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「機法一体」の版間の差分

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 機法一体の機とは衆生の信心、法とは衆生を救う阿弥陀仏の法のはたらき(力用)のこと。<br />
 
 機法一体の機とは衆生の信心、法とは衆生を救う阿弥陀仏の法のはたらき(力用)のこと。<br />
  
 この機法一体は、善導大師が六字釈[[観経疏_玄義分_(七祖)#.E5.85.AD.E5.AD.97.E9.87.88|(*)]]において、南無阿弥陀仏の六字を願と行にわけ、その意味について論じた願行具足論からの展開である。善導大師の六字釈では、南無という衆生の願(帰命の信心)と因位の阿弥陀仏の行(仏の救済の行法)が、南無阿弥陀仏の六字の上に浄土往生の願行として具足成就しているとされた。南無阿弥陀仏という言葉には、浄土往生に必須である衆生の願と行が、つぶさに具わって満足しているので願行具足しているという。<br />
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 この機法一体は、善導大師が六字釈において、南無阿弥陀仏の六字を願と行にわけ、その意味について論じた願行具足論からの展開である。
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:いまこの『観経』のなかの十声の称仏は、すなはち十願十行ありて具足す。 いかんが具足する。
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:「南無」といふはすなはちこれ帰命なり、またこれ発願回向の義なり。 「阿弥陀仏」といふはすなはちこれその行なり。 この義をもつてのゆゑにかならず往生を得。([[観経疏_玄義分_(七祖)#.E5.85.AD.E5.AD.97.E9.87.88|玄義分p.325]])
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善導大師の六字釈では、南無という衆生の願(帰命の信心)と因位の阿弥陀仏の行(仏の救済の行法)が、南無阿弥陀仏の六字の上に浄土往生の願行として具足成就しているとされた。南無阿弥陀仏という言葉には、浄土往生に必須である衆生の願と行が、つぶさに具わって満足しているので願行具足しているという。<br />
  
 これを善導大師は「十方衆生、わが名号を称してわが国に生ぜんと願ぜんに、下十念に至るまで、もし生ぜずは、正覚を取らじ(十方衆生 称我名号願生我国 下至十念 若不生者 不取正覚)」と、称我名号の南無阿弥陀仏を称えることが浄土へ生まれて往く[[正定業]]であるとされたのである。<br />
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 これを善導大師は
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:「十方衆生、わが名号を称してわが国に生ぜんと願ぜんに、下十念に至るまで、もし生ぜずは、正覚を取らじ(十方衆生 称我名号願生我国 下至十念 若不生者 不取正覚)」
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と、称我名号の南無阿弥陀仏を称えることが浄土へ生まれて往く[[正定業]]であるとされたのである。<br />
 
 「下十念に至るまで、もし生ぜずは、正覚を取らじ(下至十念 若不生者 不取正覚)」とは、下至十念のわずか十声までの南無阿弥陀仏には、衆生の浄土への往生と阿弥陀仏の正覚が、「もし生ぜずは、正覚を取らじ(若不生者 不取正覚)」と生仏一如に、衆生と仏の正覚の一体として誓われているのである。「衆生もし往生せずば我もまた正覚を取らじ」という自他一如の阿弥陀仏の誓願であった。
 
 「下十念に至るまで、もし生ぜずは、正覚を取らじ(下至十念 若不生者 不取正覚)」とは、下至十念のわずか十声までの南無阿弥陀仏には、衆生の浄土への往生と阿弥陀仏の正覚が、「もし生ぜずは、正覚を取らじ(若不生者 不取正覚)」と生仏一如に、衆生と仏の正覚の一体として誓われているのである。「衆生もし往生せずば我もまた正覚を取らじ」という自他一如の阿弥陀仏の誓願であった。
  
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:阿弥陀仏の、むかし法蔵比丘たりしとき、「衆生仏に成らずはわれも正覚ならじ」と誓ひましますとき、その正覚すでに成じたまひしすがたこそ、いまの南無阿弥陀仏なりとこころうべし。これすなはちわれらが往生の定まりたる証拠なり。されば他力の信心獲得すといふも、ただこの六字のこころなりと落居すべきものなり。『御文章(四帖の八』p.1179 [[御文章_(四帖)#P--1179|(*)]]
 
