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「『観経』の三心をえてのちに、『大経』の三信心をうるを一心をうるとは申すなり」の版間の差分

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 『観経』に説かれている[[三心]]の、[[至誠心]]・[[深心]]・[[回向発願心]]を<kana>翻(ひるがえ)</kana>して、『大経』[[第十八願]]の、[[至心]]・[[信楽]]・[[欲生]]の[[三信心]]をうることを、三心即一の一心 (真実信心) をうるという。([[唯文#P--714|唯文 P.714]])
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 『観経』に説かれている[[至誠心]]・[[深心]]・[[回向発願心]]の[[三心]]を<kana>翻(ひるがえ)</kana>して、『大経』「[[第十八願]]」の、[[至心]]・[[信楽]]・[[欲生]]の[[三信心]]をうることを、[[一心]]を得るというとされる。この一心とは「信巻」三心一心問答([[信巻本#三心一心問答|信巻 P.229]])にある三信即一の[[一心]] である。この[[一心]]が欠ければ真の報土へは生まれないといふ。([[唯文#P--714|唯文 P.714]])
  
 
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善導大師の当面では「もし一心かけぬれば」の「一心」は『観経』の至上心・深心・回向発願心のうちの一心がかけることであるが、御開山は『大経』の三心即一の信楽(信心)である一心がかけることであるとされた。<br />
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善導大師の当面では「もし一心かけぬれば」の「一心」は『観経』の至上心・深心・回向発願心のうちの一心がかけることであるが、御開山は『大経』の三信即一の信楽(信心)である一心がかけることであるとされた。<br />
法然聖人は、ご自身の[[回心]]の体験[[hwiki:法然教学の研究|(*)]] から[[Jds:偏依善導|偏依善導]]といわれ、主として『観経疏』の説に拠られ浄土教を開顕された。それに対して、御開山は『大経』と法然聖人が所依の論として挙げられた『浄土論』、その注釈書である『論註』によって法然聖人の真意を洞察されたのであった。そして阿弥陀仏の本願を説く『大経』を真実の経とし、[[第十八願]]の、至心・信楽・欲生の三信(三心)を根拠とし詳細に展開されたのである。『観経』の三心から『大経』の三心への指示が「『観経』の三心をえてのちに、『大経』の三信心をうるを一心をうるとは申すなり」の釈であろう。それが三心結釈として、
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法然聖人は、ご自身の[[回心]]の体験[[hwiki:法然教学の研究|(*)]] から[[Jds:偏依善導|偏依善導]]といわれ、主として『観経疏』の説に拠られ浄土教を開顕された。それに対して、御開山は『大経』と法然聖人が所依の論として挙げられた『浄土論』、その注釈書である『論註』によって法然聖人の真意を洞察されたのであった。そして阿弥陀仏の本願を説く『大経』を真実の経とし、[[第十八願]]の、至心・信楽・欲生の三信(三心)を根拠とし詳細に展開されたのである。『観経』の三心から『大経』の三信への指示が「『観経』の三心をえてのちに、『大経』の三信心をうるを一心をうるとは申すなり」の釈であろう。それが三心結釈として、
 
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2018年12月20日 (木) 12:03時点における版

 『観経』に説かれている至誠心深心回向発願心三心(ひるがえ)して、『大経』「第十八願」の、至心信楽欲生三信心をうることを、一心を得るというとされる。この一心とは「信巻」三心一心問答(信巻 P.229)にある三信即一の一心 である。この一心が欠ければ真の報土へは生まれないといふ。(唯文 P.714)

「若少一心」といふは、「若」はもしといふ、ごとしといふ、「少」はかくるといふ、すくなしといふ。一心かけぬれば生れずといふなり。
一心かくるといふは信心のかくるなり、信心かくといふは、本願真実の三信心のかくるなり。
『観経』の三心をえてのちに、〔それを翻して〕『大経』の三信心をうるを一心をうるとは申すなり。このゆゑに『大経』の三信心をえざるをば一心かくると申すなり。この一心かけぬれば真の報土に生れずといふなり。
『観経』の三心は定散二機の心なり、定散二善回して、『大経』の三信をえんとねがふ方便の深心と至誠心としるべし。(唯文 P.714)

と、〔それを翻して〕の文を略して云われたのであろう。
善導大師の当面では「もし一心かけぬれば」の「一心」は『観経』の至上心・深心・回向発願心のうちの一心がかけることであるが、御開山は『大経』の三信即一の信楽(信心)である一心がかけることであるとされた。
法然聖人は、ご自身の回心の体験(*) から偏依善導といわれ、主として『観経疏』の説に拠られ浄土教を開顕された。それに対して、御開山は『大経』と法然聖人が所依の論として挙げられた『浄土論』、その注釈書である『論註』によって法然聖人の真意を洞察されたのであった。そして阿弥陀仏の本願を説く『大経』を真実の経とし、第十八願の、至心・信楽・欲生の三信(三心)を根拠とし詳細に展開されたのである。『観経』の三心から『大経』の三信への指示が「『観経』の三心をえてのちに、『大経』の三信心をうるを一心をうるとは申すなり」の釈であろう。それが三心結釈として、

まことに知んぬ、至心・信楽・欲生、その(ことば)異なりといへども、その(こころ)これ一つなり。なにをもつてのゆゑに、三心すでに疑蓋雑はることなし、ゆゑに真実の一心なり。(信巻 P.245)

と、疑蓋無雑の『浄土論』の「世尊我一心」の一心であった。

広く三経の光沢を蒙りて、ことに一心の華文を開く。しばらく疑問を至してつひに明証を出す。(信巻 P.209)

とある本願力回向華のような一心であったのである。

(78)
真実信心えざるをば
 一心かけぬとをしへたり
 一心かけたるひとはみな
 三信具せずとおもふべし


一心
定散二善を…ねがふ
もし一心少けぬれば
若少一心…