「縁起」の版間の差分
提供: WikiArc
9行目: | 9行目: | ||
とある。(『浄土真宗辞典』) | とある。(『浄土真宗辞典』) | ||
}} | }} | ||
− | + | {{JDS|縁起}} | |
---- | ---- | ||
;オンライン版 仏教辞典より転送 | ;オンライン版 仏教辞典より転送 | ||
{{:WDM:えんぎ}} | {{:WDM:えんぎ}} |
2018年5月15日 (火) 18:00時点における版
えんぎ
① 梵語 プラティテーヤ・サムトゥパーダ (pratītya-samutpāda)の意訳。因縁と同義。「縁(よ)って起こること」、あるいは「縁って起こっている状態」の意。
存在に関する普遍的な原理のことで、物事は必ず何らかの原因(因)があり条件(縁)があって生じ存在していることをいう。この考えは仏教の根本真理として位置づけられ、初期の仏教では人間のあり方を分析的に示した十二因縁、大乗仏教では『楞伽経』『宝性論』等で説かれる如来蔵縁起、中国仏教では華厳宗の法界縁起、真言宗の六大縁起、法相宗の阿頼耶識縁起など、様々な縁起説が説かれるようになった。
② 寺院、仏像等の由来、または不思議な現象を著した書物。
③ 縁由、いわれ。『般舟讃』には、
- またすべからく浄土に入る縁起、娑婆を出づる本末を知るべし。(般舟讃 P.717)
とある。(『浄土真宗辞典』)
- オンライン版 仏教辞典より転送
目次
縁起
pratītya-samutpāda प्रतीत्यसमुत्पाद(S)、paṭicca-samuppāda पटिच्चसमुप्पाद (P)
縁起の原語 pratītya-samutpāda の原意は、「因縁生起」の略と考えられ、「他との関係が縁となって生起すること」の意味で、関係の中の生起の意味である。この縁起という思想こそは、仏教の根本思想を示し、仏教教理の土台である。釈迦の証悟(さとり)の内容は、この縁起の理に他ならない。
経典には、釈尊自身が、「私のさとった縁起の法は、甚深微妙にして一般の人々の知り難く悟り難いものである」と言っている。また、この甚深なる法は
わが作るところにも非ず、また余人の作るところにも非ず。如来の世に出ずるも出てざるも法界常住なり。如来は、この法を自ら覚し、等正覚を成じ、諸の衆生のために分別し演説し開発(かいほつ)顕示するのみなり。〔雑阿含経 T2-85c〕
と言って、この世の自然のあり方であり、真実であると言う。仏教は、このように天地自然の真実を見きわめ、それを身につけて実行するものである。仏とは、この縁起の法を自覚自行する人のことを指す。
縁起の意味は、関係の中での生起ということで、経典には、これを
此があれば彼があり、此がなければ彼がない。此が生ずれば彼が生じ、此が滅すれば、彼が滅す
と説く。これは「此」と「彼」とがお互いに相依相成しているであり、それぞれ個別に存在するものでないことをいう。すなわち有無によって示される空間的社会的にも、生滅によって示される時間的歴史的にも、すべての存在現象は、孤立してでなく相互の関係性によってのみ現象していることを説いたものである。
釈尊がさとられたように、いっさいのものはすべて独一存在でなく無我である。しかし、無我でありながら、無我のまま価値を持ち存在性を持ちうるのは、すべてが縁起であるからである。此は彼に対して此であり、彼と対さなければ此は此でない。このように関係においてのみ存在は存在性を獲得することができる。
この縁起は、具体的に人間の生存自体について十二支縁起として説かれた。縁起支については九支、六支、十支などと数は不定である。
縁起説として、苦の生存の姿を明らかにするものとして、業感縁起、頼耶縁起、如来蔵縁起、法界縁起、六大縁起などが、それぞれの教学の中心として説かれる。このように縁起こそ仏教の基盤であるといえる。
すべてのものが独立自存性を本来もたないままに、個々のものは縁起だから存在性をもちうる。無我無自性と否定されるものが、そのまま存在性をもちうるのは縁起こそ現実である。このように仏教は教えるのである。
初期の縁起説
もともと縁起という思想は、初期仏教以来、その中心思想とみなされていた。