:阿弥陀仏の、むかし法蔵比丘たりしとき、「衆生仏に成らずはわれも正覚ならじ」と誓ひましますとき、その正覚すでに成じたまひしすがたこそ、いまの南無阿弥陀仏なりとこころうべし。これすなはちわれらが往生の定まりたる証拠なり。されば他力の信心獲得すといふも、ただこの六字のこころなりと落居すべきものなり。『御文章(四帖の八』p.1179 [[御文章_(四帖)#P--1179|(*)]]
  
と、機法一体を論じた後に、正覚を成じた果名の南無阿弥陀仏は、往生の「往生の定まりたる証拠なり」といわれるのだが、往生正覚の機法一体説はこれを使われない。かえって「「十劫正覚のはじめより、われらが往生を定めたまへる弥陀の御恩をわすれぬが信心ぞ」といへり。これおほきなるあやまりなり。そも弥陀如来の正覚をなりたまへるいはれをしりたりといふとも、われらが往生すべき他力の信心といふいはれをしらずは、いたづらごとなり。」『御文章(一帖の十三』p.1102 [[御文章_(一帖)#no13|(*)]]と、十劫正覚を憶念することを信心の体とすることは、これを十劫安心として否定しておられる。<br />
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と、機法一体を論じた後に、正覚を成じた果名の南無阿弥陀仏は、往生の「往生の定まりたる証拠なり」といわれるのだが、往生正覚の機法一体説はこれを使われない。かえって
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:「十劫正覚のはじめより、われらが往生を定めたまへる弥陀の御恩をわすれぬが信心ぞ」といへり。これおほきなるあやまりなり。そも弥陀如来の正覚をなりたまへるいはれをしりたりといふとも、われらが往生すべき他力の信心といふいはれをしらずは、いたづらごとなり。」『御文章(一帖の十三』p.1102 [[御文章_(一帖)#no13|(*)]]
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と、十劫正覚を憶念することを信心の体とすることは、これを十劫安心として否定しておられる。<br />
 
 浄土真宗のご信心とは現在ただ今の信を指すのであり過去や未来に求めるものははないという意からであろう。
 
 浄土真宗のご信心とは現在ただ今の信を指すのであり過去や未来に求めるものははないという意からであろう。
 
蓮如上人のご教化は信心正因一本槍で、なんまんだぶのお勧めがないという人もいるのだが「タスケタマヘ」や「機法一体」の教説を委細に窺えば、なんまんだぶが溢れているのであった。
 
蓮如上人のご教化は信心正因一本槍で、なんまんだぶのお勧めがないという人もいるのだが「タスケタマヘ」や「機法一体」の教説を委細に窺えば、なんまんだぶが溢れているのであった。

2017年11月24日 (金) 23:00時点における版

きほういったい

Ⅰ →補註3 (御文章 P.1147, P.1179, P.1182)

Ⅱ 機は衆生の往生、法は仏の正覚を指し、仏の正覚成就のままが衆生の往生成就である道理をいう。(安心決定 P.1383)

出典(教学伝道研究センター編『浄土真宗聖典(注釈版)第二版』本願寺出版社
『浄土真宗聖典(注釈版)七祖篇』本願寺出版社

区切り線以下の文章は各投稿者の意見であり本願寺派の見解ではありません。


 機法一体の機とは衆生の信心、法とは衆生を救う阿弥陀仏の法のはたらき(力用)のこと。

 この機法一体は、善導大師が六字釈において、南無阿弥陀仏の六字を願と行にわけ、その意味について論じた願行具足論からの展開である。

いまこの『観経』のなかの十声の称仏は、すなはち十願十行ありて具足す。 いかんが具足する。
「南無」といふはすなはちこれ帰命なり、またこれ発願回向の義なり。 「阿弥陀仏」といふはすなはちこれその行なり。 この義をもつてのゆゑにかならず往生を得。(玄義分p.325)

善導大師の六字釈では、南無という衆生の願(帰命の信心)と因位の阿弥陀仏の行(仏の救済の行法)が、南無阿弥陀仏の六字の上に浄土往生の願行として具足成就しているとされた。南無阿弥陀仏という言葉には、浄土往生に必須である衆生の願と行が、つぶさに具わって満足しているので願行具足しているという。

 これを善導大師は

「十方衆生、わが名号を称してわが国に生ぜんと願ぜんに、下十念に至るまで、もし生ぜずは、正覚を取らじ(十方衆生 称我名号願生我国 下至十念 若不生者 不取正覚)」

と、称我名号の南無阿弥陀仏を称えることが浄土へ生まれて往く正定業であるとされたのである。
 「下十念に至るまで、もし生ぜずは、正覚を取らじ(下至十念 若不生者 不取正覚)」とは、下至十念のわずか十声までの南無阿弥陀仏には、衆生の浄土への往生と阿弥陀仏の正覚が、「もし生ぜずは、正覚を取らじ(若不生者 不取正覚)」と生仏一如に、衆生と仏の正覚の一体として誓われているのである。「衆生もし往生せずば我もまた正覚を取らじ」という自他一如の阿弥陀仏の誓願であった。

