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無根の信

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むこんのしん

 煩悩心より生じた信でないこと。すなわち他力回向の信心をいう。(信巻 P.286)

出典(教学伝道研究センター編『浄土真宗聖典(注釈版)第二版』本願寺出版社
『浄土真宗聖典(注釈版)七祖篇』本願寺出版社

区切り線以下の文章は各投稿者の意見であり本願寺派の見解ではありません。

「信文類」で『涅槃経』を引いて、父殺しの阿闍世が、

阿闍世、無根の信を生ず
 〈世尊、われ世間を見るに、伊蘭子より伊蘭樹を生ず。伊蘭より栴檀樹を生ずるをば見ず。われいまはじめて伊蘭子より栴檀樹を生ずるを見る。
伊蘭子はわが身これなり。栴檀樹はすなはちこれわが心、無根の信なり。(信巻 P.286)

と、「伊蘭子」のような煩悩を縁として、「栴檀樹」のような信がおきることに譬える。これは仏の教化(本願力)によって新しく蘇った阿闍世を意味するのであろう。

「化巻」等で『如来会』を引いて、

仏、弥勒に告げたまはく、もし衆生ありて、疑悔に随ひて善根を積集して、仏智・普遍智・不思議智・無等智・威徳智・広大智を希求せん。みづからの善根において信を生ずることあたはず。 (化巻 P.379)
と本願力回向の信は「みづからの善根において信を生ずることあたはず」とある。仏智を疑いながらながら功徳を積んで、仏の智慧を願い求めるから、自ら積む功徳にとらわれて他力の信を生じることができないのである。