しかし、詳しく資料にあたってみると、初期仏教に説かれる縁起説は、いわゆる十二支を数える十二因縁の系列であり、その軸は「あるものの存在ないし生滅が、他のものに縁って起こる」程度のものであった。また部派仏教で開拓した縁起説も、人間の一生をいわゆる十二因縁にあてはめたり、また因と縁とに分けて、それをこまかく分析したりする程度のものであった。
いいかえれば、縁起という術語そのものは古く、重要ではあったけれども、それが無自性につらなり、さらに空に発展するものではなかった。たとえば、ある存在にはそのものの自性があり、そこにそれ自身のいわば個性があって、それと関係しあうというほどに考えられていた。
大乗の縁起説
縁起している諸支について、そのあいだの関係性を特に鋭く考究し、諸支そのものとそれぞれの名称(すなわち言葉)との実体視や固定化を破り、さらに初期仏教以来の無我一空や無常にもとづいて徹底した洞察を果たしたのが龍樹であり、縁起はいわば相依相関に深められ、各支の無自性(無実体)が明らかとなり、空であること=空性、さらに中道に通ずる。龍樹は「空であることとはすべての見解の超越である」と宣して、生滅・一異・去来・断常のおのおのを否定するいわゆる八不の縁起を明らかにすると同時に、「空であることの成立するところに、一切が成立する」と説き、無自性一縁起のうえに、あらためて凡夫と如来、迷いと悟り、世俗とニルヴァーナとに根拠を与え、実践の基盤をすえる。またそのなかには、世俗諦と勝義諦という二諦説を示した。こうしていわば空にうらづけられた縁起説はその後も多種の展開を示す。その主なるものは以下の通り。
阿頼耶識縁起(頼耶縁起)
唯識説は、眼耳鼻舌身意の前五識の奥に、それらを統一する自我を含むマナ識を、さらにそれら一切を蔵するアーラヤ識を立てると同時に、現象する対象(=境、外界)はすべて識の表象(転変)にすぎないと説く。ただし識と境との縁起の際の形象(=相)をめぐって、その有か無かの二論があり、唯識説はのちに二派に分かれる。いずれにせよ唯識説は、きびしい瑜伽行の実践のうえに展開されており、ヨーガーチャーラ(瑜伽行)派とも呼ばれる。
如来蔵縁起説
生あるもの(衆生、有情)の根源に如来への可能性である如来蔵、ないしは仏と成りうる素質の仏性を認めて、日常の迷いのなかから、ついには悟りにいたりうる途を用意する。それは生あるものの根本に覚ありとする本覚思想に発展する。これらは中国や日本の仏教に大きなはたらきをはたすことになる。
法界縁起
『華厳経』に一貫する唯心説にもとづいて、世界のことごとくが、心の法界のうえに、各個でありつつ、たがいに相即相入して、一と一切とが重々無尽に一致しつつかつ展開することを説く。そのような無礙に相入しあうあり方を性とし、縁起よりはむしろ性起の語を多く用いて、これが華厳教学の中心となる。
六大縁起説
六大縁起説は、地水火風空識という6が、それぞれは自然界および意識界の単位でありながら、相互に浸透しあいつつ、万法に普遍することを説き、主として日本において栄えた。特に密教はこの六大縁起説のうえにその学説を立てる。
以上のほかに、中国と日本との仏教の根幹となった天台教学は、龍樹の思想を受けて、空一仮一中の三諦にもとづいている。その根底には上述の相即しあう縁起説があるものの、羅什訳の諸法実相(真実なるあり方)が前面に出て、一般には実相論と称された。
金獅子
『華厳経』では、金の獅子像の譬えで縁起を説明している。
- 金はそれ自体の本性をもたない(無自性)から、金細工師の手仕事(縁)によって、獅子のすがたを現すのである。それはただ、〔手仕事という〕縁によっているだけだから、縁起というのである。
機縁説起
仏教の立場で、この縁起という語は「機縁説起」と、衆生の機縁に応じて説を起こすと解釈されることもある。たとえば華厳教学で「縁起因分」という場合である。さとり自身は、言語や思惟をこえて不可説のものである。ところが衆生の機縁に応じるため、この説けないさとりを説き起す。それを「縁起因分」というのである。
一般の語義
一般には「きざし」「前兆」の意味に理解され、縁起をかつぐ、縁起がよい、縁起が悪いなどといわれる。このような意味から、縁起直し、縁起物などという風俗や習慣が行なわれる。つぎに、この縁起を故事来歴の意味に用いて、神社仏閣の沿革や、そこにあらわれる功徳利益などの伝説を指す場合もある。