一</k>時、乃至一念一刹那、三業所修皆是真実心中作<k>上</k>。
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:なにをもつてのゆゑに、まさしくかの阿弥陀仏、因中に菩薩の行を行じたまひし時、乃至一念一刹那も、'''三業の所修みなこれ真実心のうちになしたまひしに由'''(由の字、経なり、行なり、従なり、用なり)<ref>由の字の説明。如来を'''経'''て、如来の'''行'''を行じて、如来により'''従'''がって、如来のまことを'''用'''いて、ということが「由の字」に含まれている意味だとする。</ref>'''つてなり。'''
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凡所<k>二</k>施<k>一</k> 為<k>二</k>趣求<k>一</k>、亦皆真実。
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:'''おほよそ<kana>施(ほどこ)</kana>したまふところ<kana>趣求(しゅぐ)</kana>をなす、またみな真実なり。'''<ref>阿弥陀如来が《施》したまう真実を《趣求》するということ。ようするに阿弥陀如来の施される回向したまう真実の行信をもちいて趣求(願生)するということ。</ref>
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又真実有<k>二</k>二種<k>一</k>。一者自利真実 二者利他真実。
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:また真実に二種あり。一つには[[自利真実]]、二つには[[利他真実]]なり。
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の訓点で読まれた。《須(すべか)らく……べし》を、須(もち)いると読まれて、阿弥陀仏の「[[真実心]]のうちになしたまへるを須(もち)ゐん」と読まれた。そして内に[[虚仮]]を懐きながら「外に[[賢善精進]]の相を現ずることを得ざれ」と読まれて、『観経』で説かれる[[至誠心]]とは[[隠彰]]では[[阿弥陀仏]]の[[真実心]]であるとされた。<br>
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なお、この文以降に「自利真実といふは……」と[[自利真実]]をあらわされるのだが、[[利他真実]]の文はない。御開山はこのため上述の文を[[利他真実]]をあらわす文として読まれたのであろう。
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:→[[深心]]
 
:→[[深心]]
 
:→[[回向発願心]]
 
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*→[http://www.kanjipedia.jp/kanji/0003717600 須]
 
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2019年10月25日 (金) 00:59時点における最新版

しじょうしん

 『観経』に説く三心の一。真実心のこと。→三心(さんしん)。

出典(教学伝道研究センター編『浄土真宗聖典(注釈版)第二版』本願寺出版社
『浄土真宗聖典(注釈版)七祖篇』本願寺出版社

区切り線以下の文章は各投稿者の意見であり本願寺派の見解ではありません。

至誠心とは『観経』に、

若有衆生願生彼国者 発三種心即便往生。何等為三。一者至誠心 二者深心 三者廻向発願心。具三心者 必生彼国。
もし衆生ありてかの国に生ぜんと願ずるものは、三種の心を発して即便往生す。なんらをか三つとする。一つには至誠心、二つには深心、三つには回向発願心なり。三心を具するものは、かならずかの国に生ず。

と説かれる三心の一つ。この文は「略観経」ともいわれ「具三心者 必生彼国 (三心を具するものは、かならずかの国に生ず)」の「必生」の語に古くから浄土門では深い関心を寄せられていた。

善導大師は『観経疏』では、この至誠心を、

善導大師の読み

経云、一者至誠心。至者真、誠者実。

『経』にのたまはく、「一には至誠心(しじょうしん)」と。「至」とは真なり、「誠」とは実なり。

一切衆生身口意業所修解行、必(すべからく)真実心中作

一切衆生の身口意業所修の解行かならずすべからく真実心のうちになすべきことを明かさんと欲す。[1]

外現賢善精進之相、内懐虚仮。貪瞋・邪偽・奸詐百端、悪性難侵、事同蛇蝎、雖三業名為雑毒之善、亦名虚仮之行。不真実業也。

外に賢善精進の相を現じ、内に虚仮を懐くことを得ざれ[2]貪瞋・邪偽・奸詐百端にして、悪性()めがたく、事、蛇蝎に同じきは、三業を起すといへども名づけて雑毒の善[3]となし、また虚仮の行と名づく。真実の業と名づけず。

若作此安心・起行者、縦使苦励身心、日夜十二時急走急作、如頭燃者、衆名雑毒之善

もしかくのごとき安心・起行をなすものは、たとひ身心を苦励して、日夜十二時急に走り急になすこと、頭燃を(はら)がごとくするものも、すべて雑毒の善と名づく。

此雑毒之行、求レ一彼仏浄土者、此必不可也。

この雑毒の行を回して、かの仏の浄土に生ずることを求めんと欲せば、これかならず不可なり。[4]

何以故、正由彼阿弥陀仏因中行菩薩行時、乃至一念一刹那、三業所修皆是真実心中作、凡所施為・趣求、亦皆真実

なにをもつてのゆゑに。まさしくかの阿弥陀仏因中に菩薩の行を行じたまひし時、すなはち一念一刹那に至るまでも、三業の所修、みなこれ真実心のうちになしたまひ、おほよそ施為・趣求したまふところ、またみな真実なるによりてなり[5]

又真実有二種。一者自利真実 二者利他真実。

また真実に二種あり。一つには自利真実、二つには利他真実なり。
親鸞聖人の読み

経云、一者至誠心。至者真、誠者実。

『経』にのたまはく、〈一者至誠心〉。〈至〉とは真なり、〈誠〉とは実なり。

下下一切衆生身口意業所修解行、必(もちゐんこと)真実心中作

一切衆生の身口意業の所修の解行、かならず真実心のうちになしたまへるを須ゐんことを明かさんと欲ふ。[6]