 この願行具足論を、救われるべき機(衆生)と救いの法の関係で論じたのが機法一体説である。元々機とは機関・機微・機宣(*)とされて教法に対した語であり、教法に対していないならば機とは云わない。ゆえに、機と法は一つであって異なるものではないのである。阿弥陀仏の救済は、南無阿弥陀仏と称える者に願行具足の名号として顕れ、その名号には機の信心がすでに成し遂げられているから、機の信心と仏の本願力の法が名号において一体である。これを機法一体というのである。
蓮如上人はこの機法一体を『御文章』で、

「南無」の二字は、衆生の阿弥陀仏を信ずる機なり。つぎに「阿弥陀仏」といふ四つの字のいはれは、弥陀如来の衆生をたすけたまへる法なり。このゆゑに、機法一体の南無阿弥陀仏といへるはこのこころなり。『御文章(三帖)の七』p.1147 (*)
南無と帰命する機と阿弥陀仏のたすけまします法とが一体なるところをさして、機法一体の南無阿弥陀仏とは申すなり。『御文章(四帖の八』p.1179 (*)
されば弥陀をたのむ機を阿弥陀仏のたすけたまふ法なるがゆゑに、これを機法一体の南無阿弥陀仏といへるはこのこころなり。これすなはちわれらが往生の定まりたる他力の信心なりとは心得べきものなり。『御文章(四帖の十一』p.1183 (*)
このゆゑに南無の二字は、衆生の弥陀をたのむ機のかたなり。また阿弥陀仏の四字は、たのむ衆生をたすけたまふかたの法なるがゆゑに、これすなはち機法一体の南無阿弥陀仏と申すこころなり。この道理あるがゆゑに、われら一切衆生の往生の体は南無阿弥陀仏ときこえたり。『御文章(四帖の十四』p.1187 (*)

などと、いわれたのであった。
 この機法一体という語の出処は、浄土宗西山派の書といわれる『安心決定鈔』からであろう。御一代記聞書の(249)p.1313(*) には「前々住上人(蓮如)仰せられ候ふ。『安心決定鈔』のこと、四十余年があひだ御覧候へども、御覧じあかぬと仰せられ候ふ。また、金(こがね)をほりいだすやうなる聖教なりと仰せられ候ふ」とあり、蓮如上人は『安心決定鈔』を熟読されていたのであった。

 なお、『安心決定鈔』には種々の機法一体説が説かれ、西山派の生仏不ニの立場から、衆生の往生と仏の正覚の機法一体を説くのである。
蓮如上人も、

阿弥陀仏の、むかし法蔵比丘たりしとき、「衆生仏に成らずはわれも正覚ならじ」と誓ひましますとき、その正覚すでに成じたまひしすがたこそ、いまの南無阿弥陀仏なりとこころうべし。これすなはちわれらが往生の定まりたる証拠なり。されば他力の信心獲得すといふも、ただこの六字のこころなりと落居すべきものなり。『御文章(四帖の八』p.1179 (*)

と、機法一体を論じた後に、正覚を成じた果名の南無阿弥陀仏は、往生の「往生の定まりたる証拠なり」といわれるのだが、往生正覚の機法一体説はこれを使われない。かえって

「十劫正覚のはじめより、われらが往生を定めたまへる弥陀の御恩をわすれぬが信心ぞ」といへり。これおほきなるあやまりなり。そも弥陀如来の正覚をなりたまへるいはれをしりたりといふとも、われらが往生すべき他力の信心といふいはれをしらずは、いたづらごとなり。」『御文章(一帖の十三』p.1102 (*)

と、十劫正覚を憶念することを信心の体とすることは、これを十劫安心として否定しておられる。
 浄土真宗のご信心とは現在ただ今の信を指すのであり過去や未来に求めるものははないという意からであろう。 蓮如上人のご教化は信心正因一本槍で、なんまんだぶのお勧めがないという人もいるのだが「タスケタマヘ」や「機法一体」の教説を委細に窺えば、なんまんだぶが溢れているのであった。

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安心決定鈔 P.1382 解説