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十二因縁

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じゅうにいんねん

 十二縁相(じゅうにえんそう)ともいう。衆生(しゅじょう)の迷妄と苦悩が成立し、また消滅する、

無明(むみょう)(無知)、
(ぎょう)(潜在的形成力)、
(しき)(識別作用)、
名色(みょうしき)(心身)、
六処(ろくしょ)(眼・耳・鼻・舌・身・意の心作用の成立する六つの感覚器官)、
(そく)(感官と対象との接触)、
(じゅ)(感受作用)、
(あい)(根本の欲望)、
(しゅ)(執着)、
()(生存)、
(しょう)(生れること)、
老死(ろうし)(無常なすがた)

という十二の条件の関係をいう。

出典(教学伝道研究センター編『浄土真宗聖典(注釈版)第二版』本願寺出版社
『浄土真宗聖典(注釈版)七祖篇』本願寺出版社

区切り線以下の文章は各投稿者の意見であり本願寺派の見解ではありません。

参照WEB版浄土宗大辞典の「十二因縁」の項目

オンライン版 仏教辞典より転送

十二因縁

dvādaśāńga-pratītyasamutpāda द्वादशाङ्गप्रतीत्यसमुत्पाद

 鳩摩羅什訳(旧訳)では「十二因縁」とし、玄奘訳(新訳)では「十二縁起」と訳す。他にも「十二支縁起」「十二支因縁」などと表記する場合がある。

 釈迦が悟った直後、自らの苦を解決する道が正しかったかどうか、この十二支によって確認した、と阿含経 にある。人間が「」を感ずる原因を順に分析したものである。古い経典には釈迦の成道を十二因縁の順観(anuloma)と逆観(paṭiloma)によると説く。それは迷いの事実がどのようなものであるかを正しく知ることが、とりもなおさず悟りであるという意味で、この十二因縁が迷の事実を示すものであるからである。
 この十二支とは

説一切有部説

  1. 無明 (avidyā)    過去世の無始の煩悩。煩悩の根本が無明なので代表名とした。
  2.   (saṃskāra)  過去世の煩悩によって作った善悪の行業
  3.   (vijñāna)   母胎中に受胎した刹那の五薀(色受想行識で身体と精神との結合体としての個体)
  4. 名色 (nāma-rūpa) 胎中にあって身心の発育する位。
  5. 六処 (ṣaḍ-āyatana)胎中にあって眼耳鼻舌身意の六つの感官が備わり、母体を出ようとする位。
  6.   (sparśa)    生誕後しばらくの間のこと。事物に関して苦楽を識別することなく、ただ事物に触れて感知しようとする位。
  7.   (vedanā)    苦楽捨といわれて苦をいとい楽をよろこぶような心の生起する位で性を求めるまでの位をいう。
  8.   (tṛṣnā)     性欲を起こし、異性を求める位をいう。
  9.   (upādāna)   自分の求めるもののために馳求する位。
  10.   (bhava)     未来の生活や環境を結果する行為によって業因を積集する位で人間一般の生存をいう。
  11.   (jāti)      前の業因によって結果した未来の生存をいう。
  12. 老死 (jarā-maraṇa) 生の刹那(=識)から受の位までを老死という。生老死は前の識名色六処触受の五位をさすことになる。

 この解釈は、説一切有部の解釈で、1.2.が過去の因、3.-10.が現在の果であり将来の因となり、11.12.が将来の果であると解釈する。過去現在未来が二重の因果関係になっているので、三世両重の因果と呼んでいる。

法相説

 唯識説では二世一重の十二因縁を説く。それは、感や業そのものは刹那生滅であるから、それが直ちに苦果を生ずる因とはなりえないとするために、前の説と異なるので、ここでは感や業の活動があれば、それが後の果を生起する潜勢力(種子)として薫ぜられ、その種子が苦果として現行するので過去と現在、現在と未来というように二世一重の因果を説く。
 「ノート」に初期仏教での十二因縁の説明を入れておく。


 さて、老死とは、老いて死んでゆく人間にとっての厳粛な事実をいい、生もまた生まれることである。しかし、それは単なる生命現象としてではなく、老死によって無常苦が語られ、また生においても苦が語られている。そうでなければ、釈迦の成道に何らの関係もない。したがって、老や死は苦悩の具体的事実である。それは無常苦の中を行き続ける自己を見詰めることであり、喜と楽による幸福の儚さを物語るものであり、人間生存自身の無常苦を意味している。この点で、生も単なる生命現象としてではなく、無常苦の起因、根本として求められたものである。
 老死がなぜあるか、それは生まれてきたからだ、では無常苦の解決にはならない。生も苦、老死も苦、人生そのものが苦と、ここに語られる。生老死がなぜ苦なのか、毎日の生活が生老死に苦を感ぜずにはおれないような生活だからである。その生活こそ生老死を苦とする根本であり、それを有という。生活の行為が生老死を苦と感じさせるのはなぜかというと、常に執着をもった生活をしているからである。とくに、自分自身と自分の所有へのとらわれが、その理由であり、取による有といわれる。その取こそ愛によるのである。
 経典は、この愛について有愛(bhava-tṛṣnā)、非有愛(vibhava-tṛṣnā)、欲愛(kāma-tṛṣnā)の3を説いている。有愛とは生きたいと生存に願いをかける心、非有愛とは有愛がはばまれる時、生を呪うこと。欲愛とは、有愛・非有愛が外部にむかっておこることである。自分の生を願い、また呪い、他人の生を願い、また呪うことである。生命を願い、また呪う。このように、矛盾したものが同居している生命であるところに人間苦の根本がある。この生命の秘密を明らかにすることこそ、人生苦の克服の道である。
 これは、単に生命の否定ではない。その生命の深淵を自覚しなければならない。それこそ受・触・六処・名色・識によって示される心の構造であり、その意識をまちがわせる無明とその行とである。すなわち、無明を克服し、すべてを一体と自覚せしめる智慧こそ、人生苦を克服する働きをもつものである。
 このように十二因縁は、迷と苦が無明を原因とし、渇愛を源として展開していることを明らかにする。したがって、無明を克服して智慧を得れば生老死の人生苦はない。すなわち、自我への執着をはなれ、無我の自覚に立ちかえることが、仏教の指針となるのである。
 無明の克服とは自我を拠り所とする我執の克服である。それは無我の自覚であり、自己否定である。それはいっさいの否定であり、絶待無となる。したがって、生活や生命の営みの否定である。そこには生活はありえない。
 しかし、釈迦のさとりは単なる自己否定ではなく、それが本当の生活であったはずである。すなわち、無我である自己を破り去ったところに、かえって無我のまま復活しうる道があった。それこそ真実の縁起の自覚であり、仏教が仏道として生きていく指針となるのは、無我のまま生活を決然と生きていくということであるというべきである。