外現賢善精進之相、内懐虚仮、貪瞋・邪偽・奸詐百端、悪性難、事同蛇蝎。雖三業名為雑毒之善、亦名虚仮之行、不真実業也。

外に賢善精進の相を現ずることを得ざれ、内に虚仮を懐いて[7]、貪瞋・邪偽・奸詐百端にして悪性侵めがたし、事、蛇蝎に同じ。三業を起すといへども、名づけて雑毒の善とす、また虚仮の行と名づく、真実の業と名づけざるなり。

若作安心・起行者、縦使苦励身心、日夜十二時急走急作、如頭燃者、衆名雑毒之善

もしかくのごとき安心・起行をなすは、たとひ身心を苦励して日夜十二時に急に(もと)め急になして頭燃を(はら)ふがごとくするものは、すべて雑毒の善と名づく。[8]

此雑毒之行、求生彼仏浄土者、此必不可也。

この雑毒の行を回してかの仏の浄土に求生せんと欲するは、これかならず不可なり。[9]

何以故、正由[由字]{以周反 経也行也従也用也}彼阿弥陀仏、因中行菩薩行時、乃至一念一刹那、三業所修皆是真実心中作

なにをもつてのゆゑに、まさしくかの阿弥陀仏、因中に菩薩の行を行じたまひし時、乃至一念一刹那も、三業の所修みなこれ真実心のうちになしたまひしに由(由の字、経なり、行なり、従なり、用なり)[10]つてなり。

凡所 為趣求、亦皆真実。

おほよそ(ほどこ)したまふところ趣求(しゅぐ)をなす、またみな真実なり。[11]

又真実有二種。一者自利真実 二者利他真実。

また真実に二種あり。一つには自利真実、二つには利他真実なり。

の訓点で読まれた。《須(すべか)らく……べし》を、須(もち)いると読まれて、阿弥陀仏の「真実心のうちになしたまへるを須(もち)ゐん」と読まれた。そして内に虚仮を懐きながら「外に賢善精進の相を現ずることを得ざれ」と読まれて、『観経』で説かれる至誠心とは隠彰では阿弥陀仏真実心であるとされた。
なお、この文以降に「自利真実といふは……」と自利真実をあらわされるのだが、利他真実の文はない。御開山はこのため上述の文を利他真実をあらわす文として読まれたのであろう。

深心
回向発願心
『教行証文類』における『観経疏』三心釈の分引

参照WEB版浄土宗大辞典の「至誠心」の項目



  1. 善導大師の当面の意では、至誠心とは衆生の真実心のことをいう。
  2. 善導大師の意では、外相と内心が調って賢善精進であるべきという意。
  3. 雑毒の善。三毒の煩悩を雑(まじ)えている善のこと。『正像末和讃」(96)に「悪性さらにやめがたし こころは蛇蝎のごとくなり 修善も雑毒なるゆゑに 虚仮の行とぞなづけたる」とあり、凡夫の善根修行は真実ではないという。
  4. 善導大師がここで往生不可とされるのは、五正行、中でも正定業である称名以外の行は、雑毒の行であるという意もあるのかもしれない。
  5. 善導大師の当面の文では、真実とは阿弥陀仏が法蔵菩薩のときに修した施為(利他)と趣求(自利)の大乗菩薩の二利行であるから、法蔵菩薩と同じような自利・利他の真実の三業でなければ浄土へ往生することはできないという。法然聖人が、『醍醐本法然上人伝記』(3)(*)で「善導において二へんこれを見るに往生難しと思えり。 第三反度に、乱想の凡夫、称名の行に依って、往生すべしの道理を得たり。」 といわれた所以である。
  6. 御開山の意では、阿弥陀如来の真実心においてなされた心をもちいる(須)ことが真実(至誠心)であるとする。須(すべから)く~べし、の須をもちいると読まれておられる。なお「信巻」で、『観経』の至誠心と対応する『大経』の至心釈では「この至心はすなはちこれ至徳の尊号をその体とせるなり。」p.232と、至心の体は名号であるとされる。
  7. 内が虚仮であるのに、外へ賢善精進の相をあらわしてはならないとする。
  8. 御開山のおこころでは大行である、なんまんだぶ以外のこのような安心・起行は雑毒の行である雑行であるとされる。凡夫がどれだけ真剣になって諸善万行を修しても、それは阿弥陀如来の「諸仏称名の願」に誓われた、浄土真実の行、選択本願の行(行文類の標挙)ではないからである。
  9. 御開山の意では、「一心専念弥陀名号 行住座臥 不問時節久近 念々不捨者 是名正定之業 順彼仏願故(一心に弥陀の名号を専念して、行住座臥、時節の久近を問はず、念々に捨てざるをば、これを正定の業と名づく、かの仏願に順ずるがゆゑに)」の、なんまんだぶ以外の行は、すべて雑毒の行であるから往生不可である。『論註』「真実功徳釈」には「一には有漏の心より生じて法性に順ぜず。いはゆる凡夫人天の諸善、人天の果報、もしは因もしは果、みなこれ顛倒、みなこれ虚偽なり。このゆゑに不実の功徳と名づく。 」p.56とあり、凡夫の行業はすべて顛倒であり虚仮であるという。
  10. 由の字の説明。如来をて、如来のを行じて、如来によりがって、如来のまことをいて、ということが「由の字」に含まれている意味だとする。
  11. 阿弥陀如来が《施》したまう真実を《趣求》するということ。ようするに阿弥陀如来の施される回向したまう真実の行信をもちいて趣求(願生)するということ。